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陸軍の下士官礼装は実にシンプルだ。冬制服に白手袋をして、略綬や略章ではなく、勲章や記章を併佩する。そして、資格を示す徽章については、原則保有する全てを佩する。
功五級双光旭日章と武功章とイラク派遣に伴う従軍記章や各種功績による陸軍の記章、精勤章やレンジャーから始まり自由降下、冬季遊撃、スキー指導官、特級射撃、特殊戦技徽章を併佩した優は、濃緑色の陸軍制服を華やかに飾っていて、一見すると年功高い熟練の上級下士のようである。
年齢に不釣り合いに煌めく彼の功績の中にあって、最も新しいのは、先刻国防大臣より賜った功五級金鵄勲章だ。生存者への授与が希であることと、相応の勲功がある軍属でなければ授与されないことから、金鵄勲章を佩用している者は少ない。それこそ、陸軍の頭脳足る秀才集団である参謀本部に勤務する参謀将校や野戦将校でも、まず存在しないだろう。
今回イラク派遣にて授与された隊員は二名。戦闘偵察連隊の狙撃組だが、一名は既に他界した後。金鵄勲章はやはり英霊の元に贈られるものらしい。
戦闘偵察連隊が駐屯する南樺太駐屯地から飛行機で本島へ赴いている優は、式典会場のホテル内に確保されたシングルの一室に帰ると、華美なアクセサリーで重たい制服の上衣を椅子にかけ、制帽を寝台に投げた。一人が宿泊するには上等な一室は、優には少し広すぎた。
孤独は好きだが、広すぎる空間は虚無感を覚える。だだっ広い空間に一人取り残されているような脅迫的な孤独よりも、手狭でしかし適度な狭さの中に感じる包括的な孤独のほうが心地よい。
ホテルで行われた記念会食を少しの愛想笑いとリップサービスで無難にやり過ごした優は、シャワーを手早くすませると、さっさと私服に着替えて、身なりを整えてた。髪にワックスを馴染ませてグレーのジャケットに袖を通せば、胸の内ポケットに護身用のタクティカルペンと、ディフェンダーと呼ばれるタイプのペンライトが仕込まれている以外は、何処にでも居る青年に化ける。
元々の顔の造形が良いためか、彼の私服姿は清潔感があって見映えが良い。
夜も十九時を回った都内。金曜日の夜と言うこともあってか、街は仕事終わりの週末を楽しむ会社員や若人で賑わっている。そんな中に紛れて、優は夜の新宿に埋もれていた。
迷いない足取りで、居酒屋や所謂男に夢を売るような業界の客引きをまったく無視して、一軒のバーに入店すると、カウンターでバーボンを頼み、ズッシリ重たいグラス片手に、二人掛のテーブルに歩む。
「っよ!久しぶり」
金曜日の夜。普段から人が多い店だったが、今日は特に賑やかな店の奥で、そこだけ避けるように人が居ない二人掛のテーブルには、占有するようにして先客がいた。無条件で他人を威圧する三白眼と、左の顎から頬にかけての切り傷の痕が、精悍な顔つきの印象を悪くさせる青年だ。
顔付きに似合わず気さくに挨拶した彼の対面に腰掛けると、優は無言で、彼が持つ半ばまで減った──恐らくソルティドッグであろうグラスに軽く鳴らして、一気に半ばまで喉に流す。ショットで一息に流し込む様な優に、彼は苦笑を浮かべる。
「相変わらず酒強いな……」
「こんなの序の口だ。市ヶ谷のお偉いさん相手に上手くないビール飲み続けてたんだから、口直しに丁度いい」
対面するガッチリとした筋肉質で強面の青年は、優と同年の陸軍下士官であり、数少ない優の友人だ。名は千葉英次。階級は2等軍曹だが、優秀な勤務成績と献身的な部隊への貢献と個人の輝かしい功績により、七月の定期昇任では、既に1等軍曹への昇任が確約されている。安全管理規則を無視した過酷で危険な訓練と、教官助教の極限を突き詰めた精神への執拗な責めに、毎年自殺を含めた死者が出る戦闘偵察連隊のレンジャー教育と旧第1空挺師団の基本降下過程と、一年間グアム島で特殊作戦教導隊により実施される特殊戦技教育を同期として共に耐え抜いた、親友以上とも言える関係だ。樺太に住む優よりも南方に住む英次とは、そう頻繁には会えないのだが、近況を報告しあって、時々互いに近くに居ればこうして二人で飲みに行く。
「お疲れさん。そういや、面接はどうだったよ?」
「ちょろいな。入隊する時に特務情報局に受けた尋問に比べたらどうと言うこともない」
「比べる対象それかよ……。まあ、最終選考の面接は形式的なものだしな。建前好きなお役所がやることだ。実質この面接は事実上の合格発表みたいなもんさ。で、希望は?」
「一応特殊作戦群で出したけど、まずもって無理だな」
「なら、春からは同じ職場かもな」
「特殊作戦支援隊だったか?」
「いや、特殊戦闘作戦本部だな」
ソルティドッグのグラスを空にした英次は、追加を頼みに財布を持ってカウンターへと向かう。酔いが回って陽気な雰囲気を表に出しつつも、しかし冷静さを忘れていない鋭さの残る眼差しは、英次が特殊な任務を担う隊員である自覚を忘れていない証だろう。
彼の略歴は個人の輝かしい功績に比例するように、一般隊員からしたら畏怖すら抱くものだ。陸軍の下士官育成学校である陸軍幼年学校を最年少で卒業すると、現在は改編がなされた第1空挺師団の偵察大隊に着隊、改編後は空から真逆な海の男なるべく海兵第3連隊の本部管理中隊へ転属。都心が恋しいと言って、海兵連隊転属直後に特殊部隊への転属を希望し、昨年からは特殊戦闘作戦本部で勤務している。
空の精鋭たる頭号空挺師団に始まり、呂宋島に駐屯地し東南アジア及び南方に目を光らせる水陸機動の尖兵たる海兵連隊、陸軍の中でも一握りしかし加わることが許されない特殊部隊で勤務している彼は、ある意味では本物の超人だ。
「けど、指名される位だったら、多分向こうは特戦辺りを当てるかも知れないぜ?」
「参謀本部が許すとは思えないけどな」
追加で同じものを頼んだ英次が、グラスの縁にまぶされた塩をなめながら言った。
優としては、正直なところ特殊戦闘作戦部の事務方勤務を期待しているのだが、矢張体を動かして実際に任務に携わらないのは、性に合わないのだろう。
結局のところ、いくら参謀将校としての勤務を目指しても、環境は何処までも現場で闘うことしか許さないのだろう。
それから暫く、互いに過去の教育での思出話や、職場の愚痴を店を三軒跨ぎながら言い合っていると、夜もすっかり更けった頃だった。英次は空挺時代からの彼女のアパートに帰ると言って、別れ際に「適当な女捕まえてホテル連れ込むなら、避妊はしっかりやっとけよ」と避妊具を優の胸ポケットにねじ込んで、新宿駅に消えていく。
避妊具ぐらい財布に常に入れているのだが、英次も中々心配性だ。
もらったコンドームを財布にしまうと、英次が言い当てたように、一夜の出会いを求めて、夜の新宿に溶けていった。
因みに余談だが、その夜は彼が宛がわれたホテルには帰らず、見事にワンナイトを過ごしていた。
数年越しの実家で迎える休みは、巴にとって充実した内容だった。朝は早朝から駆け足と体力調整の筋トレをして、日中は専業主婦の母親と共に家事をし、夕方は愛車を乗り回し、夜は仕事終わりの父親と弟の晩酌に付き合う。 時間があれば庭で格闘の錬成をする。
駐屯地での日常よりも充実した規則的な生活は、戦地帰りの巴にとって程よいリフレッシュになっていた。
その日も、巴は日課の駆け足と筋トレを終えると、休みで家で寝ていた弟の早瀬幸助を叩き起こし、先日私物で購入したパンチミットとキックミットを持たせて、格闘の錬成に汗を流していた。
運動着のスウェットに汗を滲ませながら運動後のストレッチをする彼女の横で、汗だくになりながら縁淵でスポーツドリンクをがぶ飲みする幸助は、不意に言う。
「姉さん毎日これやってるの?」
「うん。駐屯地居るときはもう少し息上げるけどね」
「化け物かよ……。軍人って皆こうなの?」
「皆が皆やってる訳じゃないわよ。私は格闘指導官って資格持ってるから、格闘はよくやってるの」
水で溶いたプロテインを一息に流し込んだ巴は、タオルで汗を拭いながら、幸助の隣に腰掛ける。幸助は信じられないモノを見る目で無遠慮に彼女を見る。
「軍に興味あるの?|
「いや。ただ、姉さんの事ってあんまり知らないからさ」
確かに幸助とは、昔からあまり関わりを持たないようにしていた。自分と違って頭が良く、直向きに両親の期待に応えようとしている弟を見ると、彼の邪魔をしてはいけないと思うと同時に、不良な自分に後ろめたさを感じていたのだ。その感情から目を背けるように、家族とは疎遠になっていたが、そんな巴の思いとは裏腹に、幸助は彼女を慕っていた。もしかしたら、彼はシスコンだったのかもしれない。
「私の事、そんなに知りたい?」
「お母さんも知りたいわ。巴が体験した話」
いつの間にか、二人分の水出しの緑茶を用意して背後に座していた母親と弟の頼みでも、話したくない話はある。
渋面を浮かべた巴に、しかし母親は笑顔でデリケートな話題をふる
「彼氏とか居ないの?居るなら連れてきなさい」
「居ないわよ……」
「いい人くらい居るんでしょ?」
「姉さんなら引く手あまたじゃないの?」
「確かに良く話しかけられるし色目使われるけど……。私より劣る男なんて論外よ」
そう言うが、格闘指導官の空挺レンジャーに勝る男などまずもって限られてしまう。そして、巴よりも勝る男など、大抵は既婚者の中級陸曹、つまり2曹や1曹位の中高年になる。
若い男性でその水準を求めたら、特殊部隊やそれに準ずる部隊だろう。巴は異性に求める理想が高すぎるのだ。過去、彼女の理想に見合った男など、片手で数えられる程度だ。そして、その大半は身持ちが硬い既婚者だった。
最近で言えば、イラクで僅かな間だけ時間を共にした、戦闘偵察連隊の狙撃手だろうか。
そういえば、受勲の時に彼を見かけた。お互いに気付いているようだったが、自分も彼も常に高官に捕まって対応に追われていて、挨拶すら出来なかった。
連絡先くらい聞いておけばよかった。
「なら、気になる人も居ないんでしょうね」
少し気落ちしたように演じる母親に、「悪かったわね、理想が高くて」と、頬を膨らませながら言うと、彼女は汗を流しに、風呂へと向かった。




