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オイゲさまのいた夏  作者: 曽我部穂岐
第一篇 黄昏

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第四話 加多奈切

『地頭野民俗資料集』より――「刀を斬った木刀の話」


 山々に抱かれた神見の里では、片桐神社の神母いげノ大楠が、彼岸と此岸を隔てる“境”をひそかに守ってきたと伝わる。


 戦国の世が収束しはじめた頃、天下に刀狩の命が下り、神見の里でも武家だけでなく民の家の刃まで差し出すこととなった。秋の神祭に奉納されてきた太刀舞の太刀まで取り上げられ、里人は祈りの形を奪われたように感じたという。


 そんなある夏、境内の大楠に落雷が走り、太い枝が一本、裂けるように折れて地に落ちた。翌朝、宮司は折れ枝に祈りを捧げ、これを天の知らせとして受け取り、その枝を削って太刀舞のための神木刀を拵えた。


 季節が巡り初夏、黄昏が川面に沈みはじめる頃、物別川のほとりで若者がその神木刀を手に舞の稽古をしていた。


 雲ひとつないのに風が止み、虫の声が途絶え、世界から音が抜け落ちたような深い静けさが訪れる。川霧が立ち、畦道の境目も曖昧になる中、霧の奥から金属の軋む気配が近づき、古びた甲冑の武者が現れた。


 名を問うても声は返らず、口は開くのに名前だけがこぼれない。まるで言葉の先をどこかに喰われたようだった。


 次の瞬間、武者は黒ずんだ太刀を抜き、若者へ斬りかかる。


 若者が神木刀で受けると、響きは雷鳴のように走り、黒い太刀の方が根元から真っ二つに割れた。武者を縛っていた闇の気配もするりと離れ、武者は霧へ溶けるように消え去ったという。


 この神木刀は後に“加多奈かたなぎり”と呼ばれ、片桐神社の祈祷太刀舞に用いられ、今も社の奥に安置される。


 しかし不思議なことに、あの夜それを振るった若者の名だけは、誰ひとり語らない――まるで若者自身も、闇の中で名を啄まれたかのように。




 雨が、世界を殴っていた。

 風が、屋根の下で獣みたいに唸り、木々の枝を引きちぎろうとしている。

 雷鳴は遠い、近い、遠い――間を変えながら、町の骨を揺らす。


 片桐神社の鳥居の前で、レイアは一度だけ足を止めた。

 寝巻きの上から羽織った薄手の上着は雨を吸って重く、袖が腕に張りつく。髪は結ぶ暇もなく、濡れたまま首筋に貼りついている。息は浅い。走ってきた熱がまだ胸に残っているのに、鳥居の内側の空気だけが妙に冷たかった。


 隣のラミエは、作務衣の上に簡単な雨具だけを羽織っている。濡れているのに所作が静かで、動くたび水滴が落ちるはずなのに音が小さい。

 彼は鳥居の柱を見上げ、それから目を伏せるように境内を“聴いた”。


 ――いる。

 たっけが、境内のどこかにいる。


 その確信だけが、霧みたいに胸の奥へまとわりつく。

 けれど“そこだ”と指差せない。気配は点じゃない。面だ。境内全体に薄く溶けている。水に溶いた墨みたいに濃淡だけが揺れて、場所にならない。


 レイアは歯を食いしばる。

 呼べない。名を呼べば結ぶ。結べば寄る。寄れば引かれる。

 たっけの声が聞こえないまま“先に呼んで”しまう。そうなれば戻れない。


 ラミエが低く言った。


「いるよ、確かに。大楠が裂けて、“さかい”が開いたがかもしれん……」


 その言葉の終わりに合わせるように雷が鳴った。

 鳥居の外の雨音が一段強くなる――はずなのに、鳥居の内側だけ耳の奥の圧が変わる。雨が降っているのに音が遠い。風が吹いているのに葉擦れが薄い。境内だけが、別の膜を一枚かぶせられている。


 レイアは息を整えようとした。

 息の整え方を知っているのは、剣道のときだけじゃない。神社の子として、何度も叩き込まれてきた。


 レイアが一歩、大楠の方へ踏み込む。

 石畳は濡れて黒く光り、雨は確かに落ちてくる。

 なのに――境内の奥の“大楠の根元”だけ、雨が落ちていないように見えた。雨粒がそこだけ避けている、というより、落ちても“届いていない”ような不自然さ。


 名前を言いかけて、レイアは喉を噛んだ。舌が苦い。名を呼ぶのは結びだ。今は、まだ。


 代わりに白い髪紐を指で握り、結び目を確かめる。

 結び目が、見えない何かに引かれる感覚がした。糸が風に引かれるのとは違う。もっと深いところから、ゆっくり引かれる。

 ――引かれる先が、分からない。それが一番嫌だった。


 ラミエが小さな鈴を取り出して鳴らした。

 音は鳴ったのに、返ってこない。反響がない。山の中みたいな静けさが、境内に落ちている。


 レイアは裂けた大楠を見た。

 幹は縦に割れ、内側の木肌が白く露わになっている。焦げた匂いの奥に、濡れていないはずの冷たい匂い――水の底みたいな匂いが混じる。


 その根元に、“黒いもの”が広がっていた。

 土の黒さじゃない。闇だ。墨を垂らしたみたいに粘り、光を吸い、地面に貼りついている。

 それが雨の中にありながら、濡れていない。


 レイアの背筋が冷えた。


「……やっぱり、境の内側に」


 ラミエの声が妙に落ち着いているのが怖い。

 落ち着いているのは恐れていないからじゃない。恐れの形を知っているからだ。


 そのとき――雨音の奥で、声がした。

 聞こえた、というより、耳の奥に“置かれた”。

 柔らかい、古い言い回しの声。水のように冷えているのに、指先だけ温い声。


『……結ぶな。泣くな。名を呼ぶな』


 レイアが息を止める。ラミエの瞳が一瞬だけ鋭くなる。

 二人には聞こえる。境の向こうから。普段なら雨音に溶けるはずの声が、今日はやけに輪郭を持って落ちてくる。


 レイアは反射で膝をつきそうになった。祈りの姿勢が身体に染みついている。

 けれど膝が石に触れる前に、ラミエが肩を押さえた。


「……駄目。ここは祈る場所じゃない」

 祈ると結ぶ。結ぶと寄る。寄ると引かれる。


 レイアは震える息で問いかける。

「……誰? ……どこにいるの」


 返事はすぐではなく、雨の一拍遅れで返ってきた。


 ――『わしは、この社のりじゃ。神母ノ大楠と、神母池に宿るもの』


 ラミエの喉が小さく鳴った。


「お神母さま――」


 恐怖はなかった。畏れと親しみが混じった呼び名。

 二人にとってそれは遠い伝承じゃない。日々の清掃の延長にいる存在だった。池の落ち葉をすくい、縄を張り直し、手水の器を清める――そういう“手当て”の先に、いつも産土うぶすなの気配があった。


 レイアが堪えきれず言う。

「オイゲさま! ……たっけは、そこにいるの!?」


 ――『おる。だが、ここは“内”じゃ。お前らの手は届かぬ』


 届かない。見えない。触れない。けれど“いる”と分かる。


 ラミエが雨の中で一礼した。深く、短く。


「……お神母さま。御指図を」


 声はまた、耳の奥に落ちた。


『わしの分身わけみ――加多奈切かたなぎりを楠の根へ置け。内から切って“門”を開くほかない』


 加多奈切――神母ノ大楠の落枝から削り出された御神木刀。ラミエは楠の根を見た。根の隆起と石畳のきわだけ、雨が落ちているのに“届いていない”――境の縫い目が、そこにある。


『あとは“祭文さいもん”の準備をせよ。境を少しほどかねば、分身も通らん』


 レイアは唇を噛んだ。

 自分たちでは届かないのは分かっている。分かっているのに、目の前で健彦が沈むのを感じられてしまうのが耐えられない。


 ラミエがレイアの袖を掴む。

「レイアは加多奈切を取りに行って。僕は――ほどく準備をする」


 レイアは頷き、社務所の奥へ走った。

 雨が背中を叩き、足元が滑る。けれど迷わない。

 加多奈切は、社の奥の、湿気の少ない場所に納められている。木刀は乾きに弱い。触れ方にも作法がある。


 扉を開けると、木の匂いがした。

 古い紙、塩、白木。息が、少しだけ戻る。


 レイアは布に包まれた細長いものを抱えた。軽い。なのに、持った瞬間、腕が重くなる。

 道具は、持つ者の覚悟を測る。



 境内へ戻ると、ラミエはすでに御幣ごへいを作っていた。


 この神見の地に伝わる神道――みずなぎ流の裏作法。みずなぎ流では「祝詞のりと」ではなく「祭文さいもん」を唱える。祝うだけじゃない。祓い、呪い、結び、解く――言葉をまじないの形へ落とし、祭文に応じた御幣で場を動かす。


 紙をただ切るのではない。折り、裂く。結び目を解くように、丁寧に、均して。

 その手つきが静かすぎて、雨音がいっそう荒く聞こえる。


 レイアは楠の根元へ駆け寄り、加多奈切を布から出した。濡らしてはいけない。雨が当たらない位置を選ぶ。

 根の隆起と石畳の際に、刀を“置く”。置くというより、帰す。


 加多奈切の木肌は乾いているのに、触れるとひんやりする。生木の冷たさじゃない。水の底の冷えが、指の奥へ残った。


 ラミエが御幣を持ち、楠の根元に半円を描くように立つ。雨が作務衣を濡らし、袖から水が落ちる。

 けれど彼の足元だけ、雨粒の跳ね方が違う。跳ねているのに、返ってくる音が薄い。境の膜が、そこにある。


 ラミエは一度だけ目を閉じ、息を整え、“ほどき”の祭文を唱え始めた。

 声は大きくない。雨音を割らない代わりに、雨音の“奥”へ沈み、境の裏へ届いていく。



 天地あめつちの清き神々に、かしこみ畏み申す。

 ここにせき立て、囲いを据え、鎖を結びて守り給う。

 されど、帰すべきものあり。戻すべき名あり。

 解くは招くにあらじ。解くは帰すためなり。


 五方に八角岩の関、顕じ渡らせ給へ。

 東方朝日の戸、

 南方周旋しゅうせんの戸、

 西方入日の戸、

 北方五万五色の戸、

 中方中敷なかしきの戸。

 黒金くろがねの鎖は解かず、結び目ひとつのみ外し給え。


 結びをほどき、影の絡まりをほどき、名の舟を返せ。

 ほどけよ、ほどけよ――ほどきて帰せ。



 投じた御幣が宙を舞い、言葉が落ちた瞬間、境内の空気が“鳴った”。

 音が消えるんじゃない。置き場所が変わる。雨音が一段遠くなり、雷鳴が薄くなり、代わりに――水面へ指を落とした時のような、低い震えが足元から立ち上がる。


 楠の根元の闇が、ぐらりと揺れた。粘る闇が、紙の縁に触れたところから、すっと細くなる。墨が水に溶けるみたいに、黒さがほどけていく。


 レイアは喉の奥で息を呑む。

 今、何かが“緩んだ”。緩んだのは境の結び目――戻すための抜け道だ。


 その瞬間、声がした。

 今度ははっきり、レイアの耳に届いた。雨音の奥じゃない。雨音の“中”へ透明な声が差し込む。


『……ようやった。確かに届いたぞ』


 レイアの視線が、加多奈切へ落ちる。

 刀はそこにある。濡れない位置に、さっきと同じ角度で、ただ置かれている。――何ひとつ動いていない。


 それでも、次の瞬間。

 木肌の奥を、誰かの指先が撫でたみたいに冷えが走った。


 乾いた楠の匂いの奥から、池の底の匂いが立ち上がる。濡れていないのに、湿りの気配だけが増える。

 加多奈切そのものは微動だにしない。なのに、そこに“あるはずの重さ”が一枚、境の向こうへ滑っていく感覚がした。


 置かれた刃が、こちらに残したのは形だけ。“中身”だけが、いま確かに、境の内側へ渡った――そんな矛盾の手触り。


 レイアは泣きそうになった。泣いたら招く。だから代わりに唇を噛み、頬の筋肉が痛くなるほど堪えた。


「……オイゲさま」


 礼を言いかけて、声がすぐ制した。


『礼はいらぬ。礼は縛りになる』


 優しいのに容赦がない。禁忌の刃みたいに正しい。


 ラミエが御幣を持ち上げ、結び目の形を保ったまま声を落とす。


「……タケは帰れますか」


 返事は短い。


『名が落ちかけとる。急がんと、んて来れんようになる』


 レイアは息を止めた。

 名が落ちる――それは、存在が薄くなるということだ。


 そのとき、レイアのすぐ横――大楠の根元の闇の向こうで、何かが動いた気配がした。

 見えないのに、そこに“人の重さ”がある。たっけだ。いる。確かにいる。


「た――」


 今度は抑えきれず、名を口にしそうになる。

 けれどラミエが、ほんの一瞬だけ首を振った。


 代わりに、手を伸ばす。

 掴みたかった。袖でも腕でも、髪でもいい。触れられさえすれば、ここにいると確かめられる。


 だが指先は、するりと抜けた。布を押した感触がない。熱もない。

 代わりに冷たい水を掻いたみたいな抵抗だけが一瞬あり、次の瞬間、空を掴んでいる。


 レイアはぞっとして手を引っ込めた。


 ラミエが低く言う。


「触れたら、持っていかれる。……今は、まだ“こちら”から先に触る段じゃない」


 レイアは悔しさで歯を鳴らした。掴めるはずの距離にいるのに、手のひらだけが“外”に置き去りにされる。


『加多奈切は“人”のためにあるもんじゃ。門を切るのは守神わしには出来ん』


 守神は境を縫い止めることはできても、“切り開く”ことは許されていない。

 だから――この先へ渡す相手が要る。


『じゃが、安心せい。幸いにも当代一の舞手はここにおる』


 その直後、境内の空気が震えた。

 音が戻りかける。雨音が近づき、雷鳴が現実の厚みを取り戻し始める。

 ――結び目が、戻ろうとしている。


 ラミエが御幣を握り直し、声を絞る。


「タケ、聞こえるなら――動くな。……加多奈切を持ったら、呼吸を合わせて。舞の通りに」


 返事はない。けれど境の奥で、何かが“整う”気配がした。


 レイアは息を飲んだ。

 中学を卒業するまで、たっけはずっと秋の神祭じんさいで太刀舞の舞手をやっていた。嫌々だと口ではいつも言っていた。

 でも木刀を握った途端、別の顔になる。夕方の境内で、何度も見た。蝉の声が一拍そろって、風が止まる瞬間。

 たっけの木刀が空を切るたび、空気が薄く鳴って、伸びる鳥居の影に胸が締まった。怖いくらいに、目が離せなかった。


 高校になって舞わなくなってしまっても、型だけは身体が覚えているはずだ。


 境内の奥――雨の降らない側で、木の刃が動く気配がした。


 そして、次の瞬間。


 楠の根元の闇に、一本の“線”が走った。


 裂け目ではない。斬り傷でもない。

 縫い目だ。境と境の合わせ目が、刃で撫でられて、ほどけて開く。


 闇が音もなく割れた。割れた闇の向こうから、風が吹き込む。

 風と一緒に、雨が“帰ってくる”。境の内側には降っていなかった雨が、いま現世の重さを伴って流れ込む。


 線は鳥居の形にも、戸の形にもならない。

 ただ世界が二枚重なっていたのが、一枚だけめくれて“穴”になる。


 そこから、ひとつの影が落ちた。


 人が落ちる音がした。石畳に膝が当たる鈍い音。息を吸いそこねた喉の音。


「たっけ!」


 レイアが駆け寄ったとき、健彦は加多奈切を握りしめ、泥と雨にまみれて倒れていた。

 顔は青い。唇は震えている。目は開いているのに、焦点が合っていない。


 レイアが肩を抱き起こそうとすると、今度は――ちゃんと“重さ”があった。

 すり抜けない。濡れた布が指に引っかかる。熱がある。心臓が打っている。


 レイアは喉の奥が痛くなるほど息を吐いた。


 ラミエがすぐ横に膝をつき、健彦の手首を取る。二本指で脈を確かめる。

 その手つきが、誰かに似ていて――レイアは一瞬だけ目を逸らした。


 雷が鳴り、境内が白く裂けた。

 裂けた光の中で、楠の割れ目から“黒いもの”がまた滲みかけ、次の瞬間、滲む前に引っ込む。まるで結び目が締め直されるみたいに。


 雨が強くなる。現世の音が戻る。

 けれどレイアの耳には、まだあの声の余韻が残っていた。


『……次は“せき”の祭文じゃ、急げ。仮止めじゃ。早うせんと、結びが戻らんようになる』


 レイアは健彦を抱え、歯を食いしばった。

 泣かない。泣けば招く。

 だから代わりに、縛りつけるように腕へ力を込めた。


 ラミエが立ち上がり、御幣を胸元に収める。


「分かりました。今から閉じます。――レイアはタケを、早く運んで」


 レイアは頷いた。

 健彦の体温が、雨の冷たさの中で確かに熱い。この熱があるうちに、家へ連れ戻す。


 境内の奥で、裂けた楠が低く鳴った。骨が折れる音に似た、古木の呻き。


 ――木の刃は眠りて、夏を待つ。


 ラミエは夜神伝承の一文を思い出し、楠の影へ向けて問いかけた。


「お神母さまは……そちらに留まられるのですか」


『そうじゃの――』


 夏は来たり――木の刃は目を覚ます。

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