アーエールの果実
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第16章 アーエールの果実
案内人に連れられて進んだ先は、森とも庭ともつかない場所だった。
木のようなものは生えている。
だが父の知る木ではなかった。
幹は円柱ではなく、細い三角形の板が少しずつずれながら幾重にも積み重なってできているように見える。枝もまた曲線ではなく、角度を持った薄い面の連なりで、その先端だけが妙にしなやかだった。葉に見えるものすら、平たい結晶片のようで、風もないのに微かに位置を変えている。
人工物のようでもあり、自然物のようでもある。
設計図と植物の中間にある何かだった。
父は足を止め、目の前の一本を見上げた。
「……これも、木なんですか」
案内人はうなずいた。
「木に近いもの、という言い方が一番近いのです」
「これはグネイファドラスの木なのです」
父はその名を心の中で繰り返した。
グネイファドラス。
異世界の言葉は、意味がはっきり分からなくても、妙に耳に残る。
案内人は白い接続網の指先を、その幹の一部へそっと触れた。
「あなたの世界では、命を保つというと肉体の維持を思うはずなのです」
「けれど、この世界では少し違うのです」
父は木から視線を外さずに聞いた。
「違う、というと」
「この世界では、肉体より先に魂の輪郭を保つ必要があるのです」
「命は、魂の持続として現れるのです」
父はわずかに眉を寄せた。
「魂が……命の代わりになる?」
「代わりというより、こちらではそちらが先なのです」
「肉体は少し揺らいでも保てることがありますが、魂の輪郭が薄れると、存在そのものが不安定になるのです」
案内人の指先に触れた部分から、白い線が静かに広がった。
木の内部を光が走る。
いや、光というより、見えなかった接続が一瞬だけ表へ浮き上がったようにも見えた。
「その輪郭を支える量を、アーエール量と呼ぶのです」
「あなたも今、この世界でそれを消費しながら立っているのです」
父は思わず自分の身体を見た。
見た目には何の変化もない。
だが言われてみれば、立っているだけで微かに何かを使っているような、妙な感覚があった。空腹や疲労とは違う。もっと輪郭に近いところで、少しずつ何かが擦れている感じだった。
「それが減ると、どうなるんです」
案内人は木に触れたまま、やわらかく答えた。
「すぐに消えるわけではないのです」
「0になったからといって、その瞬間に破滅するわけでもないのです。アーエールは揺らぎを持っているので、ほんとうの意味でぴったり0になることはむしろ少ないのです」
「ですが」と案内人は続けた。
「0に近づきすぎると、存在そのものが揺らいでしまうのです」
「輪郭がぶれる、声が遅れる、手足の形が崩れる、そのようなことが起きるのです」
父は、昨夜この世界で見た、景色の輪郭の妙な揺れを思い出した。
あれは世界そのものの不安定さだけではなく、こちら側の存在のほうにも起こりうるのかもしれない。
「だから補給が必要なのです」
案内人がそう言ったちょうどその時、何もなかった枝の付け根に、小さな立方体が一つ、ふっと現れた。
父は目を見開いた。
立方体はひとつでは終わらなかった。
二つ、三つ、五つと増え、それらが少しずつずれながら積み重なっていく。
やがて一つの果実の形に近づいていった。
しかし元の世界の果実のような滑らかな曲面ではない。小さなキューブが層になり、それぞれの面のあいだから虹色の光が覗いている。
果実の内部で、赤とも青とも緑ともつかない色が絶えず入れ替わっていた。
ただ派手なだけではない。透き通った水の中で、何種類もの果汁が静かに混ざり続けているような、柔らかい虹色だった。
案内人は、その果実をそっともぎ取った。
「これはアルネフィスと呼ばれる実なのです」
「グネイファドラスの木が、接続に応じて結ぶ果実なのです」
父は目を凝らした。
「さっきまで、何もなかったでしょう」
「なかったのです」
「この木は、ただ待っているだけでは結ばないのです。触れた接続に共鳴して、必要な分だけ形を与えるのです」
案内人は、父の手のひらにその果実を置いた。
見た目より軽かった。
だが中に空洞があるような軽さではない。密度がこちらの果実と違うのだと、触っただけで分かる。
表面は硬そうに見えるのに、指先を少し押し当てると、立方体の層が微かに沈み、また戻る。
「中で光っているのが、アーエールなのです」
「食べることで、消耗したぶんを少し回復できるのです」
父はアルネフィスを見つめた。
「……食べ物に見えませんが」
案内人は少しだけ微笑んだようだった。
「見た目で判断すると、この世界では困ることが多いのです」
「食べてみるとわかるのです」
案内人は自分の分なのか、もう一つ生成されたアルネフィスを持ち上げ、そのまま口元へ運んだ。
立方体の積層が崩れることもなく、静かにその一角が消えていく。
父も少し遅れて、一口かじった。
果皮に相当する部分は、思ったよりもやわらかかった。
噛んだ瞬間、最初に広がったのは透明な甘さだった。
だがそれだけではない。次の瞬間には柑橘に近い明るさが抜け、そのあとを追うように熟した桃のような厚みが来て、最後にほんの少しだけ葡萄に似た香りが残る。
どれか一つの果物の味ではない。複数の果実のいちばんみずみずしい部分だけを重ねて、一つの味にしたようだった。
それなのに、混ざっている感じがしない。
最初からそういう果実として成立している。
父はゆっくり噛みしめた。
「……不思議な味ですね」
案内人がうなずく。
「こちらの世界の味覚は、あなたの世界の分類にはきれいには収まらないのです」
「でも、身体はちゃんと受け取るのです」
父はもう一口食べた。
舌に広がる虹色の光が、そのまま喉の奥へ溶けていくような感覚があった。
実際に光を飲み込んでいるわけではない。だが、少なくともただの栄養ではない何かが、身体の深いところへ染みていくのが分かった。
胸のあたりが、わずかに静かになる。
それまで気づいていなかった微かな擦れが、ほんの少しだけ和らいだ。
「……これが、補給ですか」
「そうなのです」
「成長とともに、保てるアーエール量には上限もできてくるのです」
「ですから、ただ多ければよいというものでもないのです。けれど減りすぎるのはよくないのです」
父は手の中の残りを見た。
果実というより、虹を閉じ込めた小さな箱のようだった。
食べ終えると、案内人はすっと立ち上がった。
「では次は、走ることを覚えるのです」
父は思わず顔を上げた。
「走る、ですか」
「はいです。食べる、走る、飛ぶ。まずはその三つなのです」
「この世界では、立っているだけでも接続を消費します。ですから、身体の使い方を知らないと、余計に減らしてしまうのです」
父はアルネフィスの最後の欠片を口に入れて、飲み込んだ。
「走るのは、さすがに分かりますよ」
「そう思うのは自然なのです」
「ですが、この世界では少し違うのです」
案内人は前方の開けた場所へ歩き出した。
そこには平地とも通路ともつかない空間が続いていて、左右には低い壁のような構造物が何本も立っていた。
壁もやはり石ではなく、細い面が何層にも折り重なって保たれている。
「まず、軽く走ってみるのです」
父は息を整え、地面を蹴った。
最初の数歩は普通だった。
だが五歩目で感覚がずれた。
身体が想定よりも前へ出る。足が地面を強く蹴ったつもりはないのに、ひと蹴りごとの伸びが妙に大きい。
急いで止まろうとしても、その“伸び”が邪魔をして、歩幅が自然に収まらない。
父は数メートル先でどうにか速度を落とし、振り返った。
「……今のは」
「この世界では、アイテールの接続があなたの世界より伸びているのです」
「ですから、身体を動かしたときの到達距離も自然に大きくなってしまうのです」
父は足元を見た。
走った跡があるわけではない。
だが、自分の動いた線だけが、微かに空間に残っているような気がした。
「跳ぶと、もっと分かりやすいのです」
「今度はあの壁の近くまで行って、軽く跳んでみるのです」
父は案内人の示した壁際まで行った。
そして、普段なら段差を越える程度のつもりで、軽く膝を使って跳んだ。
身体が思ったよりも高く、遠くへ飛んだ。
「っ……!」
壁を越えそうになり、とっさに腕を出して姿勢を崩しながら着地する。
足裏に伝わる衝撃も、こちらの世界と少し違った。重さより先に、接続の反発のようなものがあった。
父は息をついて、額に手をやった。
「これは……軽く跳んだだけでしょう」
「その通りなのです」
「ですが、この世界ではアイテールが伸びきっているので、普通の跳躍でも長距離になりやすいのです」
案内人は壁のひとつへ近づき、そこに手をかざした。
「短く跳びたいときは、アイテールを自分の近くへ寄せるのです」
「密にすると、跳躍は短く、重くなるのです」
「寄せる、というのは」
「意識でよいのです」
「自分の足元に、接続を近づける感じです」
「伸びたものを縮めるというより、散っているものを自分の周囲に集めるのです」
父は壁の前に立ち、言われた通りに意識を集中した。
見えない何かを寄せる。
足元に、身体の近くに。
まだ感覚は曖昧だったが、さっきよりも自分の輪郭がはっきりする気がした。
「……こうですか」
「もう少しなのです。急がなくてよいのです」
案内人の声は、訓練中でも変わらず穏やかだった。
父はもう一度膝を曲げ、軽く跳ぶ。
今度は先ほどほど飛ばなかった。
それでも元の世界よりはだいぶ長いが、制御できる範囲には入っている。
「……たしかに、違いますね」
「そうなのです」
「この世界では、まず身体を動かすより、接続を整えるほうが先なのです」
それからしばらく、父は走り、跳び、止まることを繰り返した。
壁の手前で短く跳ぶ。
壁から壁へ向かって飛ぶ。
着地の前に足元のアイテールを少し寄せる。
長く跳びすぎた時は、次の一歩で接続を密にして速度を落とす。
案内人はそのたびに、少しだけ助言を足した。
「いまのはよいのです」
「着地の前に集めるのです」
「飛ぶほうが速いですが、そのぶんアーエールを使うのです」
「走れる場所では、まず走るのです」
父は何度かバランスを崩しながらも、少しずつ感覚を掴んでいった。
走る。
飛ぶ。
食べる。
そんな基本動作に、こんなにも別の理屈が必要だとは思わなかった。
だが同時に、奇妙な納得もあった。
この世界は景色からしてこちらの世界とは違う。ならば身体の扱い方だけが同じであるはずもない。
息を整えるために立ち止まった時だった。
視界の端で、空気が微かに波打った。
父は顔を上げた。
前方の何もないはずの空間に、薄い矩形のフレームが浮かび上がっていた。
最初は蜃気楼かと思った。
だが次の瞬間、その中に色が入る。
輪郭。
光。
背景。
動き。
父の喉が強く鳴った。
そこに映っていたのは、息子だった。
ぼやけた残響ではない。
夢の断片でもない。
鮮明だった。
色まである。
まるで映画館の大きなスクリーンに、現実そのものを切り取って流しているみたいだった。
息子がこちらへ顔を向ける。
何かを言っている。
音はまだ届かない。
けれど口の動きまで、はっきり見える。
父は一歩、前へ出た。
「……っ」
案内人もその映像を見ていた。
白い接続網の奥で、金と白銀の線が一瞬だけ強く脈打つ。
「……これは」
その声は初めて、わずかに緊張を含んでいた。
「ただの残響ではないのです」
映像の中で、息子がさらに何かを訴えるように手を伸ばした。
父は反射的にその名を呼びかけようとして、喉のところで声を止めた。
空気が、薄く震える。
異世界の森とも庭ともつかないこの場所で、走り方と跳び方を覚え始めたばかりの足元が、急に現実を失いかけた気がした。
父は、ただ目の前の映像を見つめることしかできなかった。
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