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オイゲさまのいた夏  作者: 曽我部穂岐
第一篇 黄昏

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第一話 依り者

地頭野じとうの民俗資料集』より――「神社に生まれた双子の話」


 昔、物別川もんべがわの半ばに古き社があり、その宮司の家に美しい双子が生まれた。産声の折、境内の池は波ひとつ立たず、楠の葉は音なく揺れ、鳥居の影だけが長く伸びたという。

 

人々は吉兆と囁いたが、年寄りは「良きものが寄れば、悪しきものもまた寄る。社は寄せる場所ぞ」と首を振った。


 姉は指先で結びを作る子で、紐を結べばほどけず、言葉を結べば胸に残り、人の名を呼ぶほど縁が太くなるとされた。人は笑って「縁結びの手」と呼んだ。


 弟は結び目を見れば息を吐く子で、絡まる糸を解けば傷を残さず、縛りを解けば跡も見せず、言葉の絡まりを解けば涙も止むとされた。人は安堵して「解きの手」と呼んだ。


 ある夏の夕暮れ、池に月が二つ映った時、社の縁にひとつの光が立った。蛍にも月にも火にも似るが火ではない光で、冷たくはなく温く見え、見れば見るほど目が離れがたく、近づくほど心が軽くなる。


 人はそれを「り者」と呼んだ。


 依り者は寄る者ではなく寄せる者で、光を揺らして人を誘い、気づかぬうちに縁へ集め、輪を作らせる。輪が大きくなるほど光は澄み、誰もが救いと見まがい、その場を離れがたくなるという。


 奇なることに、その光は二つに分かれて見え、ひとすじは姉の指へ、ひとすじは弟の目へ淡く移って消えた。その夜から双子の影は、ときに月の下で白く薄く見えるようになった。


 依り者はやがて輪の中から一人を選び、その肩に光を降ろし、胸の内にほどけぬ結び目を作る。これを「依る」といい、依るとは守るに似て縛るに同じ。縛られた者は日ごと明るく、人を惹きつけ輪を大きくするが、その明るさは灯ではなく、人を帰す灯と違い、依り者の光は人を留め置く。


 ひとたび依られれば名は細り、道は細り、声は届かず、家へ帰っても家が遠のき、ある日ふいに縁の向こうへ半歩寄せられて戻らぬという。


 双子の耳に同じ囁きが落ちた。「依り者が来る」。


 姉は結んで離れぬようにすると言い、弟はほどいて寄れぬようにすると言った。二人は争わず、ただ一つの器を前に、結べば強く、ほどけば薄く、強くなれば依り者は降りやすく、薄くなれば器は壊れやすい――夏が深まるほど二人の手は止まらなくなる。


 年寄りは「守るとは縛ることにも似る。縛りは光を呼ぶ。美しい光ほど人を破る」とまた首を振った。




 規則的な蝉の鳴き声が、途切れることなく左耳に貼りつく。右耳では数学教師の田嶋満――通称タジマンが、「皆いいかな?」といつもの調子で問12を解説していた。ときどき混じる乾いた金属音と掛け声は、下のグラウンドで練習試合をしている硬式野球部のものだ。死ぬほど暑い中ご苦労なことだと思いながら窓の方へ目をやると、窓際の席の男子がシャーペンを握ったまま首を垂れ、崩れ落ちそうになりながら微睡みと戦っている。その向こうに、梅雨明けの距離感のつかめない青空と、窓枠から湧き上がる入道雲。


 もう本格的に夏になってしまったのか――そんな取り留めのない感傷も、タジマンの「――であるからにして、答えはX=4、Y=11になる訳です。皆いいかな?」でぶつ切りにされる。机の上のプリントに目を落としても、白紙は白紙のままだった。夏休み初日から四時間も授業を受けさせられて、しかも最後が一番嫌いな数学。納得のいく理由なんて出るはずもなく、ただ時間が過ぎるのを待つしかない。


 地獄みたいな最後の授業を何とか終え、教室を出たのは午後一時過ぎ。次の電車までだいたい三十分。いまから駅まで全力疾走して汗まみれになるのは御免だ。腹も減ったし、近くのコンビニで弁当でも買って立ち読みで時間を潰そう――学食の冷房に逃げ込むのが一番まともなのは分かっているが、学内に長居するのは危険だ。とにかく早く外に出たい。


 手提げカバンを持ち替え、裏門下の青々とした桜並木の坂を早足で下る。桜並木が途切れるあたりで、自転車が横にキキッとブレーキを利かせて止まった。一瞬、奴らが来たのかとビクッとする。だが、野球部のクラスメイトだった。


「おー、誰かおると思うたら千早ちはややん。今日は講習か?」

 土まみれのユニフォーム姿のまま、汗の匂いを連れておかもっちゃんは笑った。


「誰かとは失礼な。おかもっちゃんは部活か。軟式やっけ? 帰るとこ?」

「いんや。アレよ、買出し。エリノンが脱水症状なられたらかなわんき、飲みもん買うてこいゆうてよー」

 手には千円札。なるほど、そういうことか。


 おかもっちゃんは俺の顔をひとつ覗き込むと、わざとらしく首を傾げた。

「それはそーと、今日、倉谷は一緒やないがか?」

「いんや、何でよ」

「……あれ? お前ら付き合いゆうがやないが?」


 来た。夏の定番みたいに聞き飽きた台詞。


「あー、おかもっちゃんまでそんなん言うか。全然断じて全く違うて何回も言いゆうやん。あんながと付き合いよったら身がいくつ滅んでも足らんし」

「それ酷くね? 美人やし背高いし頭いいし胸でかいし、文句ないやん。そんなん言うたらクラスの奴らにボコられるで。普段からお前ら目立っちゅうがぞ?」

「分かってないぞ。人を見かけで判断したらいけんのよ? あれ性格は最悪ぞ。というか、ほぼストーカー」


 俺が言い切った瞬間、おかもっちゃんの視線がすっと俺の背後に落ちた。

「……倉谷、後ろおるで」

「うおぃっ」

「うそ」

 背筋が冷える前に、口だけが先に動いた。

「おい、まじで笑えんぞ。俺あいつのストーキング行為のせいで、ここんとこノイローゼ気味ながやけど」


 おかもっちゃんは肩をすくめて、悪びれもせず笑った。

「お前あんな美人に追い掛け回されゆうがか……うらやましいのう。死ねばいいのに」

「黙っちょって?」

 そう返した声が、自分でも情けないくらい乾いていた。――その時だった。


「たっけーっ! みぃーつけたぁ」


 背中に、夏の熱とは別の“光”が刺さった。声は甘いのに、逃げ道を塞ぐみたいに一直線で、耳の奥まで届く。

 俺の名前――健彦たけひこをこう呼ぶのは一人しかいない。呼ばれた瞬間、逃げる前に、まず足が半拍だけ遅れる。

「やっべ、マジで来たし」


 振り返る前に、風が一つ、こっちへ寄った。日焼け止めの甘さと、ミント系のシャンプーの匂い――その奥に、竹と革と汗の匂いが混じる。剣道場の匂いだ。胴の革の、乾いた匂い。


 坂の上から駆け下りてくるのは、制服姿の女子生徒――倉谷レイアだった。走る姿勢が良い。背が高くて、長い脚が無駄なく運ばれて、重そうな荷物が肩で跳ねても軸がぶれない。


 斜め掛けの細長い袋――竹刀袋が身体に沿って揺れ、もう片方の肩には大きめのスポーツバッグが食い込んでいる。たぶん防具だ。一歩ごとに背中で硬いものが鳴るが本人は平気な顔で距離を詰めてくる。


 髪はきつくひとつ結び。結び目のあたりが少し濡れていて、汗が首筋に光っていた。頬は練習上がりの赤みが残っているのに、目だけは妙に冷静で、水面みたいに薄い茶と灰の間で光を拾う。


「あーっ、ちょっとたっけ、何で逃げるのよぉ~! 部活終わるまで待ってって言うたやん!」

「い・や・だ。今日こそは絶対一緒には帰らん!」

 暑さのせいじゃない。あいつが近づくと、こっちの行動が先に読まれてるみたいで、逃げる方向まで奪われる。


「う~~イジワル。なんでよーっ!」


 レイアの手が伸びて、俺の袖を掴んだ。

 相変わらず掴み方が嫌だ。乱暴じゃない。強くもない。ただ、確かめるみたいに――そこにいるかどうかを確認して、ゆっくり固定するみたいに。

 指先は汗で熱いはずなのに、妙にひやりとした感触だけが残る。


「……ほら。捕まえた」

「捕まえるな」

「捕まえる。だって危ないもん」

「何が」

「夏」


 背後でおかもっちゃんが腹を抱えて笑いながら、自転車のスタンドを立てた。

「ほら見い、千早。もう観念しいや」

「お前は一言多い」

「一言多いのがわしの取り柄やき。――いやあ、美人に追い掛け回されゆうがは、うらやましいのう」

「まじで黙っちょって!」

「青春やのう。千早の人生、今が一番輝いちゅうで」

「輝いちゅうのはその頭だけ!」


 その時、少し遅れて、もう一台自転車が坂を下ってきて、俺たちの横に止まった。ブレーキの音が、やけに小さい。そこにいたのに気づかなかったみたいに。


「レイア、暑いよ……走りすぎ」


 穏やかな声。丁寧で、間がある。

 レイアと髪形を除けば、ほとんど同じ顔。双子の弟――倉谷ラミエだった。そろえた前髪は暗めで、陽に当たるとほんのり薄い色が混じる。なのに“そこにいる”感じが薄い。目を合わせると柔らかく笑うのに、ふと感情が消える――そんな瞬間がある。


 女子剣道部のエースが姉なら、男子剣道部のエースが弟。ラミエの肩にも竹刀袋。手には防具入りらしいバッグ。姉より揺れない。荷物が重いはずなのに、動きが静かで、最初から全部を整えてあるみたいだった。


「ラミエ! ちょ、助け――」

「助けないよ――まだ、そんなにやばくなさそう」

 即答。優男の顔で。やばい状態って何だ。


「タケ、今日は……駅、次の電車まで時間あるよね」

「あるけど」

「じゃあ、コンビニ寄っても間に合う。焦らないで」


 何でお前が俺の帰りの電車事情を把握してるんだ。

 いや、ラミエならやってそうだ。天気予報も電車時刻も危険な場所も全部、頭に入ってる。いい加減慣れた。


「……ラミエ、部活は?」

「女子からレイアが抜けたって聞いたから、先生に許可もらって早退してきたよ――僕はね」

 ラミエが勝ち誇ったように笑う。


 その一瞬、レイアの笑顔が止まった。袖を掴む指が、ほんのわずか強くなる。

 けれど次の瞬間、レイアはぱっと顔を上げて、同じ調子で笑った。

「ほらぁ、ラミエも味方。たっけ、観念しよ?」

 後ろでおかもっちゃんが「いやあ、青春、青春」と煽り始めたので、俺はもう諦めてため息とともにコンビニ方面へ歩き出した。逃げる気が失せたわけじゃない。逃げる体力が切れただけだ。


 コンビニの自動ドアが開いた瞬間、冷房の冷気が顔にぶつかった。生き返る。

 立ち読みコーナーに直行したい気持ちを抑えて、弁当棚を眺める。炭火焼きカルビ、冷やし中華、チキン南蛮。どれも脂と塩の匂いがする。夏は食べ物の匂いが強すぎる。


「たっけ、何買う?」

レイアが当然のように、ぬるっと隣に立つ。

「何でもえいやろ」

「私が選んであげる」

「やめて」

「じゃあ当てる。たっけは今日、冷やし中華の気分!」


「……」

 俺は返事をせず、目だけで棚の端から端まで流した。


「当たった?」

 覗き込んでくる顔が近い。

「はずれ。俺は唐揚げ弁当」

「嘘つき」

「嘘じゃない」

「嘘。たっけ、嘘つく時、口の端がほんのちょっとだけ上がるもん」

「そんな観察すんな!」


 ラミエは少し離れたところでペットボトルの棚を見ていた。視線だけで値段を計算しているみたいな顔。たぶん、買うものはもう決まっている。決めた通りに動く。そういうやつだ。


 俺は唐揚げ弁当とペットボトルのお茶を適当にカゴに入れてレジに向かった。

 ポケットのスマホを出そうとして捲れた袖から、腕時計の文字盤が見えた。壊れた秒針は動かない。盤面はいつでも同じところを指している。

 ――二時二十二分。

 止まっているだけなのに、そこに触れると掌に冷たいものが残った。


 俺は反射的に目をそらし、スマホのデジタル時計を見た。まだ一時二十二分。余裕で電車には間に合う。

 なのに、胸の奥だけが先に急いだ。


「たっけ?」

 肩越しに覗き込んで来たレイアの声で我に返る。

「なに」

「今、変な顔しちょった」

「してない」

「してた。……怖い?」

「――もうすぐ電車が来る」

「分かるもん」


 レイアは笑いながら、俺の手首を――また確認するみたいに――軽く掴んだ。

 その指先が、妙に冷たい。


 レジを出ると、外の熱気が一気に襲ってきた。冷房の天国は一瞬で終わる。

 俺たちは駅へ向かった。駅までの道は、昼の熱でアスファルトが柔らかくなっている。空気が揺れて、遠くの景色が歪む。陽炎みたいなものが、線路の上に立っていた。


 ホームに着くと、電車はまだ来ていなかった。田舎の単線は気まぐれだ。

 三人でベンチに腰を下ろし、ビニール袋を開けた瞬間――風が止んだ。


 蝉の声が、一瞬だけ揃った。うるさいほどバラバラに鳴いているはずなのに、その瞬間だけ、全員が同じ拍子で鳴いて、同じ息を吸ったみたいに規則正しくなる。


 次の瞬間、今度は――落ちた。音がすっと薄くなって、空気だけが残った。


 レイアが顔を上げる。ラミエも、同時に顔を上げる。

 二人の動きが、鏡みたいに揃っていた。


「……来てる?」

 レイアが小さく言った。

「まだ……やばくはない」

 ラミエが小さく返す。何の話か分からないのに、俺の背中だけが先に冷えた。


 ふと、手の中のスマホに目が落ちた。黒い画面が一瞬だけ反射して、自分の顔が映る。――なのに、妙に目鼻がぼんやりして、輪郭だけが水に滲んだみたいに薄い。


 息を飲んだ。レイアが立ち上がりかける。

 ラミエが静かにレイアの袖を引いた。


「今は、触らない」

「でも……」

「今、触ると結ぶ。結ぶと――」


 ラミエはそこで言葉を切って、代わりに俺を見た。やけに真っ直ぐに。


「たっけ、帰ろ」

「……は?」

「今日はまっすぐ、家に帰ろ。神社の近くなら……大丈夫」


 何が「大丈夫」なのか、俺にはよく分からない。昔からこの双子は、分かったような分からんようなことを言う。

ただ、分からないままでも足だけは動いた。


 電車が来て、俺たちは乗った。車内は冷房が効いている。

 窓の外を流れていく夏の景色――田んぼの水面、遠い山の影、照り返す空――はどれも普通に見えるのに、どこか一枚、薄い膜が重なっている気がした。まるで同じ地形の別の世界が、ほんの少しだけ重なっているみたいに。


 稲毛いげ駅を出ると、すぐ田んぼ道だった。アスファルトは熱を溜め、遠くの山が陽炎で揺れている。線路の反対側から、物別もんべ川の匂いがかすかに流れてきた。


「ここでえいき」

 改札を出てすぐに俺が言う。

「えー、送ってく。となりやもん」

 レイアが即答した。

「いらん」

「いる。たっけ、水路の横、通るもん」

「子供か! 大丈夫やって」

「タケ、泳げんやん」

 ラミエも淡々と言う。そのまま何も言わず、俺の鞄をさらりと取り上げた。

「重いやろ」

「重くない」

「……足、取られたら危ない」

 双子の決めつけるような優しさ。それが、妙に腹が立つ。


 しばらく無言で三人は歩く。竹刀袋と防具袋が、倉谷姉弟の肩で同じように揺れた。ふたつ並ぶ肩が、揃いすぎているのが妙に気持ち悪い。


 ほどなくして鳥居が見えた。屋根の低い社務所――というより、住宅の気配のある建物が隣にくっついている。古い郵便受けに「倉谷」の札。ここが、双子の家であり、片桐神社だった。


「じゃ、私らはこっち」

 レイアが鳥居の内側を指して言う。いつもの明るさに戻したつもりの声が、ほんの少し硬い。


「たっけ」

 レイアは一歩寄って、声を落とした。

「台風、来るって。週末、こっち寄りやき。川とか水路、気ぃつけて。……一人でふらふらせんといて」


「過保護か、心配しすぎ」

 言い返したのに、うまく笑えなかった。


 ラミエが空を一度だけ見上げて、淡々と言う。

「台風の時は、境が薄くなる」


 レイアがすぐ明るく被せた。

「ほらぁ、だから連絡して。絶対よ?」

「……分かった」

「『分かった』は約束じゃない」

「連絡する」


 それで満足したようで、レイアは白い髪紐を結び直した。結び目がきゅっと締まる音が、やけに大きく聞こえた。


 二人は鳥居の内へ入っていく。歩幅まで揃っている。

 俺は反対に、神社の外の道へ一歩下がった。


 見上げた先に、楠の御神木があった。社殿の脇――というより、社殿の方が木に寄り添っている。幹は太く、獣の背みたいにうねって樹皮の皺が深い。根は土を押し上げて石畳の端まで這い、境内そのものを抱えて動かぬよう押さえているみたいだった。


 夏の光の中で葉は青々としているのに――木の陰だけが、ひどく濃い。


 そう思った瞬間、蝉の声がまた一斉に揃って鳴き、次の瞬間には何事もなかったみたいにバラバラに戻った。


 日差しは眩しいままだった。眩しいまま、どこかが裂けていた。

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