現実と友達
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第17章
第一章 三日間
日付は、2040年1月。
あれから三日が経っていた。
たった三日。
けれど主人公にとっては、妙に長い三日間だった。
ワールドストーリーの中で、お父さんの影を見た。
あれはただの演出だったのか。
バグだったのか。
それとも、本当に何かが残っていたのか。
そのことばかりを考えていた。
気づけば、三日もログインしていなかった。
いつもなら、現実が苦しくなるほど仮想空間へ逃げ込みたくなるはずだった。
なのに今回は逆だった。
ログインボタンを前にすると、指が止まった。
あの世界に入れば、また見てしまうかもしれない。
また境界が揺れるかもしれない。
また、自分の中の何かが壊れるかもしれない。
部屋の薄暗い天井を見上げながら、主人公は端末を手に取った。
作者へ連絡するための画面を開く。
連絡ボタンは、まだそこにあった。
ただし、使用回数の表示も残っている。
残り4回。
その数字が、やけに重く見えた。
前にも使っている。
だからもう、何度も試せるわけじゃない。
今ここで押せば、何かわかるかもしれない。
いや、わからないかもしれない。
またあの抽象的な言葉だけが返ってくるのではないか。
余計に混乱するだけかもしれない。
主人公は親指をボタンの上に置いたまま、動けなかった。
作者に連絡すること。
それは単に誰かへ質問するということではない。
もっと別のことだ。
自分の世界の外側へ手を伸ばすこと。
あるいは、外側からこちらに触れられること。
世界に干渉するというのは、そういうことだ。
小さな連絡ひとつで、思わぬ亀裂が生まれるかもしれない。
主人公は、ゆっくり息を吐いた。
そして画面を閉じた。
今、押すべきではない。
そう判断した。
代わりに、別の連絡先を開く。
タクト。
親友の名前が、古びたスマホの画面に表示される。
今どき、連絡はホログラフィックデバイスで済ませるのが普通だった。
音声も映像も共有できるし、同時に生体データまで補助してくれる。
けれど、あれには自動のサイコスキャン機能がついている。
感情の揺れ、脳波の変調、心理状態の偏りまで拾ってしまう。
安全装置。
社会ではそう呼ばれていた。
でも、今はそれが嫌だった。
心の中に土足で入られるような気がして。
主人公はスマホの小さな画面に、指で文字を打ち込んだ。
今時間空いてる? 相談したいことがあって
送信してしばらくすると、すぐに返信が来た。
どうした? 何でも言ってみろって、親友だろ
そのあとに、前にショッピングモールで見た友情のバッジに似た、妙に勢いのあるスタンプがついてきた。
茶化しているのか、本気なのかはよくわからない。
でも、タクトなりの気遣いなのは伝わった。
主人公は少しだけ口元を緩めた。
なんだよそれ
と送ろうとして、一度消す。
代わりに、
今会えない?
と送った。
時刻は四時を少し回ったところだった。
今日は休みで、学校はない。
ただ、タクトは医学部を目指している。忙しいかもしれない。
少し迷ってから、
ごめん、忙しいか。勉強あるよな
と追い打ちのように送る。
返事はすぐだった。
マックでいいか?
主人公は短く打つ。
いいよ。それで
するとまたすぐ返信が来た。
奢ってやるからさ
その文面が、妙にぎこちなかった。
整然としすぎたAIの返答ではない。
少し雑で、少し気取っていて、それでいて気持ちだけは真っ直ぐに届く言葉だった。
チャットは昔から苦手だった。
中学生のころは特に嫌いだった。
画面越しの文字だけでは、相手が本当に人間なのか、機械なのか、どこか判別がつかない気がしていた。
チューリングテストみたいだ、と本気で思ったこともある。
そこに感情があるのかどうか、わからなかった。
でも今は違った。
短い文の癖や、変な間の取り方や、スタンプの選び方だけで、これはタクトだとわかる。
機械には真似できない、不器用な熱があった。
やっぱり、持つべきものは友達なのかもしれない。
そう思ってしまった自分に、主人公は少しだけ驚いた。
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第二章 マックにて
マクドナルドの店内は、夕方前の半端な時間らしい空気で満ちていた。
混みすぎてもいない。
がらがらでもない。
学生、買い物帰りらしい人、子ども連れ、ひとりで端末を見ている社会人。
それぞれの生活が、ハンバーガーとポテトの匂いの中で緩く重なっている。
主人公は、窓際の席に座って待っていた。
スマホをテーブルの上に伏せて置く。
ガラスの向こうでは、冬の光が少し白く傾いていた。
数分遅れて、タクトが店に入ってきた。
肩で少し息をしていて、髪も少し乱れていた。
たぶん走ってきたのだろう。
周囲を見回してから主人公を見つけ、手を上げてこちらへ来る。
「悪い、ちょっと遅れた」
「いや、来てくれただけで十分だよ」
タクトは席に着きながら、紙袋をテーブルに置いた。
「とりあえず買っといた。ポテト冷める前に食えよ」
「ありがとう」
「困った時に助けるのが友達だろ」
その言葉に、主人公の胸の奥で何かがわずかに揺れた。
一瞬、込み上げそうになるものがあったが、どうにか飲み込む。
タクトは主人公の顔を見て、少しだけ真面目な顔になった。
「それで、どうした?」
チャットでは出せない、生の感情がそこにはあった。
声の温度。
目線の揺れ方。
言葉の前にある、間。
文字だけでは伝わらなかったものが、肉声になるだけでこんなにも違うのかと思う。
主人公は、周囲を一度だけ見た。
すぐ隣の席では誰かがホログラフィック端末を開いている。
「サイコスキャン、切ってくれないか」
タクトは一瞬だけ首をかしげたが、すぐに自分のデバイスを操作した。
「切った。これでいいか」
「うん。悪い」
「謝るなって」
主人公は、テーブルの上で指を組んだ。
うまく言葉が出てこない。
三日間考えていたくせに、いざ口にするとなると喉が重かった。
タクトは急かさなかった。
その沈黙に背中を押されるようにして、主人公はようやく切り出した。
「……ワールドストーリーで、お父さんの影を見たんだ」
タクトの表情が、一瞬だけ固まった。
「お父さんって……」
「うん」
タクトは言葉を選ぶように視線を落とした。
「でも、お前の親父さんって……全ての分岐宇宙から消えたはずじゃなかったか」
主人公は黙ってうなずく。
「それに、お前は親父さんに関する記憶だけ喪失したって話だったろ」
「そうだった」
「じゃあ、なんで今さら」
主人公は、ここ数日の出来事をかいつまんで話した。
ワールドストーリーの中で起きたこと。
お父さんらしき影
アストラの零点相異世界接続理論。
記憶が場所に残ること。
異世界がただのゲームではないかもしれないという感覚。
タクトは最初こそ、半ば呆れたように聞いていた。
だが、主人公の表情が冗談ではないと分かるにつれて、その顔つきは少しずつ変わっていった。
それでも最後に出てきた言葉は、やはり現実的なものだった。
「……またゲームか」
その一言に、主人公の胸の奥がちくりとした。
これだからゲームは。
そう続けたい気持ちが、タクトの中にあるのも分かった。
けれど、タクトはそこで言葉を切った。
主人公の顔を見て、本気で困っていると理解したのだろう。
「いや、悪い」
主人公は首を振った。
「いや……いいよ」
タクトは肘をついて、静かに言った。
「でもさ、医学的に言えば、そういうのは全部頭から来てる可能性が高い」
「記憶の欠落も、映像の見え方も、感情の投影も、脳の働きで説明できることは多い」
主人公はしばらく黙っていた。
それから低く言った。
「……心ってものは、ないのかよ」
タクトは、はっとしたように目を伏せた。
店内のざわめきが、一瞬だけ遠くなる。
タクトはしばらく黙り込んでから、小さな声で言った。
「ある」
主人公は顔を上げた。
タクトはゆっくりと、今度ははっきり言った。
「ある。俺はあると思う」
その言葉は、医学的な答えではなかった。
でも、それでよかった。
主人公は、張り詰めていた何かが少しだけ緩むのを感じた。
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第三章 一緒に行かないか
ポテトが少し冷えていた。
主人公は一本つまんで口に運んだが、味はほとんどしなかった。
代わりに、タクトの「ある」という言葉だけが妙にはっきり残っていた。
しばらく黙ってから、主人公は思い切って言った。
「一緒にワールドストーリーをプレイしないか」
タクトが顔を上げる。
「俺が?」
「うん。あそこなら、ヴァーチャルアシストも使えるし……」
「もし本当に、ただのゲームじゃない何かが起きてるなら、ひとりじゃ確認しきれない」
タクトはすぐには返事をしなかった。
医学部を目指している。
勉強もある。
進路もある。
そんなやつを、自分の不安に巻き込むのは違うんじゃないか。
そう思い始めた時、タクトはふいにスマホを見た。
そこには、さっき自分で送った友情のバッジのスタンプ履歴が残っていた。
タクトはそれを見て、ふっと笑った。
「……よし」
主人公は目を瞬く。
「決めた」
「え?」
タクトは椅子の背にもたれながら、やけに晴れやかな顔で言った。
「俺、医者目指してゲームもやるわ」
「全部本気で」
「人生、楽しんだもん勝ちだろ」
主人公は思わず固まった。
「本当かよ」
「本当だよ」
タクトは肩をすくめる。
「困ってる友達を放っておけるほど、できた人間じゃないしな」
その言葉に、主人公はようやく少し笑った。
「……ありがとう」
素直にそう言うと、なんだか少し照れ臭かった。
でも、言わずにはいられなかった。
タクトには、この二年間、主人公が治療を受けていたことも知られている。
お父さんに関する記憶だけが喪失していたことも、断片的には知っているはずだった。
だからこそ、こうして隣に座っているだけで妙に心強かった。
主人公は、ふと思う。
もしかしたら、自分はずっとひとりで抱え込みすぎていたのかもしれない。
タクトは紙コップを持ち上げながら言った。
「で、いつログインする?」
その声音には、もう迷いがなかった。
主人公は窓の外を見た。
2040年1月の夕方が、白く沈みかけている。
ワールドストーリー。
お父さんの影。
異世界。
零点相。
全部まだわからない。
でも、ひとりではなくなった。
それだけで、世界の輪郭が少しだけ戻ってきた気がした。
主人公は窓から目を離し、タクトを見た。
「……今夜、行こう」
タクトはにやりと笑った。
「了解。じゃあまずは、ゲームの中で医者の卵がどこまで役に立つか試してやるよ」
主人公は心の中で、ほんの少しだけ思った。
ああ、やっぱり。
持つべきものは、友達なのかもしれない。
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ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
この物語を書いているあいだ、ずっと考えていたことがあります。
それは、世界とは何なのか、記憶とは何なのか、そして人が誰かを想うということは、いったいどこまで届くのか、ということでした。
異世界という言葉は、普通なら「こちらではないどこか」を指すのだと思います。
けれどこの物語の中で描きたかった異世界は、ただ遠くにある別の場所ではありませんでした。
もっと曖昧で、もっと深くて、もっと心や記憶や接続に近いものです。
目には見えなくても、確かに触れてしまうもの。
忘れたはずなのに、なぜか消えてくれないもの。
そういうものの延長線上に、この物語の異世界があります。
父という存在も、僕の中では最初から特別でした。
強くて、何でもできて、全部わかっている英雄ではありません。
不器用で、傷を抱えていて、それでも前に進こうとする人です。
だからこそ、異世界のような大きすぎるものに触れたとき、その揺れ方が人間らしくあってほしいと思いました。
記憶に傷つき、家族を想い、それでも理解しようとする。
そんな姿を書きたかったのだと思います。
この作品には、接続、零点相、アーエール、アイテールなど、少し変わった言葉がたくさん出てきます。
でも、その奥にあるものは案外シンプルです。
誰かを忘れたくないこと。
もう一度会いたいと願うこと。
失ったものの痕跡を、それでも探してしまうこと。
きっと物語の中心にあるのは、そういうとても人間的な気持ちです。
そしてもうひとつ、この物語を書くうえで大事にしたかったのは、「世界の大きさ」と「ひとりの心の痛み」が、ちゃんと同じ物語の中にあることでした。
宇宙や時間や異世界の話をしながら、最後にはたった一人の家族の記憶へ戻ってくる。
そういう物語が、僕は好きです。
大きな理論の中にも、ひとつの声や、ひとつの手のぬくもりが残っていてほしい。
その思いで書いてきました。
ここまで読み進めてくださったあなたにも、きっとそれぞれの記憶や、大切な人や、言葉にしきれない何かがあるのだと思います。
もしこの物語のどこかが、ほんの少しでもそれに触れられたのなら、これ以上嬉しいことはありません。
まだ物語は続きます。
接続の先に何があるのか。
異世界の深層に何が待っているのか。
そして、失われたはずのものは本当に失われたままなのか。
その答えを、これからも一歩ずつ書いていけたらと思っています。




