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オイゲさまのいた夏  作者: 曽我部穂岐
第一篇 黄昏

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第五話 名残り

『地頭野民俗資料集』より――「雨乞い三升桝」


 むかしむかし、神見の里のある夏のこと。

 空は晴れわたり、物別川もんべがわはやせ細り、田の苗は今にも干からびそうであった。


「このままでは稲が死んでしまう……」

「オイゲさまに雨を願わんといかん」


 里人たちは神母いげノ大楠のもとに集まり、太夫たゆうを呼んで雨乞いの祭文を唱えはじめた。


 祭文の声が大きくなり、風がそよぎ、

「おお、これは神気が動きはじめた」

 と、誰もが思った、その瞬間――


 ――ボトン。


 大楠の枝の上から、何かが落ちてきた。


 見れば、木の根元にころんと転がっていたのは、大きな「三升桝」だった。


「これはきっと、供物の催促じゃろう」


 里人たちは顔を見合わせ、半ば呆れつつも頷いた。

 食いしん坊の水神の性分を、よく知っていたからである。


 そこで桝いっぱい――いや、てんこ盛りに米を詰めて、大楠の根元に供えた。


「こればぁ、盛ったらえいろう」

「オイゲさまの腹が満ちたら、雨も降らいてくれるろう」


 ところが。


 供えた米の山は、数息のうちに――

 ふわり、と消えた。

 まるで風に吹かれたように、跡形もなく。


 残ったのは、からっぽの桝だけ。


「……こじゃんと食べなさるもんよ」


 子どもたちは呆れ、大人たちは苦笑し、年寄りは、

「まあ、水の神様やき、腹の底もうんと深いがやろう」

 と肩をすくめた。


 ――が、その直後。

 大楠の葉がざわざわと揺れ、空のひとところに黒雲が集まりはじめた。


「お、これは……本当に雨が来るぞ!」

 と里人が期待した、その時――


 ――さざざざあああああああっ。


 まるで川をひっくり返したような、とんでもない豪雨が降りはじめた。

 地面はみるみる水鏡のようになり、小川は滝のように走り、田はあふれ、苗がぷかぷか浮きはじめた。


「オイゲさま、降らせすぎじゃ!!」


 誰かが叫んだ。


 雨の勢いが最高潮に達したとき、再び――


 ――ボトン。

 大楠から、また何かが落ちてきた。


 拾い上げると、それは先ほどの桝と同じ材の木片で、墨で一言だけ書かれていた。


『ちと 盛りすぎた』


 里の者は濡れそぼりながらも、その一言に思わず吹き出した。


「やっぱりオイゲさまじゃ!」

「米を盛りすぎたら、雨まで盛りすぎるがか!」


 雨が少し弱まったところで、里の者は大楠の根元に集まり、三升桝をひっくり返して置き、その上にほんの一握りの米をちょこんと乗せた。


「オイゲさま、今日は“控えめ”にお願い申す」


 子どもらがそう言って頭を下げると、大楠の葉がさらりと揺れ、雲はすうっと流れて、雨は優しい小雨に変わった。


 この小雨は一晩続き、田はほどよい水量へ落ち着いた。

 その年の稲は見事に実り、流されかけた苗も持ち直し、里は久々の豊作だった。


 里人は笑って語り継いだ。


「オイゲさまは米が好きすぎるき、雨まで食欲に引っ張られる」

「桝が落ちたら合図じゃ。盛りすぎたら豪雨になるぞ」


 だから今でも神見の里では――

 雨乞いの際、大楠の根元に供える米の量は、三升桝の“半分よりちくと下”と決まっている。


 オイゲさまが、また張り切らないように。




 片桐神社の朝は、台風の翌日ほど信用ならない。


 空は青く、雲は薄く、瓦の濡れだけが昨夜の名残を主張している。けれど風がない。鳥の声もどこか遠い。何事もなかった顔をしているものほど、実は一番危ない――父の口癖が、勝手に頭の中で反芻はんすうされた。


 俺は自分の部屋の机に肘をつき、開いたままの冊子を見下ろしていた。

『地頭野民俗資料集』――赤錆色の表紙。昨夜、俺はその「ギザの塞場」を読んでいた。


 読みながら嫌な汗をかいて、嫌な匂いを思い出して――そして、続きを思い出せない。

 いや、思い出さないようにしている。言葉にした瞬間に、“何か”と結び直してしまいそうで。


 机の端に置いた腕時計が、朝の光を受けて鈍く光った。父がいつも身に着けていた腕時計だ。


 針は――二時二十二分のまま、止まっている。


 台所から、母が食器を重ねる音がした。いつもより丁寧な音。台風の翌日は、音まで丁寧になる。怖いものに触れないように。

 母は「川は落ち着いたって」と言った。ラジオの言葉を、そのまま借りるみたいに。

 俺は「へえ」と返した。余計な言葉を足すと、時計が止まった理由まで口にしそうになる。


 廊下で、爪の音がした。


 黒茶の毛の犬が滑り込むみたいに入ってくる。胸と足先の白が、朝の光でやけに目立つ。

 ヒエンだ。昨夜は雷のたびに震えて机の下に潜っていたくせに、朝になったら何事もなかったみたいに鼻を鳴らしている。


 ヒエンは玄関の方へ耳を向けて、すぐ引っ込めた。首輪のあたりを気にするように前足で掻いて、尻尾を床に置く。吠えもしない。妙に静かだ。


 そのとき、スマホが震えた。画面には短い通知。


『来て。今すぐ。』


 差出人は倉谷レイア。


 ……昨日の夜のことを、俺は“なかったこと”にしたかった。

 けど隣の神社から呼ばれて、行かないという選択肢は、最初から用意されていない気がした。


「行ってくる」


 誰に向けた言葉か分からないまま、俺は家を出た。


 ヒエンが立ち上がりかけて、すぐ座る。目だけで止めるみたいにこちらを見る。

 俺はそれを見ないふりして、歩いた。


 鳥居が見える。境内の石畳は乾きかけて、薄い蒸気がゆらりと立っていた。楠の葉が光を返す。

 ――それでも、昨夜の冷えが足首の裏に薄く残っている。水の底の冷たさ。剥がれない膜みたいな感覚。


 社務所の戸口に、白い髪紐が結ばれていた。レイアの合図だ。あれがある時は「絶対来て」の意味だ。


 ため息をついて、俺は神殿へ回った。


 しゃく、しゃく、しゃく。


 澄んだ空気に不釣り合いな咀嚼音が、神殿の奥から響いた。


「……は?」


 御簾の影に置かれた三升桝が目に入る。米が山のように盛られ、いままさにその“山頂”が削られているところだった。


 そしてその前に座っているのは――白いワンピース姿の少女。


 腰まで届く黒髪。毛先だけが水気を帯びて光り、小さな鈴と榊の葉の髪飾りが、噛むたびにちりん、と揺れる。

 少女は三升桝を抱えたまま、『地頭野民俗資料集』をじっと読んでいた。開かれているのは、「雨乞い三升桝」のページ。


「……降らせすぎたがは、まあ認める。認めるけんどの……」


 もぐ、と噛みながら、声だけはくぐれたように響く。


「こんな話、よう残したのう。“米を盛ったら雨まで盛る”ち……わしはそんな単純やないぞ?」


 否定のわりに、米は減るというより“消えて”いく勢いだった。


 俺は戸口で固まったまま、声だけが遅れて出た。


「……誰……?」


 少女がぱちりと振り向く。口元についた米粒を指でつまみ、口へ運ぶ。

 その仕草が、どこか――“確かめるみたいに手首を取る”動きに似ていて、背中が薄く冷えた。


「おお、健彦かえ。入り」


 知り合いみたいに呼ばれて、喉の奥がきゅっと縮む。呼ばれた分だけ、名が軽くなる気がした。


 次の瞬間、神殿の戸がもう一度、きい、と鳴った。


「来たね、たっけ」

「ほら、座りなよ」


 レイアとラミエが、普通の顔で入ってくる。普通の顔で。昨日の夜を、普通の朝の続きみたいに扱う顔で。


「いやいやいや、お前ら! まずそこにツッコめ!! この子誰!? なんで神殿で山盛りの米食ってんの!?」


 レイアが逆に不思議そうに首をかしげた。


「誰って……オイゲさまだけど?」


「はぁぁ!?」


 俺の声がひっくり返った。

 “オイゲさま”という単語が現実の空気を持った瞬間、逃げ道が塞がる。


「神さまがその格好で、実体あって、めちゃくちゃ飯食ってるわけないだろ!」


「そのワンピース、わたしの昔のやつだよ。似合ってるでしょ?」

 レイアが当然みたいに言う。


 ラミエは肩をすくめた。


「ここ神社だし、守神がおわしてるのは普通だろ」


「普通じゃないき! 俺の世界線では大事件!!」


 俺が叫ぶのをよそに、少女――オイゲさまは三升桝を置き、ゆるりと立ち上がった。

 足音がしない。床を踏んだはずなのに、音が“届かない”。代わりに空気だけが少し湿って重くなる。


「まあ落ち着きや。わしがオイゲ。神母ノ大楠の守神じゃ」


 その名乗りを聞いた瞬間、喉の奥が冷えた。言葉にしてはいけないことを、言葉にされたみたいな冷え。


「……ほんとに……?」


 オイゲさまは俺の手首――腕時計がある場所へ視線を落とした。

 見られた途端、時計が重くなる。二時二十二分が皮膚の裏に貼りつく。


「そりゃあ本物よ。疑うのは構わん。じゃが――礼は言うな」


「……え?」


「礼は縛りになる」


 優しいのに、先を切る刃みたいに正しかった。

 レイアが頷き、ラミエも頷く。二人とも“知ってる”顔だ。俺だけが遅れている。


 俺は改めてオイゲさまを見た。目の前の彼女は小さい。肩の線が細く、ワンピースが少し大きめに見える。

 それでも髪の毛先だけは相変わらず水気を含んだように黒く、鈴の音だけが妙に澄んでいる。


「すこし……小さくなった?」


 思わず口に出すと、オイゲさまは何でもないことみたいに言った。


「水から離れたきよ。乾けば、わしは薄う幼うなる」


 レイアが得意げに言う。


「ほらね。だから今日は神殿。水のそばじゃないき、ちょっと小さめ」


「ちょっと小さめって何だよ……神さまのサイズに“ちょっと”とかあるのかよ……」


 ラミエが淡々と続ける。


「ある、ない、じゃない。水とえにしで“濃さ”が変わる」


 オイゲさまが三升桝の縁を指で軽く叩いた。


「それと米じゃ――水があれば稲が実る。稲が実れば人が生きる。守る神は、腹も持つ」


「腹……」


 ラミエは桝と米をもう一度だけ見て、言葉を続けた。


「……黄泉戸喫よもつへぐいって知ってる? 黄泉の食べ物を食べると戻れなくなる。――その逆だよ。此岸の供物を通して、此岸に“いかり”を下ろしてる」


「錨?」と俺が聞き返すより先に、オイゲさまが言った。


「半身のままじゃ、彼岸にも此岸にも立てん。やき、しばらくは此岸こちらで世話になる。……それに、供えを摂れば力は戻る」


 俺が呆然としていると、オイゲさまは箸を置き、目の前の冊子をぱたりと閉じた。

 赤錆色の表紙が見えた瞬間、父の机の匂いが一瞬だけ戻ってきて、胸がきゅっと縮んだ。


 ラミエが傍らの木箱を開け、布で包まれた巻物を取り出した。留め紐の結び目をほどく手つきが、やけに慎重だ。破けば紙じゃなく“境”が裂ける――そんな手つき。


 床に置いて、ゆっくり広げる。乾いた紙と墨と塩の匂い。

 鳥居と川と楠の線が見えた瞬間、足首の裏の冷えがぶり返した。


「昨夜……じゃない。今の話として聞いて。健彦、名が揺らぎかけてる」


「名前が……?」


 自分の“健彦”という音が、口の中で一瞬だけ軽くなる。呼ばれて当然だった音が、どこか借り物みたいに感じられて怖い。


「忘れられるんじゃない」

 ラミエは巻物の一点を指で押さえ、低く言う。

「――名が欠ける。”片名かたな”になったら、戻す先がない。今のうちに戻さないと」


 オイゲさまの表情が、少しだけ締まった。


「境に触れた者は、完全には戻れん。まして大楠は裂けた。わしは彼岸での半身を失うちゅう。……このままでは境が薄うなって、“常闇とこやみ”が此岸へ流れ込む」


 レイアが巻物の端を指さす。絵の中には黒い大きな影と、それに向き合う“刃の気配”が描かれている。

 俺はそれを絵巻として見たいのに、目だけが勝手に現実として受け取ってしまう。


「常闇って、“大いなる影”のこと。建依別が封じたって、うちに残ってる話。此岸は“いま私たちがいる側”。彼岸は“神様たちがいる向こう側”」


 オイゲさまが俺を見た。


「神とはな、語られてこそ。名を覚えられ、語られることで、此岸にも彼岸にも居れる。じゃが語られんようになれば、片名となり、影に溶けて消える」

 言葉はやわらかいのに、背骨を撫でられるみたいな怖さがあった。俺は反射的に息を飲む。――“消える”。それが、ただの比喩じゃない響きで落ちてくる。


 ラミエが、視線を落としたまま静かに言う。

「……神話的残欠レムナントですね」


「そうじゃ。難しい言葉を知っちゅうのう。簡単に言えば――名残なごりじゃ」


 オイゲさまは『地頭野民俗資料集』に目を落とす。まるで表紙に書かれている文字が、誰かの輪郭を繋ぎ止める縄みたいに見えた。


「名が残るから、わしはここに立てる。――健彦、おまんも境に触れたせいで名が揺らぎかけちゅう。名が薄うなれば帰り道が細うなる」


 水底から伸びてきた温かい腕の記憶が、遅れて、指先の感覚として蘇る。――あれも、名が繋いだ道だったのか。


「……じゃあ、どうすればいい」


 俺の声は自分でも情けないくらい乾いていた。

 レイアはすぐ近くにいるのに、息をしていないみたいに静かだ。目だけが俺を縫い留めて、視線を外さない。そして袖を掴む指先が、ゆっくり確かめるみたいに強くなる。


 オイゲさまは御簾の向こう――境内の楠の方へ視線を向けた。

 風もないのに布がひとつ揺れ、冷気が一筋、神殿に入ってきた。


「境の元は物別川。大楠と池の両方で支えちょったが、今は片方が裂けた。……このままでは保てん。別の水の神の力を借りに行かんといかん」


「水神……? どこに?」


 オイゲさまの瞳が、川底に差す光みたいに静かに光る。


「向かう先は――」


 鈴が高く鳴った。


白金淵しろがねぶちじゃ」


 その瞬間、神殿の空気が水の底みたいに静まった。

 遠くで、まだ見ぬ“何か”がこちらを見返す気配だけが、確かに波立つ。


 神殿の外で、ヒエンが一度だけ吠えた。けれど、その吠え声は短く途切れ、気配だけが「置いて行くな」と残った。


 俺はそれを聞こえないふりをして、腕時計に触れないよう手を握った。


 三人と一匹と一柱の――“夏”が、いま始まろうとしていた。


 揺らぎかけた名を取り戻すため。

 裂けた境を、もう一度つなぐために。

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