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オイゲさまのいた夏  作者: 曽我部穂岐
第一篇 黄昏

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第三話 オイゲさま

『地頭野民俗資料集』より――「片桐神社縁起」(抄)


 片桐神社は、一之宮・川上かわかみ地頭府じとうふ神社の末社として永和二年(1376年)頃、神見の里に勧請されたと伝わる。物別川の水脈と、境内の御神木「神母いげ大楠おおくす」の根に結ばれた神域をなし、里の此岸しがん(現世)を護る社である。社名は古く「片切かたきり」とも記され、境を切り分け、乱れを断つ意に由来する。


 縁起によれば、はるか昔、夜の神はひとつであり、里の縁に触れれば道は裂け、名は薄れ、帰り路は閉ざされたという。その大いなる夜に対し、川上地頭府神社の主祭神・建依別たけよりわけ大神おおかみが降り、夜を討つのではなく四つに切り分け、境を定めた。


 すなわち、裂け目を作る赤き夜「黄昏たそがれ」、縁を薄くする青き夜「月読つくよみ」、向こう側を照らす白き夜「入明いりあけ」、そして永久に変わらぬ黒き夜「常闇とよかみ」である。


 赤・青・白の夜は名を与えられ、禁めとして語り継がれることで鎮まったが、常闇ばかりは刃も届かず討てなかった。


 そこで建依別大神は討つことを捨て、封ずることを選んだ。境を撫でて道を塞ぎ、帰り路を細くし、闇を深きところへ押し戻し、大神みずからが楔となって封の内に留まった。


 ――これが片桐神社に伝わる封の起こりとされる。


 また、大神が刃で境を撫で、此岸と彼岸のあいだに戻れぬほど深く“物別ものわかつ”境を引いたという伝承があり、その境の線こそ物別もんべ川であると語り継がれてきた。川は水の道であると同時に境の道で、越えれば名が揺らぐとされ、川霧の立つ折には多くの禁めと慎むべき作法が残る。


 主祭神は建依別大神。道を分かち境を定め、此岸しがん彼岸かがんの縁を裁き、乱れた結びを断ち、迷いの道を閉じ、帰るべき路を守る神と伝えられる。


 加えて、片桐神社には境内の池と樹齢推定千年とされる神母ノ大楠に宿る水の守神があり、里人は畏れつつ親しみを込めて「お神母いげさま」と称する。


 守神は建依別大神が深い境に留まる間、水を鎮め縁を見張り、裂け目を塞ぎ、人の世が向こう側へ寄りすぎぬよう静かに手当てを続ける存在である。


 毎年九月の秋祭には、御神木に由来する木刀を用いた「みずなぎ流祈禱神楽(太刀舞)」が奉納され、境を薙ぎ、穢れと歪みを鎮めるとされる。




 雷鳴の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。


 俺は玄関を飛び出ると、大雨の中を走って片桐神社の鳥居をくぐった。境内の石畳は水を吸って黒くなり、足を置くたび薄い水が跳ねる。風が木の葉を裏返し、雨は斜めに叩きつけてくる――のに、鳥居を越えた瞬間だけ、耳の奥の圧が変わった。外の嵐が一歩遠のいたみたいに、音の輪郭だけが薄くなる。


 境内の中央に立つ神母ノ大楠は、光の残像のまま裂けていた。

 楔を打たれたみたいな裂け目が幹を割り、割れた内側が白くあらわになっている。樹皮の黒と木肌の白が、稲妻の色をまだ抱いているみたいだった。焦げた匂い――その奥から、濡れていないはずの匂いが立つ。生木の匂いじゃない。水の底みたいな匂い。冷たいのに、花が香るみたいに甘い。


 俺は根元に倒れていた人影へ駆け寄った。

 漆をさらに深くしたような長い黒髪。レイアじゃない、よかった――そう思った自分を、すぐ打ち消す。


「おーい! 大丈夫か!」


 声を張ったつもりなのに、音が変に薄い。雨の音の方が近くて、俺の声は遠い。耳が、どっちを聞けばいいのか迷っているみたいだった。

 

人影は動かない。裂けた大楠の枝の下、影の濃いところで、濡れた服の色が土と同化している。肩の線だけが妙にきれいに見えた。――きれいすぎる。まるで「形」だけが残っているみたいに。


 近寄ろうと一歩踏み出した右足が、不意に沈んだ。

 驚いて足元を見ると、地面が一面の黒に覆われていた。いや、黒じゃない。闇だ。裂けて焦げた大楠の幹から、墨を垂らしたみたいにどろどろの“闇”が流れ、根元一面に広がっている。雨でぬかるんだ土とは違う。濡れていないのに粘る。光を吸って、足首を絡め取ろうとしている。


「なっ――何だよ、これ!?」

 慌てて足を引き抜こうとするが、深い泥濘ぬかるみにはまったみたいに動かない。足首の皮膚の上に、冷たい膜が一枚貼りついて、下へ下へと引っ張る。引っ張るくせに痛くない。――それが余計に怖い。


 空気が急に重くなったのを感じて、顔を上げて気付いた。


 風が止んでいる。打ちつけていた雨も。遠くの川の濁流も。すべての音が消え、静けさが鳴った。耳の奥に綿を詰められたみたいに、世界が一枚薄くなる。

 見上げても空はなく、見回しても地はなく、あたりの空間の一切が闇に包まれて、その中央に裂けた大楠だけが、いやに白く光ってそびえ立っていた。


 その時――背後で、水音がした。


 振り向くと、境内の神母いげ池。闇に塗りつぶされて見えないはずの水面が、雷の残り火みたいにほの白く揺れている。雨が叩いていたはずなのに、波紋は広がらない。水面が鏡みたいに一枚になっていた。


 その鏡の真ん中から――手が出た。

 白い手。指が細い。爪は濡れていない。水面を割らずに、空気の中へ伸びる。まるで水が「そこに穴を開けた」みたいだった。


 俺は息を止めた。声が出ない。膝も動かない。さっきまで走っていたのに、今は膝が石になったみたいだ。

 

 その手が、ゆっくりと水面を撫でた。

 撫でた瞬間、池の鏡が“ほどけた”。波紋が遅れて広がり、雨音が一拍遅れて戻り、境内の匂いが一段濃くなる。――水と楠の匂い。冷たいのに甘い、花の香りの混じった匂い。

そして、水面のへりから、少女が立ち上がった。


 雨の中にいるはずなのに、着物の裾は濡れていない。髪も滴が落ちない。なのに毛先だけ、ずっと水を含んでいるみたいに黒い。薄い単衣ひとえ。色は白と水浅葱みずあさぎのあいだ。月明かりみたいに淡くて、目を離すと消えそうだった。


 少女は裂けた大楠を見上げ、悲しむでも怒るでもなく、ただ“確かめる”ように目を細めた。

 

 次に、その目が俺へ向く。


 喉が鳴った。自分の喉の音がこんなに大きいはずがない。けれど境内の音は全部、今、彼女の方へ吸われている気がした。


 少女が口を開いた。

「――健彦かえ」

 呼ばれたのに、妙に“名前”が軽くなる。呼ばれた分だけ、どこかに引かれる感覚がした。――引きずり込む力じゃない。むしろ、落ちかけた名を掴まれる感じだった。


「……誰だ」

 かすれて、声がやっと出た。

 少女は池の縁から石畳へ足を置いた。足音はしない。水たまりを踏んでも水しぶきが立たない。なのに近づくほど、空気だけが湿って重くなる。


「“そちら側”からは、先に名を呼んではならん」

 柔らかいのに、言い切る声だった。古風な言い回し。けれど恐怖はなかった。水の温度みたいに、ただ、そうだという声。


「……え?」

「名は舟ぞ。闇夜に舟を出せば、みおの深みにかれる」

 少女はそう言って、俺の顔ではなく、手首――父の腕時計がある辺りを見た。何を言っているのか、意味が分からない。


「だから、誰なんだ。なんで俺を知ってる? 大楠の下で倒れてる人は、あんたが――」

「ああ、あれは……わしじゃ。しかし、えろう派手に裂けたのう」

 少女は俺の足元の闇を見た。闇は俺の足首に絡みつきながら、大楠の裂け目へも伸びている。まるで根が闇を吸っているみたいに。


「どういう――」

「わしの顔を忘れたかえ、健彦?」

 少女が、間合いを詰めた。


 俺はとっさに後ろへ下がろうとしたが、足元の闇のせいで動けない。彼女の指が俺の手首を取った。二本指。脈を確かめるみたいに。ひやりとするのに、指先だけ温い。


 その瞬間、視界の端で光が走った。稲妻じゃない。もっと古い夏の光。



 ――小学生の頃。

 神社の神母池は昼間でも黒く、覗き込むほど自分の顔が薄くなる気がした。

 レイアとラミエと池の縁で遊んでいた時、濡れた石畳で足が滑って、空がひっくり返り、池に落ちた。次の瞬間、耳の奥まで水が入った。冷たいだけじゃない。水が重かった。喉が勝手に水を飲んで、息を吸えない。声も出ない。


 沈む――というより、引かれた。身体じゃなく、自分の名前だけが先に落ちていく感じがして、怖いのに目が逸らせなかった。水は黒いのに綺麗だった。綺麗なものほど、離れがたい。


 その時だ。冷たい水の中で、指先だけ温い“手”が触れた。

 掴まれた、というのは違った。確かめるみたいに手首を取って、ゆっくり引き上げられた。泡が上へ走り、遠かった蝉の声が戻ってくる。水面が割れて空気が入った瞬間、俺は咳き込んで石畳に吐き出された。


 遠くから駆けてくるレイアとラミエの滲んだ涙顔の――水滴の向こうに、濡れていない影が立っている気がした。髪の毛先だけ黒く、目だけが水面みたいに光を拾って。


 ただ、冷たい水の中で指先だけ温い“手”に引き上げられた感触だけが、記憶の切れ目に残っていた。


 いま、その温さが手首の皮膚の裏から蘇った。


「……オイゲさま?」


 口から自然と出た言葉に意志があったかは分からない。次の瞬間、池の水面の下で何かが走った。水脈が目を覚ましたみたいに、石畳の隙間から薄い水が滲む。滲んだ水は闇に触れると闇を濡らし、濡らしたところから闇が縮んだ。墨が水に溶けるみたいに。


 少女はほんの少しだけ笑った。水面が光を返すみたいな微笑み。


「よう思い出した――」


 その言葉の途中で、空気がきしんだ。


――「これで、そちら側に招かれた」


 声の後ろ半分が、背中から聞こえた。


 振り返る。大楠の下に倒れていた人影が起き上がり、顔が見えた。さっき池から立ち上がった少女と同じ目。同じ水面の瞳。けれどこちらは輪郭が薄い。まるで夜の底から引き上げられたみたいに。


 「楠が裂けて、わしの力ではさかいを抑えきれんようになった。お前が踏み入れたのは、人ならざるものの異界――“彼岸ひがん”と、現世――“此岸しがん”のあわいじゃ」


 少女は袖を少し持ち上げ、指先で俺の足元を撫でた。撫でられたところに水の匂いが立つ。闇は嫌がるみたいに引いた。俺の足首を絡めていた闇が、じゅっと細くなっていく。足が軽くなり、抜けた。


「彼岸から名を呼ばれれば、お前は二度と此岸に戻れんようになる。じゃき、えにしを結ぶために、先にこちらから名を呼んで、それから――お前に呼ばせた」


 俺はもう一度、少女を見た。目だけが、水面のように深く、やけに現実的だった。

「……本当に、オイゲさま、なのか?」


 自分の声が情けないくらい乾いて聞こえた。

 少女はすぐには答えない。瞬きを一つ、ゆっくり落とす。睫毛が濡れないのが、逆に怖い。沈黙が長いほど闇がまた寄ってくる気がして、俺は息を浅くした。


「夢かうつつか、今は深う考えんでもえい。それと、礼は要らん。礼は“縛り”になる」

 その声は優しさのまま、言葉の先を制した。


「わしの“もと”は、彼岸こちらで弱りきってしもうとる。此岸あちらの水脈を呼んだとて、戻るための“門”を開ける力はない……」


 そう言って神母池の方を見た。池との境は夜のとばりが下りたような黒く深い幕で隔たれていた。先は闇で見えないのに、そこにある“深さ”だけが分かる。


「……このまま、あっちに戻れなかったら、どうなる」


 その問いに少女は「ふむ」と一つ頷いてから、少し考え込んだ。


「まず名が薄うなり、次に道が細うなり、しまいには声が届かんようになって――境の抑えとして“くさび”になるじゃろう。……恒一こういちのように」


 不意に出た父の名に、心臓がはねた。――腕時計の冷えが、手首の骨まで届く。


 だが次の言葉を発する前に、声は外から塗り替えられた。


「たっけ! そこにいるの!?」

「タケ! そこから動くなよ!!」

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