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オイゲさまのいた夏  作者: 曽我部穂岐
第一篇 黄昏

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第二話 ギザのさいば

『地頭野民俗資料集』より――「嵐をふさいだ男の話」


 いまの若いもんは知らんろうけんど、昔、稲毛いげ村に義左衛門ぎざえもんいう“損な役回り”の男がおったそうな。口は悪い、愛想もない。けんど手が早い。いっつもせきを見回りゆう、田んぼを見回りゆう、子どもが川に近づいたら怒鳴って追い返す。そんで結局、誰かが困ちょったら真っ先に泥の中へ入って行って助けた、いう話よ。


 皆は「義左ぎざへりの男じゃ」と言うた。

 境いうたら、川と道の境い目、村と山の境い目、こっちと向こうの境い目――そういうとこに立つて、見えんもんを視る男、いうことじゃろう。


 ある年の夏よ。昼間は照りよったに、夕べになって急に山が真っ黒になって、風がごんごん言いだいて、雨も石を叩く大嵐になったそうな。

 物別もんべの竜神様がお怒りになったがやろうか、川が堰を噛みに来るみたいに吼えだいて、家の戸もガタガタ鳴る。瓦は飛ばされる、子どもは泣く、犬も吠えん。……とにかく、普通の台風やなかったそうじゃ。


 村ぁみんな戸を締めて、あとは祈るだけ。

 けんど義左だけが、濡れみのをひょいと肩に掛けて、腰に縄を結うて、小さい鈴をつけて、ふらっと戸口を出ていったそうな。


「行くな義左! 死ぬぞ!」

 そう叫んでも、振り返らん。


 義左は荒れ狂う川を見て、こう言うたそうじゃ。声ぁ大きゅうない。大雨の中やのに、変に耳の奥に残る声やった、と。

「名ぁ呼ぶな。呼んだら寄る。寄ったら引かれる」

 ……何のことか、誰も分からんかったそうな。


 義左は堰へ走った。雨が斜めに光って、風は稲をべったり伏せて、道も一歩ごと川になりゆう。

 皆は雨戸の隙間から恐る恐る様子を見よったが、義左が立った堰のあたりだけ、川霧かわぎりがふわっと立って、見えるもんが全部、薄い膜をかぶったみたいになったがよ。


 義左は堰の杭に手を当てて、息を整えて、何かぶつぶつ言いゆう。祝詞のりとやったか、祭文さいもんやったか、誰も聞き取れんかった。けんど――


 不思議なことに、その瞬間、嵐の真ん中で堰のまわりだけ風が止んだがじゃ。

 止むいうても、ただ静かになったがやない。音が、すっと“抜けた”みたいに無うなった。雨が降りゆうのに、落つ音が遠い。川の吼えが、一段低う沈んだ。

 風で飛びよった葉っぱが、空の途中でいっぺん止まったように見えた、言う者もおった。


 闇が濃うなったがやない。――黒いとばりみたいなもんが、上から一枚、そっと垂りて来た。

 ほんで、義左を包んで雨の中に消えたがよ。


 そしたら、村の戸の震えが止まって、子どもが泣きやんで、誰かが「義左が嵐を止めた」と言うて、泣き笑いしよった。


 村一番の年寄りが青ざめて首を振ったそうな。

「止めたがやない……義左が“呼んで”、塞いだがじゃ」


 嵐は夜半まで続いたけんど、ずいぶん小降りになって村は流されんかった。明け方、皆で堤のかみしもも方々を探いたけんど、義左は結局見つからんかった。

 縄だけが、濡れもせんと杭に掛かっちょって、鈴だけが鳴らんままそこにある。足跡は堰のへりで、すっぱり途切れちゅう。

 川霧の向こうへ、半歩ぶんだけ土が沈んだみたいに見えた、言う者もおった。


 誰も義左が「死んだ」とは言わざった。


「義左は嵐を塞いだまま、まだ堰の縁におる」


 そういう言い伝えで――今でも雨の匂いが濃い晩には、戸口に米ひとつかみ置いて、雨が上がったら堤の方を向いて黙って火に落とすがよ。


 それで、義左が塞いだ堤の場所を「ギザの塞場さいば」言うがです。


 水は優しい。けんど深い。

 深いもんほど、綺麗に見える。

 綺麗なもんほど、ひとを留める。


 ――ほいたら、もう遅いきね。




 雨と風が、昼間の熱を剥がすように乱暴に町を叩いていた。


 窓ガラスに当たる音が、最初は粒だったのに、いつの間にか板みたいな面になって、ずっと同じ強さで押しつけてくる。風が家の角を舐めて、屋根の下で唸った。たまに、どこかのトタンが「ばたん」と鳴る。――そのたびに、胸の奥の薄いところが縮むような気がした。


 俺は自分の部屋の机に肘をつき、開いたままの冊子を見下ろしていた。


 『地頭野民俗資料集』――赤錆色の表紙。印刷が薄くて、紙が妙に湿っぽい。父が趣味で集めていた、神見かんみ市――物別川流域の地域伝承の冊子の一冊だ。背表紙の角は擦れて丸まり、ページの端には茶色い染みが残っている。


 さっきまで読んでいた「ギザの塞場」の話の最後の行が、まだ目に残っている。


『水は優しい。けんど深い。綺麗なもんほど、ひとを留める。』


 机の端に置いた腕時計が、照明の下で鈍く光った。唐突にいなくなった父が、いつも身に着けていた腕時計だ。

 濡れたまま乾かない、って言い方は大げさだけど――あの夜の匂いだけは、三年経っても抜けていない気がする。


 針は――二時二十二分のまま、止まっていた。


 この時計は、直らない。電池を替えても、修理に出しても、「原因不明」で返ってくる。

 それでも俺は、いつか動くかもしれないという薄い希望を捨てきれなくて、今も身に着けている。


 針が動き出したら、父が帰ってくるかもしれない。

 そう思うだけで息が詰まる。忘れたくはないから。忘れた瞬間に、本当に“終わってしまう”気がするから。


 外で雷が遠く鳴った。空のどこかが割れたみたいな音。次に遅れて、地面が低く震えた。


 足元で、小さく爪の音がした。

「……ヒエン?」


 暗い廊下から、黒茶の毛の塊が滑り込むみたいに入ってくる。胸と足先の白が、稲妻の瞬きで一瞬だけ浮いた。犬のヒエンだ。普段は勝手に寝床で丸くなっているくせに、こういう時だけ真っ直ぐ俺のところに来る。


 ヒエンは机の下に頭を突っ込み、俺の足に鼻先を押しつけた。湿った犬の匂い。体が小刻みに震えている。耳がぺたりと寝て、尻尾は床に張りついたまま動かない。


「雷、嫌いか」


 俺がそう言うと、ヒエンは「わふ」とも鳴けず、ただ喉の奥で息を漏らした。吠えない。鳴けない。――それがいちばん嫌な合図だって、今はまだ知らないふりをしておく。


 また雷鳴。今度は近い。光が窓の外を白く塗り、すぐ闇が戻る。闇が戻る――というより、黒いものが“落ちてくる”みたいだった。


 その瞬間、時計の針が、かすかに震えた気がした。


 見間違いだ。そう思っても、目が逸らせない。二時二十二分のまま、動かないはずの針。父がいなくなった時間。



 ――三年前の、あの夜。


 雨は今日よりもっと乱暴で、家の外が全部、水に浸かったみたいになった。

 山の方からは、ときどき「ずず……」と腹の底をこするような音がして、音がしたと思った次の瞬間には何かが落ちた気配がした。


 夜の早い時間から、消防団のサイレンが何度も鳴った。短く切って、また鳴って、止まって、また鳴る。――「一回で終わらん」鳴り方。父がいつも嫌がるやつだ。


 母は何度も「行かんといて」と言った。でも、父は玄関で長靴を履いた。

 濡れた活動服を羽織り、ヘルメットを脇に抱え、懐中電灯とロープを手に取る。消防団に入ってからの父は、こういう時だけ動きが速かった。迷いがないのが、逆に怖かった。


矢間堰やざまぜきのとこだけ見てくる。物別もんべが、持たんかもしれん』


 俺の頭を一回だけ撫でて、父は言った。


『心配せんでえい。すぐに塞いでくるき』


 物別川の水位が上がりすぎて、堤が痩せ始めている――誰かがそう叫んで走っていったのを、俺も聞いていた。

 上流で山肌が崩れたらしい。流れてきた木や石が、堰や堤にぶつかって、水が横へ逃げ道を探し始める。氾濫しかけていた。


 何回も聞いた台詞だ。父は「すぐ戻る」と言って戻らなかったことがない。だから、その時も俺は「行くな」より先に、「分かった」と言った。


 けど父は、玄関を出る直前に、いったん立ち止まって振り返った。


『雨が弱うなっても油断するなよ。怖いのは、止んだ時や』


 それは、父が好きで読んでいた古い災害記録の口癖みたいなものだった。

 大雨の中で、龍臥山りゅうがさんで地滑りが起きて、運悪く走行中の電車が埋まった。救助の人が集まった「その時」に、一番大きい崩落が起きた。助けに入った人間ごと、何十人も土砂がさらっていった。――父はそういう話を、昔話みたいに語っていた。


『記録に残る災害は、まだ終わってない』


 終わってないって何だよ、と当時の俺は笑った。今は笑えない。


 父は戸を開けた。雨と風が玄関の灯りを一瞬で濡らし、闇が家の中に入り込んできた。母は黙って父の背中を見送った。止める言葉がもう残っていない、という顔だった。


 出ていって、しばらくしてから、雨の音が一度だけ弱くなった。止んだんじゃなく、ただ、薄くなった。――息継ぎみたいな静けさ。


その静けさが、逆に怖かった。


 消防団のサイレンも、遠くで一回だけ鳴って、それっきり聞こえなくなった。

 川の音も、急に遠くなった。荒れているはずなのに、まるで誰かが耳に布を当てたみたいに。


 時計が深夜二時を過ぎても、父は戻ってこなかった。

 母は消防団の仲間に安否確認の電話をかけ続けていたが、誰も父を見た者はいなかった。受話器の向こうから返ってくるのは、「分からん」「まだ探しゆう」「そっちも気ぃつけて」という同じ言葉ばかりで、声だけがだんだん掠れていった。


 眠気と不安がせめぎ合っていた俺は、ふと壁の掛け時計を見上げた。


 ――二時二十二分。


 忘れもしない。その瞬間に、電話が鳴ったわけでもない。誰かが叫んだわけでもない。

 ただ、何かが“止まった”感覚が、脊髄から頭のてっぺんへ、ぞわっと走った。


 息を飲んで、窓の闇を見た。


 黒いとばりみたいなものが、上から一枚、そっと垂りてきた――そんな気がした。

 外の闇が一段濃くなって、雨の音が、すっと遠のいた。止んだんじゃない。ただ、世界の音だけが薄くなった。


 その後で聞いた。矢間堰やざまぜきは決壊しなかった。

 氾濫しかけた水は、いったん引いた。どこかで別の逃げ道ができたのだろう、と皆は言った。

けれど俺は、その言い方が妙に嫌だった。逃げ道なんて、誰が作った。どこに、どうやって。


 結局、父は戻らなかった。


 ――それっきりだ。


 帰ってきたのは、家の門の脇で見つかった、この止まった腕時計だけ。

 出ていく時に落としたんだろう、と母は言った。けれどその針が示す時刻は「落とした時刻」じゃないことを、俺だけが知っている。


「立派だった」


 町の人間はそれだけで終わりにした。父を“美談”にして片付けた。

 母の顔が硬くなっていって、祖母が言葉を濁すようになって、俺だけが取り残された。

 倉谷姉弟は、落ち込む俺を見て、ますます過保護になった。


 だから台風が来る夜は嫌いだ。

 嫌いなのに、目が逸らせない。



 雷がまた鳴った。今度は、地を叩くみたいな音だった。ヒエンがびくっと跳ねて、机の脚に身体を押しつける。俺の足首に歯が当たるくらい、必死だ。


「大丈夫、大丈夫……」


 俺が言った瞬間、家全体が一回、沈んだ。


 ――ドン。


 耳じゃなく、骨で聞いた。窓が鳴って、照明が一瞬だけ暗くなって、次の瞬間、世界が白く裂けた。


 雷光。

 光が、横から来た。


 隣だ。片桐神社の方。


 俺は反射で立ち上がり、机の上の時計を掴みかけて止まった。掴むと、冷たい。コンビニの冷房みたいな冷たさじゃない。水の底の、重い冷え。


 雷が鳴ったら窓に近づくな、と母に言われていた気がする。けどもう遅い。足が勝手に窓へ行く。カーテンをほんの少しだけ開けて、雨の幕の向こうを見る。


 神社の境内が、また稲妻で昼みたいに白く照らされた。


 大楠――社殿の脇で、ずっと境内を抱えていた、あの大木。


 幹の途中が、大きく裂けていた。


 縦に。楔を打たれたみたいに、まっすぐ。


 遅れて、木が鳴った。バキ、じゃない。もっと低い、骨が折れる音。根元のあたりに、何かが――落ちた。


 雨の中に、黒い人影が見えた。


 木の根のところに、倒れている。動かない。

 誰だ。近所の誰かか。倉谷家の――いや、こんな時間に?


 その人影の輪郭が、稲妻の光の端で一瞬だけ“薄く”なった気がした。水に滲むみたいに。


「……っ」


 息が詰まった。ヒエンが、机の下から出てこないまま、喉の奥でひゅっと鳴いた。雷が怖いんじゃない。今、外にある“何か”が嫌なんだ。


 俺はカーテンを掴んだ手を離し、玄関へ走った。

 サンダルを突っかけ、カッパもろくに着ないまま、扉を開ける。雨の匂いが顔を叩く。風が頬を切る。


 ――それでも、足は止まらなかった。


 俺は家を飛び出した。

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