完全なるプレコスミオン
某何処かの世界にて。
そこは、地図にない場所だった。
アーデルム大陸でもない。
暗黒宇宙でもない。
神々の座でもない。
夢でも、死後の世界でもない。
ただ、世界が世界になる前に、一瞬だけ通り過ぎる場所。
灰色の水平面が、どこまでも広がっていた。
空はない。
地面もない。
だが足元には、確かに立っている感覚がある。
時間は流れていない。
それなのに、沈黙だけが古びていた。
その灰色の中心に、七つの石椅子が並んでいた。
始祖評議会。
創成の直後、まだ歴史という言葉さえ存在しなかった時代に生まれた、最古の評議会。
彼らは王ではない。
神ではない。
英雄でもない。
だが、王が滅び、神の名が変わり、英雄譚が灰になった後も、彼らだけは世界の底に残り続けた。
七つの座。
第一座、沈黙のオルヴァン。
第二座、記録者メルキア。
第三座、灰冠のセレノア。
第四座、黒曜のラグナス。
第五座、星暦師イオル。
第六座、祈らぬ聖女エルシア。
そして、第七座。
そこだけが、空いていた。
誰も座っていない。
誰の名も刻まれていない。
だが、その空席こそが、評議の中心にあった。
六人の始祖たちは、円陣の中央を見つめていた。
そこに、ひとつの球体が浮かんでいる。
青白く透き通った膜。
その内側を走る金色の細線。
無数の光点。
星でもなく、細胞でもなく、記憶でもないもの。
それは、世界になる前の世界。
プレコスミオン。
前世界状態。
まだ大地も海も持たず、時間も空間も分かたれておらず、生命も死も、光も闇も、言葉になる前のもの。
すべての可能性を孕んだ、世界の卵だった。
メルキアが、光の記録板を開いた。
「対象確認。前世界状態、安定領域内に固定」
ラグナスが低く言った。
「ようやくだ」
イオルの瞳に、星図のような光が浮かぶ。
「このプレコスミオンを制御できれば、失われた世界の再構築も可能になる。暗黒宇宙の浸食も、ルランの箱の反応も、すべて抑えられる」
セレノアが静かにうなずいた。
「不完全な世界は、いずれ崩れます。ならば、我らが完全なる前世界状態を手に入れ、正しい世界へ導くしかありません」
祈らぬ聖女エルシアは、胸元で手を組まなかった。
彼女は祈らない。
祈りが届かなかった時代を、知っているからだ。
「完全なるプレコスミオン。それこそが、我らが求め続けた始まりの器」
沈黙のオルヴァンが、ようやく目を開いた。
「始めよ」
その一言で、六つの座から光が伸びた。
青。
銀。
黒曜。
灰。
星暦の白。
祈りなき透明。
六つの光は、中央のプレコスミオンへ絡みつき、その外殻をゆっくりと拘束していく。
世界の卵が、わずかに震えた。
その震えは、悲鳴ではなかった。
だが、誰かが息を呑んだ。
メルキアだった。
「待ってください」
ラグナスが眉を寄せる。
「どうした」
「内部構造に、異常があります」
「異常?」
記録板に映し出されたプレコスミオンの断層図が、ひとつずつ開かれる。
光の膜。
記憶の層。
未生成の大陸核。
因果律の種子。
観測前の魂格子。
その奥に。
黒い線があった。
細い傷のように見えた。
だが次の瞬間、その黒線はゆっくりと広がった。
亀裂だった。
プレコスミオンの内側から、外側へ向かって走る、深い裂け目。
まるで世界の卵が、まだ孵化する前に割れかけているようだった。
イオルの星図が乱れる。
「前世界裂孔……?」
セレノアの顔から血の気が引いた。
「ありえません。前世界状態に裂け目が残っているなど」
ラグナスが立ち上がる。
「封じろ」
「まだ解析が」
「封じろと言った」
黒曜の光が強まる。
だがその瞬間、亀裂の奥から、何かが覗いた。
それは闇ではなかった。
暗黒でもない。
もっと薄く、もっと冷たく、もっと何もないもの。
虚無に近い世界。
世界の裏側。
まだ生まれなかったものたちが、形を得られず漂っている場所。
言葉にならなかった願い。
誰にも選ばれなかった未来。
生まれる前に捨てられた祈り。
名前を持たず、記録にもならず、ただ存在の手前で沈んでいるものたち。
そこには星がなかった。
だが、星になれなかった光だけが、かすかに蠢いていた。
エルシアが小さく呟く。
「裏世界……」
メルキアの声が震えた。
「裏世界は、存在しないはずです。創成時に切り離された未成立領域は、すべて消去されたはず」
オルヴァンが低く言った。
「消去されたのではない」
六人の視線が、沈黙の第一座へ集まる。
オルヴァンは、プレコスミオンの亀裂を見つめたまま続けた。
「見ないことにしただけだ」
その時だった。
灰色の空間に、青銀の光が落ちた。
静かだった。
あまりにも静かだった。
だからこそ、全員が気づいた。
呼ばれていない者が、そこに現れたことに。
光は細く伸び、人の姿を形作る。
長い髪。
星の影を纏う衣。
透き通るような眼差し。
フィリス=アルス=ドヴォルザード。
彼女が一歩踏み出した瞬間、評議の空気が変わった。
誰も剣を抜いていない。
誰も叫んでいない。
だが、六人の始祖たちは、無意識に身構えていた。
フィリスは笑っていなかった。
ただ、そこに立っているだけだった。
それだけで、まるで別の宇宙が入り込んできたような威圧感があった。
ラグナスが低く問う。
「なぜ、ここにいる」
フィリスは答えない。
エルシアが言う。
「ここは、あなたが入ってよい場所ではありません」
「そう」
フィリスは、ようやく口を開いた。
「でも、入れたわ」
その一言だけで、エルシアは沈黙した。
メルキアが記録板を開く。
「侵入経路、不明。座標干渉、不明。観測痕跡、記録不能」
フィリスは、中央のプレコスミオンを見た。
そして、亀裂を見た。
「綺麗やね」
ラグナスの目が鋭くなる。
「何を言っている」
「その裂け目や」
「これは欠陥だ」
「違う」
フィリスは静かに言った。
「それが、正しい状態」
その瞬間、評議の場が凍った。
セレノアが立ち上がる。
「裂けている状態が、正しい?」
「そう」
「世界の卵に傷があるのですよ。そこから裏世界が侵入すれば、創成構造は崩壊する」
「確かに崩壊するかもしれへん」
「ならば、なぜ」
フィリスは、ゆっくりと歩き出した。
七つの座の中心へ。
誰も止められなかった。
彼女はプレコスミオンのすぐ近くで立ち止まり、亀裂の奥を覗き込む。
そこには、ほとんど虚無に近い裏世界があった。
光になれなかったもの。
物語になれなかったもの。
名前に届かなかったもの。
フィリスは囁くように言った。
「そこに集った思いは、どんなものだったのかや」
誰も答えなかった。
フィリスは続ける。
「世界に選ばれなかったものたち。創成から落ちた声。誰にも記録されなかった祈り。あなたたちは、それをただの侵入者と呼ぶんか?」
ラグナスが怒気を込めて言う。
「裏世界は虚無だ」
「ほとんどはね」
「ならば封じるべきだ」
「ほとんど虚無だからこそ、そこに残ったものは強い」
フィリスは振り返った。
その瞳には、青銀の星が沈んでいた。
「何もない場所で、それでも消えなかった思いよ。世界の内側で守られてきた願いより、ずっと深い」
イオルが星図を広げる。
「詩的な言葉では、世界は守れない」
「せや。だからあなたたちは椅子に座っているんや」
「我らは均衡を守っている」
「違うわ」
フィリスの声が、わずかに冷えた。
「あなたたちは、都合の悪い始まりを修復と呼んで塞いできただけ」
エルシアが静かに言う。
「今は議論の時ではありません」
メルキアもうなずく。
「前世界裂孔の拡大を確認。裏世界からの干渉波、増大。侵入の危険があります」
ラグナスが手を上げた。
「一刻も早く裂け目を修復しろ」
六つの座が、再び光を放つ。
プレコスミオンの外殻に、封印術式が走る。
亀裂の周囲に、白い縫合線のような光が現れた。
だが裂け目の奥で、何かが蠢いた。
黒い影。
形はない。
だが、こちらを見ているようだった。
セレノアが叫ぶ。
「侵入体、確認」
イオルが言う。
「未成立存在です。まだ名を持っていない」
ラグナスが命じる。
「消せ」
フィリスが、静かに言った。
「消さないで」
誰も聞かなかった。
黒曜の光が放たれ、裂け目の奥へ走る。
影は一瞬だけ震えた。
悲鳴は聞こえなかった。
だが、プレコスミオン全体が大きく脈打った。
まるで世界の卵そのものが、痛みを覚えたように。
フィリスの表情から、初めて笑みが消えた。
「……あなたたちは、まだ分かっていない」
ラグナスが睨む。
「分かる必要はない。我々が求めるのは、完全なるプレコスミオンだ」
「完全?」
フィリスは、その言葉を噛みしめるように繰り返した。
「裂け目のないものが、完全だと思っているの?」
「当然だ」
「傷のない世界。裏側のない世界。忘れられたものが戻ってこない世界」
フィリスは、第七座を見た。
空席。
そこだけが、まるで何かを聞いているように沈黙していた。
「そんなものは、完全じゃないわ」
エルシアが問う。
「では何だと言うのです」
フィリスは、プレコスミオンに手を伸ばした。
触れはしなかった。
ただ、亀裂の前に手をかざした。
「死んだ世界よ」
その言葉に、六人は沈黙した。
灰色の空間に、裏世界からの冷たい風が流れ込む。
風など存在しない場所なのに。
フィリスの髪が、静かに揺れた。
「世界は、閉じているから生きているんじゃない。裂けて、それでも壊れずにいるから、生きている」
「詭弁だ」
「そうね。あなたたちから見れば」
フィリスは振り返る。
「でも、あの裂け目がなければ、世界は自分の裏側を知らない。自分が何を捨てて成立したのか、永遠に思い出せない」
メルキアが低く言った。
「思い出せば、世界は崩れる」
「崩れるかもしれない」
「ならばなぜ」
「崩れないためだけに存在する世界に、意味はあるの?」
その問いは、場に落ちた。
重く。
冷たく。
そして、誰にも拾われなかった。
始祖たちは、問いを無視した。
ラグナスが命じる。
「封印を続行する」
セレノアが術式を重ねる。
「裂孔周辺、凍結」
イオルが星図を固定する。
「未来分岐、修復領域へ誘導」
エルシアが、祈らぬ手をプレコスミオンへ向ける。
「裏世界からの侵入を遮断します」
メルキアが記録板に刻む。
「目的、完全なるプレコスミオンの獲得」
フィリスはそれを見ていた。
悲しそうでもなかった。
怒っているようでもなかった。
ただ、遠くから雨を見る人のような目をしていた。
「あなたたちは、また同じことをするのね」
オルヴァンが初めてフィリスへ視線を向けた。
「また、とは何だ」
フィリスは答えなかった。
かわりに、第七座を見た。
空席の石に、かすかな亀裂が入っていた。
先ほどまではなかったものだ。
メルキアが息を呑む。
「第七座が……」
ラグナスが叫ぶ。
「フィリス。何をした」
「何も」
フィリスは静かに言った。
「ただ、問いを置いただけ」
「問いだと?」
「ええ」
彼女は、プレコスミオンの裂け目を見つめる。
その奥の虚無が、わずかに揺れた。
まるで、誰かが向こう側から返事をしたように。
フィリスは言う。
「そこに集った思いは、どんなものだったのか」
灰色の世界が震えた。
七つの座が、わずかに軋む。
プレコスミオンの裂け目から、黒でも白でもない光が漏れた。
それは暗黒ではない。
光でもない。
記録されなかった始まりの色だった。
オルヴァンが、かすれた声で言う。
「やめろ」
フィリスは首を傾げた。
「怖いの?」
「それは、世界が聞いてはならない問いだ」
「違うわ」
フィリスは、青銀の光の中で微笑んだ。
「世界が、ずっと聞きたかった問いよ」
その瞬間、プレコスミオンの亀裂が閉じかけた。
評議の術式が成功したのではない。
亀裂そのものが、自分の意志で口を閉ざしたようだった。
まだその時ではない。
そう告げるように。
ラグナスは深く息を吐いた。
「封印は?」
メルキアが確認する。
「完全ではありません。裂孔は残っています。ただし、表層からは不可視化されました」
セレノアが言う。
「ならば、まだ間に合います。完全化の儀式を急ぎましょう」
イオルの星図に、新たな分岐が浮かぶ。
そこには、まだ名のない文字が刻まれていた。
――第二の鍵、共鳴。
エルシアが目を細める。
「鍵が反応した……?」
フィリスは、もう背を向けていた。
青銀の光が、彼女の周囲に開いていく。
門ではない。
空間が、彼女を通すために形を変えているだけだった。
ラグナスが叫ぶ。
「待て。お前は何をしに来た」
フィリスは振り返らない。
「見に来ただけよ」
「何を」
彼女は、少しだけ空席の第七座へ顔を向けた。
「始まりが、まだ死んでいないかどうか」
そして最後に、こう言った。
「完全な卵は、生まれないわ」
青銀の光が閉じる。
フィリスは消えた。
残されたのは、六人の始祖。
七つの座。
空いた第七座。
そして、裂け目を隠したプレコスミオン。
ラグナスが歯を食いしばる。
「完全化を急げ」
メルキアが記録する。
「第38評議記録。対象、プレコスミオン。状態、不完全。裂孔、不可視。裏世界干渉、継続」
セレノアが呟く。
「不完全な前世界状態など、あってはならない」
エルシアは、プレコスミオンを見つめたまま言った。
「けれど……」
誰も彼女の続きを聞かなかった。
聞くべきではないと、全員が知っていた。
なぜなら、祈らぬ聖女エルシアの目には、確かに映っていたからだ。
裂け目の奥。
ほとんど虚無に近い裏世界。
その中で、消されたはずの影が、まだこちらを見ていた。
そして。
空席の第七座の亀裂から、黒い光が一滴だけ落ちた。
それは床に触れる前に消えた。
だが灰色の世界の底で、誰かの声が響いた。
創成の前に、暗黒あり。
暗黒の前に、裂け目あり。
裂け目の奥に、名を失った思いあり。
そして世界は、まだそれを知らない。




