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matataki

この決意に~続・またこの食卓で繰り返されるのではないか

作者: 大橋 秀人

 瞬くと、食卓の向こうで鯖の塩焼きを突っつく美奈子がいた。彼女はとても綺麗に魚を食べる。ゆっくりと。俺はその姿を見てみぬフリをする。野球中継が映し出されるテレビの方へ顔を向けながら、その繊細で丁寧な箸使いを飽きもせず眺めている。

「また、遅いって思ってるでしょう」

 顔を上げた美奈子は少しだけ頬を膨らませる。

「そんなことない」

 笑いながら否定すると、彼女はムキになって箸を進める。

「焦らなくていいよ。ゆっくり食べて」

 そう言って中継に気を取られた風を装う。俺が見ていると彼女が食べづらいだろうから。

 外は、雨。画面の向こうの野球場にも雨が降っている。今日は日本全国が雨模様だった。でも俺は雨がキライではなかった。正確には、美奈子と一緒にいる雨降りの日が好きだった。同じ食卓を彼女と囲んでいると、ひどく静かで、穏やかで、居心地が良かった。

 それなのにどうして俺は、美奈子を裏切ってしまったのだろう。雨どいを止め処なく滴り落ちる雨を見ていると、そういう想いが頭を擡げてくる。決して愛情が醒めていたわけではない。恋愛感情と反比例するように愛情は時と共に確かに芽生えていた。それは少なくとも徐々に成長し、強固なものへ育まれていたと思っている。

 でも、俺は間違いを犯してしまった。初めから自分は浮気などしないと決め付けていた。元来、自分は奥手で人見知りで、打ち解けるまで相当の時間が掛かる性格だ。それに第一、女性が好意を抱いてくれるような顔立ちはしていないから、浮気などしたくてもできない。そんな風に簡単に考えていた。

 しかしその時は突然やってきた。その日までの俺は仕事にプライベートに大事が重なり、多忙を極めていた。ひと月かけて作り上げた資料をプレゼンするコンペが開かれ、その打ち上げでシコタマ飲まされた。成功をつまみに飲む酒は格別だったが、蓄積された疲れのせいか、いつしか記憶が曖昧になった。そして朝起きると、取引先チームの中でも目立たなかった女性が背を向けて眠っていた。

 俺はその若く張りのある白い背中を見ながら、昨夜のことを断片的に思い出した。同じく泥酔していた女性を送っていったこと。まともに歩けなかったから肩を貸してベッドまで移動したこと。足がもつれてベッドに倒れこんだこと。女性が俺に抱きつき離れなかったこと。キスをして、もう後戻りができなくなったこと。鈍痛の絶え間ない頭に後悔の念がじわりじわりと詰め寄ってきた。

「なに考えているの?」

 ふと気づくと美奈子がこちらを遠慮がちに見ていた。何気なく発せられた言葉の端に、微かに怯えたような感情が読み取れた。

「いや、なんでもないよ」

 笑いながら食べ終えた食器を重ね、キッチンに持っていく。スポンジにつけた洗剤を入念に泡立てながら、時折見せるようになった彼女のその表情や仕草のことを考える。浮気を告白してから向こう、美奈子はその雰囲気を出すことが時折あった。きっとそれは怒りであり、失望であり、不信であった。彼女はそれらの俺に対する負の感情をどこかで抱きつつ、努めて平静を装っていた。美奈子が、俺の浮気を本当の意味で許せていないことは明白だった。

「今度の休みさ、久しぶりにどっか行こうか」

 でも、だからと言って、俺は彼女が抱く感情についてとやかく口出しできる権利があるわけでもない。自分にできることは唯一、そのわだかまりがなくなるまで誠意を持って接していくということだ。

「どっかって、どこよ」

「そうだな、日帰りで行けそうなところがいいな」

 俺は努めてはしゃいで、彼女の不安を取り除いてやる。

「温泉とか?」

「なんだよそれ、俺達どれだけ落ち着いてんだよ、老夫婦か」

 そんな俺の軽口に美奈子は口を尖らせて笑う。

「馬鹿みたいに笑えるところがいいな」

「遊園地とか?」

「いいね、それ」

「ジェットコースターとか?」

「それはムリ」

 俺がジェットコースターが苦手なことを知っていながら彼女は意地悪そうにそんなことを言う。とても幼くなるその表情が俺は好きだった。

 その後も俺達は次の休日のプランを語り続けた。食卓には山盛りのキャンディチーズと、一本のワイン。雨の日の、ひどく穏やかな時間だった。それはこの食卓で幾度となく繰り返された愛しい光景だった。俺と美奈子が育んできた愛の形だった。

 その光景を俺は一度壊している。そして彼女に今も振り払えない負のイメージを植えつけてしまった。でも、それでも俺は美奈子と一緒にいたいのだ。きっと一つのトラウマになる光景も日常の愛情のある光景を重ねることによって徐々に薄められていくに違いないのだ。

 俺は美奈子と生きていくと決めた。言い訳をするつもりはないが、浮気をすることでそれが確かな想いに変わった。何年かかろうと、俺は彼女の屈託のない笑顔を取り戻そうと思っている。

 徐にグラスを掲げると、俺は口を開いた。

「なあ、乾杯しないか」

「なんで?」

「いいから、乾杯しよう」

 この決意に。

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