命を救うということ
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第18章 前編 ヒーラーの卵
ログインの瞬間、主人公は少しだけ息を止めていた。
視界が暗転し、その直後にワールドストーリー特有の柔らかな光が広がる。
現実の目で見ているというより、意識の内側へ直接景色が差し込んでくるような感覚だった。
広場は年明けの熱をまだ引きずっていた。
色とりどりの旗が風もないのにかすかに揺れ、空には祝祭の名残のような粒子光が漂っている。
石畳には人の流れが絶えず、屋台や交換所の周辺ではプレイヤーたちが忙しそうに動き回っていた。
その群衆の中から、小さな影が一直線に駆けてきた。
「もーっ!」
テトラだった。
主人公が言葉をかけるより先に、テトラは目の前でぴたりと止まり、じっとこちらを見上げた。
怒っているようにも見えるし、泣きそうにも見える。
その両方が混ざったような顔だった。
「三日です! 三日もログインしなかったんですよ!?」
主人公は少し肩をすくめた。
「……悪い」
「悪いじゃないです!」
「心配したんですからね!」
勢いは強かったが、本気で怒っているというより、心配が先に立っているのはすぐにわかった。
三日ぶりに見るテトラの顔に、主人公はほんの少しだけ胸のつかえが軽くなるのを感じた。
そのとき、視界の隅に通知ウィンドウが開いた。
年越しログインボーナス 受取期限切れ
主人公は思わず顔をしかめる。
「……あ」
テトラがすかさず反応した。
「あ、じゃないです!」
「受け取ってないんですか!?」
「三日ログインしてなかったからな……」
テトラは額を押さえて、大げさなくらい深いため息をついた。
「信じられません……」
「この世界でログインボーナスを受け取らないなんて、ユニバーサルハイインカムを自分から捨てるようなものですよ?」
主人公の隣で、初ログインしたばかりのタクトが周囲を見回しながら言った。
「そんなに大げさなのか?」
テトラは勢いよく振り向いた。
「大げさじゃないです!」
「このワールドストーリーでは、ログインボーナスだけ受け取るために毎日入ってくるユーザーが一億一千万人いるんですから!」
タクトは一瞬だけ目を丸くした。
それから、広場の人混みを改めて見た。
「……それだけの人が、毎日この世界に入ってるのか」
「そうです」
「とてつもない数の人が、毎日ここに吸われてるんです」
その表現に、主人公は少しだけ苦笑した。
吸われている。たしかに、ある意味ではそうかもしれない。
現実の時間も、意識も、熱も、この世界は静かに飲み込んでいく。
そこでようやく、テトラの視線がタクトへ移った。
「……それで」
露骨に間があった。
「その人、誰です?」
主人公は、紹介がまだだったことに気づいた。
「タクト。小学生のころからの親友だ」
その瞬間だった。
テトラの周囲で、ばち、ばちばち、と小さな火花が散った。
本当にエフェクトが出たのか、主人公には一瞬判断がつかなかった。
だが少なくとも、空気がぴりついたのは確かだった。
「親友……?」
テトラはタクトを見た。
その目には敵意とまでは言わないまでも、妙な緊張感があった。
嫉妬とは少し違う。けれど、それに近い何かが、特別なNPCである彼女の中にも芽生えているように見えた。
タクトはその空気に気づいているのかいないのか、少しだけ困ったように笑った。
「どうも。タクトです」
「……テトラです」
挨拶は交わされた。
だが、空気はまだ微妙だった。
主人公は、それ以上火花が増える前に話を進めることにした。
「タクトは将来、医者を目指してる」
その一言で、テトラの表情が変わった。
「お医者さん!?」
「まだ目指してる途中だけどな」とタクトが肩をすくめる。
「医者そのものってわけじゃない」
「でも校内じゃトップクラスだぞ」と主人公が付け加えると、テトラは素直に目を見開いた。
「すごいです……!」
タクトは少し照れたように視線を逸らした。
「いや、そこまで言われると困るけど」
主人公はここで本題を出した。
「だから、ヒーラーをやってもらおうと思ってる」
今度はテトラが固まる番だった。
「ヒーラー……?」
「そう。俺がDPSで、テトラが前線補助寄り。そこにタクトが入れば、バランスはかなりいい」
テトラは口を開きかけて、一度閉じた。
そして明らかに不満そうに言う。
「……デュオでよかったのに」
主人公は思わず笑いそうになったが、どうにかこらえた。
タクトも少しだけ察したのか、声を殺して咳払いする。
だがテトラは、感情だけで反発しているわけではなかった。
すぐに真顔へ戻り、冷静に言った。
「でも、ヒーラーがいるなら話は別です」
「この世界ではヒーラーは本当に貴重ですし、中級ダンジョンの攻略幅も一気に広がります」
「初級帯のプレイヤーでも、戦略次第で一段上へ挑めるようになるんです」
タクトは周囲のUIを見ながら、小さく息を漏らした。
「ヒーラーって、回復魔法をかけるだけじゃないのか?」
「ぜんぜん違います」とテトラが即答した。
「このワールドストーリーのヒーラーは、人体に関わる知識が必要なんです」
その言葉に、タクトの目が変わった。
主人公はその反応を見逃さなかった。
案の定、タクトはもう興味を引かれている。
「どういうことだ?」
「同じダメージでも、筋損傷なのか、神経なのか、血管なのか、骨なのかで処置が変わるんです」
「ヴァーチャルアシストを使えば、どこが傷んでいるかはガイドしてくれます。だから誰でも始められます」
「でも」
テトラは少し得意げに胸を張った。
「卓越したヒーラーは、人体の知識をほとんど全部覚えているんです」
タクトは、食い入るようにその説明を聞いていた。
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第18章 後編 生命を救うために
「……そこまでリアルなのか」
タクトは半分、呆れたように。
けれどそれ以上に、はっきり興奮した声で言った。
主人公はその顔を見て、少しだけ笑う。
「説明を読まなくてもプレイはできる。でもお前、読むだろ」
タクトは迷いなくうなずいた。
「読む」
「覚えておきたい」
その返答はあまりにもタクトらしかった。
根が真面目で、勉強熱心で、興味を持ったものに対してはまっすぐ掘っていく。静かなのに芯が強い。そういうところが昔からあった。
ちょうどそのとき、目の前のシステムウィンドウが新規ヒーラー向けのチュートリアルを開いた。
基礎人体マップ
損傷部位識別
応急ヒール補正
生体循環補助
薬理調合初級
タクトは、その一つひとつを食い入るように見つめた。
「……すごいな」
「だろ」と主人公が言うと、タクトは小さく笑った。
「スマホゲーでだらだら遊んでた時間、ちょっと惜しくなってきた」
「もう少し早く出会いたかったな、これ」
テトラが補足する。
「人体知識を一定以上コンプリートすると、トロフィーももらえるんです」
「**『生命を救うために』**っていう名前です」
「トロフィー?」とタクト。
「ただ眺めるだけのものでもありますけど、ここでは意味が大きいんです」
「トロフィーは名声であり、実力なんです」
「見せているだけで、パーティに誘われることもあります」
タクトは真面目な顔でその説明を聞き終えてから、ぽつりと言った。
「いいな、それ」
「意外だな」と主人公が言う。
「そういうのに興味あるのか」
「名声そのものに興味があるわけじゃないよ」
「でも、どこまで勉強したかが形になるのはいい」
「努力が実力として見えるのは、嫌いじゃない」
やっぱりタクトはヒーラーで決まりだな、と主人公は思った。
「この職、薬の調合もあるんだろ?」
「あります!」とテトラが即答する。
「人体だけじゃなくて、化学知識も大事です。作用機序とか、成分の組み合わせとか、反応とか」
タクトの目がさらに光った。
「そこまであるのか」
「しかも進むと、見つけた新しいタンパク質とか、DNAとか、もっと高度な知識も関わってきます」とテトラ。
「この世界設定では、そのへんの理論はかなり発展してるんです」
「でも」と主人公が言う。
「さすがに最初から全部は無理だろ」
タクトは、そこでようやく少し冷静になった。
大きく息をつき、表示されている人体マップをもう一度見つめる。
「……まずは人体からだな」
その言い方に、主人公は少し安心した。
タクトは熱が入ると一気に行きがちだが、根っこは現実的だ。順番を間違えない。
テトラもうなずく。
「ヴァーチャルアシストがあるので、最初はそれで十分です」
「でも、知識を自分のものにすると補正が変わります」
「人体のパーツを正確に覚えると、ダメージを受けた場所に応じてヒール量も上がるんです」
「へえ」とタクト。
「ガイドをなぞるだけじゃ駄目なんだな」
「そうです」
「知っていることが、そのまま実力になるんです」
主人公はふと、テトラの言葉の奥にこの世界そのものの性質を感じた。
知識、理解、接続。
ただボタンを押すだけでは届かない何かが、ここには確かにある。
タクトはチュートリアルを流し見するのではなく、一つずつ本当に読んでいた。
筋骨格。
臓器。
循環。
神経。
損傷状態。
回復補正。
薬剤合成。
基礎の段階ですでに、普通のゲームなら設定資料で終わるような内容が、実際の戦闘に結びついている。
「すごいな……」とタクトはもう一度言った。
「ここまで来ると、ただの職業選択って感じじゃない」
「そうなんです」とテトラ。
「ヒーラーは人口が数%しかいません。だから、ある程度の妥協でも歓迎されるんです」
「でも本当に強いヒーラーは、そこからさらに先へ行きます」
「先?」
「病気の深淵です」
その言葉に、空気が少しだけ変わった。
タクトは、さっきまでの興奮をそのまま保ちながらも、今度は慎重に聞き返した。
「病気の深淵?」
テトラは真顔でうなずく。
「病気を治すだけではなくて、病気が発生する原因そのものへ辿り着く領域です」
「発症の流れを止めるだけじゃない。そのもっと前の段階を読んで、存在の側から変えてしまう。そういうところです」
主人公はその言葉に、どこか零点相の話と似た響きを感じた。
根へ触れる。
表面ではなく、その下の条件へ干渉する。
この世界はどこまで行っても、ただ現象を扱うだけでは終わらないらしい。
テトラは続ける。
「そこまで辿り着いたヒーラーは、死者を蘇生できるかもしれないって言われています」
タクトは黙った。
その沈黙は、ただ驚いているだけではなかった。
医者を目指している人間にとって、その言葉は冗談のように軽く流せるものではないのだろう。
救うということ。
治すということ。
失われたものへ、もう一度手を伸ばせるかもしれないということ。
タクトはしばらく考えたあと、静かに言った。
「……やる」
主人公とテトラが、同時にタクトを見る。
タクトは職業選択画面の前で、まっすぐ立っていた。
根は真面目で、どこか静かな凛々しさがある。顔立ちも整っているが、そういうことより、今の彼には奇妙な心強さがあった。
覚悟を決めた人間の顔だった。
「僕はヒーラーになる」
その声音は静かだった。
でも、決意だけははっきりしていた。
「まずは人体の知識からだ」
「ヴァーチャルアシストも使う。でも、できるだけ自分でも覚える」
「どうせやるなら、本気でやる」
主人公は思わず笑った。
「お前らしいな」
テトラも、最初の警戒を少し忘れたように笑う。
「ヒーラーは歓迎です」
「すごく歓迎です」
けれど次の瞬間、テトラは主人公の袖を軽く引っ張って、小声で言った。
「……でも、デュオがよかった気持ちも、少しだけあります」
「聞こえてるぞ」とタクトが言うと、テトラはすぐに顔をそむけた。
広場の喧騒は相変わらず賑やかだった。
ログインボーナスを受け取りに来た膨大なプレイヤーたち。
毎日この世界へ吸い寄せられていく、1億1千万人のうちの一部。
その巨大な流れの中で、主人公たちは今、新しいトリオを作ろうとしていた。
DPSの主人公。
前線を支えるテトラ。
そして、ヒーラーになると決めたタクト。
この組み合わせが、この先どこへ行くのかはまだわからない。
けれど少なくとも今この瞬間、主人公は三日前よりもずっと心強かった。
タクトがいる。
テトラがいる。
そして自分は、またこの世界へ戻ってきた。
それだけで、次の扉に手をかける理由としては十分だった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
今回の章では、ついにタクトが物語の中へ本格的に入ってきました。
主人公にとって、異世界や記憶や父の影は、どうしてもひとりで抱え込みやすいものだったと思います。だからこそ、ここで「現実側の友達」が一歩踏み込んでくることには、大きな意味がありました。
タクトは、派手に前へ出るタイプではありません。
けれど、根が真面目で、静かに物事を見て、必要なときにはちゃんと決めることができる人です。そういう人が隣に立ってくれることの強さを書きたかった章でもありました。
また、ワールドストーリーという世界が、ただのゲームではなく、知識や理解がそのまま力になる場としてどう動いているのかも、今回はかなり前に出したつもりです。
ヒーラーという役割ひとつ取っても、ただ回復するだけではなく、人体、薬、病気、知識の積み重ねがきちんと意味を持つ。
そういう構造には、自分でもかなり惹かれています。
ゲームなのに、遊びだけでは終わらない。
でも、真剣になればなるほど面白くなる。
そんな場所として描けたらいいなと思いながら書いていました。
そして、テトラの感情も少しずつ揺れ始めています。
特別なNPCとしての彼女が、主人公やタクトとの関係の中で、どう変わっていくのか。そこもこの先の見どころのひとつです。
火花が散るのは、戦闘だけとは限らないのかもしれません。
この物語は、異世界や零点相や接続理論のような大きな話をしながらも、結局は「誰と一緒に進むのか」という、とても人間的なところへ戻ってくる話なのだと思っています。
ひとりでは渡れない場所でも、誰かが隣にいることで見える景色が変わる。
そんな瞬間を、これからも大切に書いていきたいです。
次からは、主人公、テトラ、タクトの三人が本格的に動き出します。
新しい役割、新しい戦い方、そしてワールドストーリーのさらに深い層。
ここから少しずつ、物語の歯車が大きく回っていくはずです。
ここまで付き合ってくださって、ありがとうございました。
また次の章で会えたら嬉しいです。




