友人のバッジと学校の親友
第一章 またあのゲームやってんのか
2039年の春、放課後の空気は少しだけ甘かった。
校門を出ると、道路脇の街路樹がやわらかく揺れている。制服の上着を着たままでも苦しくないくらいの気温で、部活帰りの生徒たちが笑いながら駅の方へ流れていく。進学校らしく、みんな鞄は重そうで、顔つきは少し疲れているくせに、どこか楽しそうだった。
主人公は歩きながら、スマートグラスの端に表示された小さな通知を見ていた。ワールドストーリーのデイリー更新。イベント告知。テトラからのメッセージはまだ来ていない。
そのとき、背後から軽い声が飛んできた。
「おーい、インテリ。」
振り向くと、タクトがいた。
制服のネクタイを少しだけ緩めて、片手でスマホをいじりながら歩いてくる。小学校のころからの親友。今も同じ進学校に通っている。明るくて、話していると空気が少し軽くなるタイプのやつだ。
「またあのゲームやってんのか?」
開口一番、それだった。
主人公は少し笑う。
「まだ画面見ただけだよ。」
「いや、その顔はやる顔だろ。」
「やる顔ってなんだよ。」
「ワールドストーリーやる顔。」
タクトは断言した。根拠があるのかないのか分からないくせに、なぜか言い切るのがこいつらしい。
「お前ほんとハマってるな。」
「まあ、うん。」
「俺は無理だわ。」
そう言いながら、タクトは自分のスマホ画面を見せる。そこにはカラフルなスマホゲームが表示されていた。ガチャ画面だ。
「見ろよ。今日の無料十連。」
「またそれやってんの?」
「またってなんだよ、こっちはこっちで人生かかってんだよ。」
「人生軽いな。」
「軽い人生も大事だろ。」
二人で笑う。
タクトはワールドストーリーをやらない。ゲームに興味がないわけじゃない。ただ、あんな大きな世界に入っていくのはちょっと面倒だし、スマホで短時間やるくらいがちょうどいい、というタイプだった。話題にはついてこれる。でも自分では入らない。その距離感が、いかにもタクトだった。
「で、今日ヒマ?」
「まあ。」
「ショッピングモール行こうぜ。」
「急だな。」
「いいだろ。参考書見るついでにフードコート。」
「順番逆だろ。」
「うるせえ、放課後は自由だ。」
その言い方が妙に可笑しくて、結局一緒に行くことになった。
駅前のモールは、平日の夕方でもそれなりに人が多い。学生、会社帰りの大人、買い物帰りの家族連れ。エスカレーターを上がりながら、タクトがぽつりと言った。
「でもさ。」
少しだけ真面目な声だった。
「お前、すげえよ。」
「なにが?」
「いや、普通に。」
タクトは視線を前に向けたまま続ける。
「父さん亡くしてさ。それでも今、生きてるだろ?」
言葉は重いのに、声色は不思議とやわらかかった。慰めるでもなく、変に深刻ぶるでもなく、ただ事実として言ってくる。
「やっぱ医療ってすげえなぁって思うんだよ。」
「……」
「お前、治療受けてたじゃん。」
主人公は小さくうなずく。
二年前のことを思い出す。長い治療。量子医療。サイコスキャン。心の輪郭を少しずつ戻していくような日々。
タクトは言った。
「それでもこの高校受かったんだろ? すげえよ。普通に地頭いいじゃん。」
「いや、それは……」
「照れんなって。」
肩を軽くぶつけてくる。
「インテリ。」
「その呼び方やめろよ。」
「いいじゃん、褒めてんだから。」
そう言って笑う顔を見ると、真面目な話のあとでも空気が重くなりすぎない。そこが、タクトのすごいところだった。
二人はそのまま雑貨フロアへ流れた。特に目的があるわけでもなく、ただ歩く。学校の話。定期テスト。教師の癖。そんななんでもない会話が続く。
そして、ふとタクトが足を止めた。
「お。」
そこは小さなアクセサリーショップだった。キーホルダー、ピンズ、ストラップ、バッジ。雑多に並んだ棚の中から、タクトが銀色の丸いバッジを手に取る。小さな青いラインが入っていて、見た目は意外と悪くない。
「いいぜえ。同じバッジ買おうぜ。」
「なんで?」
「友情の証な!」
即答だった。
主人公は思わず吹き出す。
「なんだよそれ。なんか恥ずかしいな。」
「照れんなってインテリ。」
「またそれか。」
「いいからいいから。こういうの大事なんだよ。」
タクトは本気なのか冗談なのか分からない顔で笑う。たぶん両方だ。
結局、二人は同じバッジを買った。
会計を済ませたあと、タクトは満足そうにそれを制服の胸ポケットにつける。
「ほら、お前も。」
「今つけるの?」
「今だろ。こういうのは勢い。」
主人公も少し迷ったあと、バッジをつけた。
鏡に映る自分を見る。似合っているかどうかは分からない。でも、悪くはなかった。
「お、いいじゃん。」
「そうか?」
「うん。ちょっとだけ人間っぽい。」
「失礼だな。」
また笑いが起きた。
そのあと二人はフードコートに移動して、ジュースを買って座った。夕方の窓から斜めに光が差し込んでくる。タクトはストローをくわえながら、ふと思い出したように言う。
「そういや、プラットフォームZERO見た?」
「見た。」
「やっぱ見るよなあ、お前。」
「見たことないの?」
「ない。」
タクトは首を振る。
「名前だけは知ってるけど。AIが勝手に分析して議論広げてくやつだろ?」
「そう。」
「めんどくさそう。」
「そうか?」
「そうだろ。情報が多すぎる。俺は無理。読んでるうちに寝る。」
主人公は少し笑う。
「意外と面白いけどな。」
「いや、お前はあんまり深追いすんなよ。」
タクトが珍しく少しだけ真面目な顔をした。
「ゲームのことでもさ。なんでも。深く行きすぎると帰ってくるの面倒だろ。」
「……」
「お前、そういうとこあるし。」
言われてみれば、そうかもしれない。
タクトはすぐにまたいつもの顔に戻った。
「まあでも、今日はよかったな。」
「何が?」
「放課後っぽくて。」
そう言って笑う。
主人公も、なんとなくうなずいた。
こういう日常は、たしかに放課後っぽかった。ゲームでもなく、闇の勢力でもなく、世界の謎でもなく、ただ友達と寄り道して、くだらない話をして、同じバッジを買う。それだけのことが、妙に大切に感じられた。
フードコートを出るころには、外の光はもう夕方から夜へ移りかけていた。
ガラス越しに見える空は薄い青紫で、ビルの壁面に走る広告の光がやけに鮮やかに見える。モールの自動ドアを抜けた瞬間、少しだけ冷たい風が頬に触れた。
「春ってさ。」
タクトが言う。
「昼はぬるいのに、夜になると急に顔変えるよな。」
「人みたいに言うなよ。」
「街って顔あるだろ。」
そう言いながら、タクトは片手でスマホをいじり、もう片方の手でジュースのカップをくるくる回した。中身はもうほとんど残っていない。
駅前の広場には、買い物帰りの人たちが行き交っていた。小さな子どもがホログラム噴水の周りを走り回っていて、少し離れた場所では高校生らしいグループが制服のまま写真を撮っている。どこにでもある放課後の風景なのに、今日はそれが少しだけ遠く見えた。
「そういやさ。」
タクトがふと思い出したように言う。
「お前んちのバディって、どんな感じ?」
「普通。」
「普通って便利な言葉だな。」
「じゃあ……うるさすぎず、冷たすぎず、必要なときはちゃんと来る感じ。」
「へえ。」
タクトは少し笑った。
「いいやつじゃん。」
「やつって言い方どうなんだよ。」
「でもフレンドなんだろ?」
「まあな。」
2039年では、デジタルバディはもう道具というより関係性に近かった。家族みたいに接する人もいれば、仕事仲間みたいに割り切る人もいる。主人公にとってそれは、どちらかといえば“静かな相棒”のようなものだった。
「俺のバディさ。」
タクトが言う。
「勉強時間だけ妙に厳しいんだよ。」
「ちゃんとしてるじゃん。」
「ちゃんとしすぎ。昨日も“その動画は二十分後に見ても失われません”とか言いやがって。」
主人公は吹き出した。
「正論だな。」
「正論は時に暴力だぞ。」
「お前が言うと説得力ないな。」
「失礼な。」
また笑いが起きる。
二人は駅前を抜けて、少し人通りの少ない道へ入った。ここから先は住宅街につながっていて、街灯の光も少し柔らかくなる。車の音が遠ざかるぶん、靴音がよく聞こえた。
しばらく歩いたあと、タクトが胸元のバッジを指でつついた。
「これ、なくしたら終わりな。」
「終わりってなんだよ。」
「友情が。」
「脆すぎるだろ。」
「いや、物に託すの大事なんだって。」
そう言う横顔は冗談っぽいのに、どこか少しだけ本気にも見えた。
「お前ってさ。」
主人公が言う。
「たまに変なとこでちゃんとしてるよな。」
「たまに?」
「うん。普段はわりと雑。」
「それは認める。」
あっさり言うから、また笑ってしまう。
角を曲がると、二人の帰る方向は少しずつ分かれ始める。ここでいつも、会話は自然に少なくなる。別れが近いと分かるからかもしれないし、話さなくても平気だからかもしれない。
「なあ。」
タクトが前を向いたまま言った。
「お前、ちゃんと寝ろよ。」
「急に母親みたいなこと言うな。」
「いや、最近ちょっと顔色マシになったけど、まだたまに変な目してるときある。」
「変な目ってなんだよ。」
「遠く見てる目。」
その言い方が妙に的確で、少しだけ返事に詰まる。
ワールドストーリーのことを考えているとき、自分はたしかに少し遠くを見ているのかもしれない。現実の目の前にあるものじゃなくて、別の層にある何かを見ようとしてしまう。
タクトはそんなこちらの沈黙を責めるでもなく、ただ軽く肩をすくめた。
「まあ、いいけどさ。」
「でも、ちゃんとこっちにもいろよ。」
その言葉は、妙に静かに胸に入ってきた。
こっち。
現実。
学校帰りの道。
モール。
フードコート。
しょうもないバッジ。
そういうもの全部を含めての“こっち”なのだろう。
主人公は少しだけうつむいて、それから小さくうなずいた。
「……わかった。」
「よし。」
タクトはそれだけで満足したように笑った。
「じゃ、また明日な。」
「おう。」
「小テスト、忘れんなよ。」
「それお前が言うのか。」
「言う。俺は言うだけなら優等生だから。」
最後までそんな調子だった。
タクトは手をひらひら振って、自分の帰り道の方へ歩いていく。制服の背中が夕暮れと街灯の境目の中に溶けていくのを、主人公は少しだけ見送った。
それから、自分も歩き出す。
胸元のバッジに触れる。冷たい金属の感触が、妙に確かだった。
家に帰れば、たぶんまたワールドストーリーにログインする。テトラが待っているかもしれない。新しいクエストが始まっているかもしれない。ZEROではまた誰かが何かを語っているだろう。
けれど、今はまだその前だった。
現実の春の夜。
親友との放課後。
何でもない寄り道。
その全部が、世界の謎よりも少しだけ手触りを持ってここにある。
主人公は小さく息を吐いた。
そして、少しだけ笑って、家への道をゆっくり歩いていった。
家に着くころには、空はすっかり夜になっていた。
玄関のオートロックが静かに解錠される。ドアを開けると、室内の照明がやわらかく点いた。無人の家特有の静けさがある。けれど、冷たさばかりではなかった。今ではこの静けさにも、少しずつ慣れてきている。
靴を脱ぎ、鞄を置く。制服の上着を椅子にかけようとして、胸元のバッジにまた目が止まった。
友情の証。
タクトの言い方は大げさだったけれど、こうして見ると、たしかに今日はいつもより少しだけ放課後らしかった。学校が終わって、友達とふらふらして、くだらない話をして、変なノリでおそろいのものを買う。昔なら当たり前だったのかもしれない。けれど今の自分にとっては、それが妙に新鮮で、ちゃんと嬉しい出来事だった。
「おかえりなさい。」
静かな声がした。
リビングの空中に、淡い光の輪が生まれる。そこから少女型のホログラムが現れた。デジタルバディだ。以前よりずっと自然に、家の空気の一部みたいにそこにいる。
「ただいま。」
返事をする。
「本日のバイタルに大きな乱れはありません。歩行距離は適正、感情波形はやや高揚傾向です。」
「高揚傾向。」
「よい意味です。」
少し間を置いてから、バディは付け加えた。
「放課後の外出が好影響を与えた可能性があります。」
主人公は少し笑った。
「AIってそういう言い方するよな。」
「統計的に正確です。」
「味気ないな。」
「必要なら、もっと情緒的な言い回しに切り替えられます。」
「いや、いい。」
そんなやり取りが、今では妙に落ち着く。
キッチンで簡単な食事を温める。未来の家電はだいたい勝手にやってくれるが、それでも皿を出して、椅子に座って、一人で食べる時間は、どこか自分の手で現実に触っている感じがある。
食べながら、何気なく端末を開く。
通知がいくつか来ていた。学校関連の連絡。模試の範囲。デジタル教科書の更新。タクトからは短いメッセージが一件。
バッジなくすなよ
思わず吹き出す。
数秒迷ってから、返す。
お前こそ
すぐに返信が来た。
俺はちゃんとしてる
お前よりはな
その文面がいかにもタクトで、また少し笑ってしまう。
食事を終え、皿を流しに置く。窓の外には夜の街が広がっていた。遠くに走る高架線のライト。ビルの壁を流れる広告。空には薄く雲がかかっていて、星はあまり見えない。
ワールドストーリーにログインするなら、そろそろちょうどいい時間だ。
そう思って端末に手を伸ばしかける。
けれど、今日は少しだけその前に、何もせず座っていたくなった。
ソファに腰を下ろす。部屋は静かだ。静かなのに、今日は不思議と寂しくない。たぶん、タクトと話したからだ。現実の側にちゃんとひもが結ばれたような、そんな感覚がまだ残っている。
「ログインしますか?」
デジタルバディが聞く。
「……少しあとで。」
「了解しました。」
画面が静かに暗くなる。
ふと、父の遺書のことを思い出す。
以前のように、胸を締めつける痛みはもうない。完全に癒えたわけではないし、記憶が綺麗に戻ったわけでもない。それでも、以前ほどその言葉に飲み込まれなくなっている自分がいた。
夢を持て。
夢は死なない。
その一文だけが、今でも少し熱を持って残っている。
現実と仮想。
学校とゲーム。
友達との放課後と、テトラとの冒険。
どっちが本当で、どっちが軽いのか、そんなふうに切り分けることはできないのかもしれない。ただ、どちらにも自分の時間が流れている。それだけは確かだった。
テーブルの上で、端末が小さく震える。
今度はワールドストーリーからの通知だった。
Tetra: 今日は来る?
短い文。
それだけなのに、胸の奥が少しだけ明るくなる。
主人公は端末を手に取り、数秒だけ画面を見つめた。
タクトの言葉が頭の隅によみがえる。
ちゃんとこっちにもいろよ。
あの言葉は、別にゲームをやめろという意味じゃなかったはずだ。深く潜りすぎて、現実の手触りを失うな、ということなのだろう。現実に戻る場所があるなら、深く潜ること自体が悪いわけではない。
主人公はメッセージを返す。
行く。少しだけ遅れる
数秒後、すぐに返信が来る。
わかった!待ってるね
それだけのことなのに、なぜだか呼吸が少し楽になった。
立ち上がって、自室へ向かう。机の上には教科書とノートが積まれている。進学校らしい量だ。明日の課題もある。けれど今日は、少しくらい後回しでもいい気がした。放課後が良かった日は、夜も少しだけ優しくなる。
ソリトンホラフィックデバイスを手に取る。
二年前、この装置をベッドに投げた自分を思い出す。あの頃は、こんなふうにまた自然に手に取れる日が来るなんて、たぶん信じられなかった。
「ログイン準備を開始しますか?」
バディが再び聞く。
主人公は静かにうなずく。
「うん。」
「開始します。」
部屋の照明が少しだけ落ち、空間に薄い光の粒が浮かび始める。毎度のことなのに、この瞬間はまだ少しだけ胸が高鳴る。現実から切れるのではなく、もう一つの世界へ橋がかかる感じ。
けれど今日は、それだけじゃなかった。
胸元にはバッジがある。
ポケットの端末にはタクトとの短いやり取りが残っている。
家の静けさも、夜の街も、ちゃんとここにある。
その上で、もう一つの世界へ行く。
それならたぶん、大丈夫だ。
光が視界を包む直前、主人公は小さく息を吐いた。
「……行ってくるか。」
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。
タクトにかもしれない。
テトラにかもしれない。
あるいは、自分自身に向けてだったのかもしれない。
そして次の瞬間、世界は静かに切り替わった




