その夢は本当に夢か?
第29章
第一章 夢はどこにある
「昨日、変な夢を見たんだよ」
朝の光はまだ薄かった。
窓の外の都市は起ききっていない。高層ビルの壁面広告も夜の派手さを引きずったまま、少し眠たそうに色を変えている。
部屋の中央では、紙コップのコーヒーを持ったタクトが、いかにも面倒そうな顔で主人公を見た。
「ゲームのやり過ぎだろ」
あまりにも早い結論だった。
「夢は記憶の整理だ」
タクトはさらっと続ける。
「古代ダンジョン行って、意味不明な人工言語見て、壁画見て、帰って、そのまま寝たんだろ。だったら脳が勝手に情報を混ぜたってだけだ。あまり気にするな」
主人公は少しだけ眉を寄せた。
「夢にしてはおかしかったんだよ」
「夢なんて大体おかしい」
「そういう意味じゃない」
タクトはコーヒーを一口飲み、椅子の背にもたれた。
まだ完全に聞く気になったわけではない。だが、主人公の声が妙に真面目なのは感じたらしい。
「……で、どんな夢だったんだ」
主人公は少し息を整えた。
頭の中に昨夜の映像が、まだ鮮明に残っている。
円環に巻かれた球体。
仮想実体みたいな透明な核。
その表面に刻まれた記憶文章。
七つの時代。
十三属性。
ありとあらゆる言語。
そして、ゼロスフィアという自然に浮かんだ名前。
「どう説明すればいい?」
主人公は低く言った。
「知らないはずの情報が、夢の中で得られるんだ」
「しかも、夢の中のものが現実に持ち込まれたみたいに、あの球体……ゼロスフィアが、現実の父さんの遺書に現れた」
そこで主人公は机の上の手紙を見た。
裏面に沈む、うっすらとした球体の輪郭。
昨夜以前には、確実になかったものだ。
「そんなこと、あり得るのか?」
主人公は言う。
「夢って個人的な空間なんだろ?」
タクトは少し黙った。
それから、今度はさっきより真面目な顔で口を開く。
「医学的に言えば、夢は個人的な現象だ」
「少なくとも今の理解ではな」
「睡眠中、脳は記憶の固定、感情処理、不要情報の整理、予測モデルの再学習をやってる」
「レム睡眠中は視覚連合野や辺縁系が活発になる一方で、前頭前野の論理制御は弱くなる。だから、筋の通らない映像や時間の飛躍が平気で起きる」
主人公は黙って聞いている。
タクトは指先で紙コップの縁を軽く叩きながら続けた。
「要するに、夢っていうのは、脳が持ってる断片的な記憶や感情や予測を、寝てるあいだに無理やり一本の体験へまとめたものなんだよ」
「現実の外から何かを受信してるっていうより、内側の再構成だ」
「少なくとも、今の医学はそう考えてる」
「宇宙と繋がってるって話もあるくらいだろ」
主人公はすぐに返した。
タクトは顔をしかめる。
「それは俗説だ」
「脳波と宇宙背景放射を並べてロマンを語るタイプの話はあるけど、まともな根拠があるわけじゃない」
「そんなのでたらめだ」
主人公の声が少し強くなる。
タクトが眉を上げた。
「どっちがだよ」
「全部だよ」
主人公は言った。
「夢は整理だとか、脳内再構成だとか、そういうのも、今見えてる部分を綺麗に説明してるだけだろ」
「でも、昨夜のは違う」
「知らない情報が出てきてる」
「しかも、それが手紙の裏面に反映されてる」
タクトはすぐには言い返さなかった。
否定したいのに、机の上の手紙がある以上、完全に切り捨てきれないのだろう。
主人公は言葉を続けた。
「でたらめでもいい」
「でもさ、僕たちの現実だって、本当に僕たちの現実か怪しいんだぞ」
部屋が少し静まった。
テトラは窓辺で黙って聞いている。
ナノカの投影は、わずかに光を揺らすだけだ。
タクトは小さく息を吐いた。
「……それでも」
彼は静かに言った。
「いいじゃないか」
「お前がいて、僕がいる」
「ここにいる。それでいいじゃないか」
その言葉は、理屈より先に胸に落ちる種類のものだった。
主人公は少しだけ目を伏せる。
タクトは続ける。
「現実が最終層かどうかなんて、正直、今の僕たちには確かめようがない」
「でも、少なくともいまここで会話してる。コーヒー飲んでる。お前が寝不足で、僕が呼び出されてる」
「それは本当だろ」
主人公は少しだけ苦く笑った。
「雑に強いんだよな、そういうの」
「雑じゃない」
タクトは言う。
「現実感って、案外そういうものだ」
そこで主人公はふと思い出す。
「サイコスキャンの履歴は見たか?」
タクトは肩をすくめる。
「見た」
「比較的穏やかだったよ」
「比較的、か」
「少なくとも発狂寸前みたいな波形ではなかった」
タクトは言った。
「強い認知負荷と、睡眠中の高密度夢活動は出てたけどな」
主人公は少し首を振る。
「でも、あれはあくまで表面をなぞる機械だろ」
「情動の振れ幅とか、ストレスとか、そういう上層しか見てない」
タクトは頷く。
「そうだ」
「サイコスキャンは便利だけど、万能じゃない」
「脳の意味生成の深部とか、夢の“内容そのもの”を完全に読むわけじゃない」
主人公はそこで、天井を見上げるように言った。
「もっと未来になれば、夢の正体も解き明かせるのか?」
タクトは少し考えた。
いつもなら即答しそうな問いだったのに、今回は間を置いた。
「……解析の精度は上がるだろうな」
「睡眠中の神経活動、記憶固定、感情処理、シミュレーション過程の可視化までは進むかもしれない」
「でも、“正体”って言い方をすると難しい」
「夢が何に使われてるかは分かっても、夢がどこから来る感じがするのか、そこは別問題かもしれない」
主人公は黙っていた。
それから、少しずつ言葉を探す。
「僕はこう考えてる」
タクトが視線を向ける。
「夢っていうのは、宇宙の限界を超えたところに、ちゃんと保存されてるんじゃないかって」
タクトが少しだけ目を細めた。
けれど茶化さなかった。
主人公は続けた。
「悪いことも、良いことも、幸せも、悲しさも、全部」
「どこかに保存されてる」
「いや……」
そこで主人公は、自分の言葉に自分で引っかかった。
「保存、というより」
「もっと大きくなってないか?」
「大きく?」とタクト。
「たとえば、僕が今日見た夢が、ただ僕の中に閉じてるんじゃなくて」
主人公はゆっくり言う。
「どこかもっと大きな場所で、他の何かと重なって、育って、別の意味になっていくみたいな」
「個人の夢のはずなのに、個人の中だけでは終わらないっていうか……」
タクトはコーヒーを置いた。
今度の沈黙は否定のためではなかった。
「……記憶の固定ってさ」
彼はゆっくり言う。
「単純に保存じゃないんだ」
「思い出すたびに再固定される。つまり、変わる」
「記憶は保存庫の中で眠るんじゃなくて、そのたびに再構成される」
主人公は顔を上げる。
タクトの声は静かだった。
「だから、“保存というより大きくなってる”って感覚は、完全に的外れとも言えない」
「医学の言葉に直せば、それは固定じゃなくて再構成であり、再統合だ」
「ただ、お前が言いたいのは、たぶんそれよりもっと外側の話なんだろ」
主人公は小さく頷いた。
「夢が、個人の脳を越えてる感じがするんだよ」
そこで、ずっと黙っていたナノカが口を開いた。
「一つ、補助的な仮説があります」
主人公とタクトが彼女を見る。
「夢は個人的です」
ナノカは言う。
「しかし、“夢の解釈に用いられる構造”が個人的とは限りません」
「どういう意味だ?」とタクト。
「主人公が夢の中で見た球体は、主人公の脳が生成した像である可能性があります」
「ですが、その像が応答した相手、すなわち手紙裏面の記憶文章構造は、個人の内側に閉じていない」
主人公の胸が小さく鳴る。
ナノカは続けた。
「つまり、夢は個人的であっても構いません」
「ただし、その夢が“何と噛み合ったか”は別問題です」
部屋が静かになった。
夢は脳の再構成かもしれない。
だが、再構成された夢が、手紙の奥にある何かと噛み合った。
その結果、ゼロスフィアの輪郭が現れた。
それなら、夢が宇宙そのものと直接つながっているとまでは言わなくてもいい。
けれど、夢がただの主観で終わらない場合があることは、少なくとも今ここにある。
主人公は手紙を見つめた。
「……やっぱり、ただの夢じゃない」
タクトは苦い顔で笑う。
「そこはもう、僕も否定しづらい」
「じゃあ認めるか?」
「認めるのは、“お前の見た夢に外部応答があった可能性”までだ」
「宇宙の外に夢の倉庫がある、とまではまだ言わない」
「倉庫とは言ってない」
「似たようなもんだろ」
主人公は少しだけ笑った。
タクトも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
重い話をしているはずなのに、そこでやっと部屋の空気が少しやわらいだ。
けれど、核心は残ったままだ。
夢は何だったのか。
ゼロスフィアはなぜ現れたのか。
父はなぜ「夢を持て」と書いたのか。
そして、その夢が次の場所を示しているのだとしたら。
主人公はゆっくりと手紙を閉じた。
「……近未来層、行くしかないな」
タクトは深く息を吐いた。
「結局そこに戻るのか」
「だって夢の中で、螺旋の中に宝があるって言われた」
「言われた、って表現がもう怖いんだよ」
テトラがそこで小さく言った。
「でも、行くべきです」
「いまの話を聞いて、なおさらそう思います」
主人公は頷く。
夢は曖昧だ。
不確かだ。
けれど、不確かだからこそ入り込める仕掛けがある。
父はそこに何かを埋めた。
アストラはそれを待っていた。
そして自分は、もうその輪の中に足を踏み入れている。
朝の光は、少しずつ強くなっていた。
次の行き先は、もう決まりかけている。




