暗黒宇宙からの来訪者
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第31章
第一章 最上層の球体
ゼルクから渡された第一の鍵は、見た目以上に重かった。
金属でも結晶でもない。
だが手のひらへ乗せると、内部に何か密なものが詰まっている感触がある。細かな螺旋文様が表面に走り、角度を変えるたびに青にも黒にも見える不思議な光を返した。
主人公はその鍵を握ったまま、ヘリックス・コア中層の最奥へ目を向ける。
中層ボスを撃破したことで開いた通路は、上ではなく、さらに内側へと続いていた。
螺旋の中心。塔の心臓部。
そこへ降りていくような感覚だった。
「……行くか」
主人公が言うと、タクトとテトラも短くうなずいた。
三人は慎重に最終通路を進む。
壁面には依然としてログが走っている。
だが中層までのそれとは少し違う。
戦闘用の表示ではない。もっと大きく、もっと広いものを観測している記録だった。
地殻応答 正常
微小震動補正 稼働
気象変換層 安定
地下水圧 調整域
生体環境適応率 記録中
タクトが低く言う。
「……嫌な予感の方向が変わってきたな」
「戦闘施設というより」
テトラは前を見たまま言った。
「世界の一部を丸ごと管理するための場所みたい」
主人公はそこで、ゼルクが最後に渡してきた鍵を見下ろした。
最上層を開く鍵。
ただの扉ではない気がした。
もっと大きな何かを起動するための鍵。
そういう手触りがある。
通路の先で、最後の隔壁が現れる。
そこには鍵穴ではなく、円形の差し込み口があった。
人間の手元で使う鍵穴より明らかに大きい。まるで、鍵そのものが装置の部品として想定されているような形だ。
主人公は、そこで一瞬だけ息を止めた。
「……これ」
「どうした?」とタクト。
主人公は目を細める。
「形が似てる」
「何に?」
「夢で見た球体の、円環の切れ目に」
テトラの表情がわずかに引き締まる。
「差し込んでみて」
主人公は黙ってうなずいた。
第一の鍵を、円形の差し込み口へゆっくりと入れる。
ぴたり、と収まった。
次の瞬間。
ブォオン、と低い音が塔全体に響いた。
壁が震える。
床がわずかに揺れる。
そして隔壁が左右へ割れるように開いた。
三人は、その向こうの光景に一瞬言葉を失った。
最上層の中心にあったのは、巨大な球体型装置だった。
ただ大きいだけではない。
何階層分もの空間をぶち抜くように据えられた球体で、表面を複数のリングが回っている。
その輪郭は、昨夜主人公が夢の中で見たゼロスフィアにあまりにもよく似ていた。
もちろん同じではない。
夢のゼロスフィアのほうがもっと深く、もっと静かで、もっと叡智そのものの気配を持っていた。
だが、目の前の球体はそれを模した工学装置だと直感できた。
「……ゼロスフィア」
主人公が無意識に呟く。
タクトがすぐに反応する。
「違うな」
「似てるけど、こっちは人工物だ」
「でも、似すぎてる」
主人公は言った。
「夢の球体を見たあとじゃ、偶然には思えない」
第一の鍵が差し込まれたまま、装置の表面に光が走る。
球体の各部が淡く発光し、外周リングがゆっくり回転を始めた。
その直後、空中に複数の画面が起動した。
一枚。
二枚。
十枚。
さらにその数は増える。
そこに映し出されたのは、アーデルム大陸だった。
上空からの地形図。
都市網。
複数の拠点分布。
地下構造モデル。
天候変動の推移。
局所的な気圧変化。
地震記録。
水脈。
断層。
人口分布。
植物相。
大気粒子濃度。
情報量が多すぎて、最初は何を見せられているのか分からなかった。
主人公はしばらく無言で画面群を見つめる。
タクトも、テトラも、すぐには言葉が出ない。
やがて主人公が、低く呟いた。
「……これ」
「地球物理学」
タクトが言葉を継いだ。
「いや、もっと広いな」
「気象、地質、資源、都市、生体環境まで含めた……」
「究極の環境制御装置」
テトラが小さく言った。
三人の視線が、同時に巨大球体へ戻る。
アーデルム大陸全体を監視し、解析し、変化させるための装置。
天候も、地震も、水も、地形も、都市の配置も、ひょっとしたら生命圏さえ。
そこまで理解した瞬間、主人公の背筋に冷たいものが走った。
「つまり……」
主人公はゆっくり言う。
「こいつの目的は、アーデルム大陸を乗っ取って、環境そのものを支配することか?」
空中に映るデータの一部には、さまざまな条件下での試験結果が表示されていた。
低圧環境生成 成功
高湿度密林帯形成 成功
局地地殻隆起 成功
無菌高層気候圏 成功
人工重力偏向域 成功
どうやら、様々な環境を作り出す実験にはすでに成功しているらしかった。
アルテシス。
ヘリックス・コア。
ゼルク。
環境適応試験。
ここは単なる近未来ダンジョンではない。
大陸そのものを一つの実験場として扱う装置群だった。
そのときだった。
最上層の奥、球体装置の向こう側から、ゆっくりと足音が響いた。
規則的ではない。
けれど迷いのない足取り。
三人が同時に振り向く。
そこに、一人の女が立っていた。
黒に近い深紫の衣装。
裾の長い外套。
胸元や袖口に、見たことのない幾何学模様が銀糸のように刺繍されている。
髪は長く、夜色の中へ青を溶かしたような色合いだった。
美しい。
だが、その美しさはこの世界のものではないような、微妙なずれを含んでいる。
主人公の手が、自然に剣へ伸びた。
「……あなたは!?」
女は、わずかに口元を上げた。
「フィリス=アルス=ドヴォルザード」
静かな声だった。
「フィリスとでもお呼び」
その名には、どこか古くて硬い響きがあった。
タクトが一歩前へ出る。
「どうして、あなたのような方がここにいる?」
フィリスは、問いに対してすぐには答えなかった。
代わりに、球体装置へ指先を滑らせるような仕草を見せる。
「わいらの目的は、また別」
関西とも違う、不思議に揺れる言い回しだった。
この宇宙の方言ではないのかもしれない。
それでも意味だけははっきり届く。
「アーデルム大陸の環境保全やない」
彼女は言う。
「そんなきれいな話やあらへん」
「暗黒化や」
「この大陸を、闇の大陸にしてしまっちゅうことや」
その瞬間、最上層の空気が一気に冷えた。
主人公の目が細くなる。
「……暗黒化」
その単語は聞き覚えがありすぎた。
ダークイベント。
黒化。
裂け目。
別宇宙の裏面から伸びてきた手。
全部がそこへ結びつく。
フィリスは、主人公の反応を静かに見ていた。
「そう身構えんでもええ」
「うちらにとっては、生き残るための手段でしかない」
タクトが鋭く言う。
「うちら、だと?」
フィリスは少しだけ目を伏せ、それからまっすぐ三人を見た。
「私は別宇宙からやってきた来訪者」
「私の宇宙は、危機に瀕しておる」
部屋が静まり返る。
彼女の言葉には芝居がなかった。
むしろ、疲れきった現実をそのまま告げるような乾いた重みがあった。
「あなたらの観測宇宙と違って」
フィリスは続ける。
「うちらの宇宙は安定してへん」
「すぐにものは弾けるし、形は長う保てん」
「毎回、アイテールを使わなあかん」
主人公の眉がぴくりと動く。
「アイテール……」
「そうや」
フィリスは頷く。
「ある程度、ものを安定させる技術だけが発達した」
「けど、それだけや」
「世界そのものが揺らいどる」
「あなたらには見えへん、別の宇宙や」
彼女の背後で、球体装置の一部画面が暗く反転する。
そこには一瞬だけ、ひび割れたような暗い空間が映った。
色の定まらない地平。
弾ける建築。
泡立つ地面。
何かを維持するために、必死で抑え込まれた不安定な宇宙。
主人公は無意識に息を呑む。
「……じゃあ」
主人公が言う。
「この装置で、大陸環境を支配して、そこをお前らの宇宙に変える気か」
フィリスは首をわずかに傾けた。
「支配、という言葉は好かん」
「けど、近いな」
その返答は否定になっていなかった。
「ダークポータルが、たまたま開いていた」
フィリスは静かに言う。
「このワールドストーリーへログインできたんも、何かの縁や」
「最初は、ただの観測やった」
「けど、見てもうたんよ」
彼女は球体装置を見上げる。
「この球体装置を使えたら、もしかしたらうちらの宇宙も救えるかもしれん、と」
タクトが険しい顔になる。
「救うために、こっちを黒く染めるのか」
「救うためには、媒質が要る」
フィリスは言った。
「安定した大陸、安定した環境、安定した重力場」
「あなたらの世界には、それがある」
主人公はそこで、初めてこの球体装置の本当の怖さを理解した。
これは大陸を守る装置ではない。
大陸を変える装置だ。
環境を制御するだけではない。
別宇宙の存在が生存できるように、こちら側を再設計するための装置だ。
暗黒化。
黒化。
闇の大陸。
それは単なる破壊ではない。
置換だ。
テトラが低く言った。
「……この人たち、黒化を災厄としてやってるんじゃない」
「移植の準備としてやってる」
フィリスは、その言葉に少しだけ目を細めた。
「賢い子やな」
主人公の中で、何かが硬くなる。
アストラはプライマーチシステムを狙っていた。
だがこの女は、もっと別の方向から来ている。
別宇宙の生存圏そのものが、こちらを足場にしようとしている。
「ふざけるな」
主人公が低く言う。
「救いたいからって、こっちの世界を塗りつぶしていい理由になるかよ」
フィリスは少しだけ寂しそうに笑った。
「ならへんな」
「けど、理由がなくても、滅びるもんは滅びる」
その一言には、ぞっとするほどの諦めがあった。
「わいらは選ばなあかんかった」
彼女は言う。
「消えるか、染めるか」
主人公は剣を握り直す。
この相手は、単純な悪人じゃない。
だが、だからこそ厄介だった。
自分の宇宙を救うために、こちらを侵す。
その理屈を持っている相手は、ただ壊したいだけの敵よりずっと怖い。
タクトが一歩前へ出る。
「そのために、ダークイベントも黒化も起こしたのか」
フィリスはすぐには答えなかった。
その沈黙が、ほとんど答えそのものだった。
「全部がうちらやない」
やがて彼女は言った。
「けど、少なくとも無関係ではあらへん」
主人公の背筋を、嫌な確信が走る。
ミラーダンジョンの黒化。
古代の壁画。
裂け目から伸びた手。
全部が、同じ線で繋がっていく。
最上層へ来て、ようやく敵の一端に触れたのだ。
フィリスは球体装置のそばへ半歩下がった。
「第一の鍵を入れてもうた以上、この装置はもう眠らへん」
「せやから、ここから先は分岐や」
「あなたらが止めるか」
「うちらが使うか」
その言葉と同時に、球体装置の表面に黒い筋が一本だけ走った。
暗黒化が、もうこの装置へ触れている。
主人公は低く息を吐く。
「……だったら、答えは一つだ」
タクトが補助ウィンドウを開く。
テトラが杖を握り直す。
最上層の空気が、再び戦闘前の緊張へ変わっていく。
フィリスは静かに笑った。
「やっぱり、そうなるよな」
巨大球体装置が低くうなり始める。
アーデルム大陸を映していた画面群が、一枚ずつ黒へ染まり始めた。
未来都市アルテシスの深部で、
環境を司る球体と、
別宇宙の来訪者と、
この世界を守ろうとする三人が、
ついに真正面から向き合った。




