ノイズ・キャンセラー
「素晴らしい! これで我が国の事務能率も、ようやく銀河標準に追いつくというものだ」
タナカ氏は、目の前の分厚い書類に最後の一筆を加え、満足げに椅子にもたれかかった。彼は「合理的平和推進局」の局長である。
窓の外には、近隣諸国と共同開発した最新鋭の自走式多目的平和維持装置――通称「ハト丸」――が、整然と並んで出荷を待っていた。
かつて、この国には「国会」という、いささか古風な儀式を行う場所があった。そこでは、武器を輸出するたびに、血気盛んな人々や心配性の人々が集まり、ああでもないこうでもないと議論を戦わせていた。
「共同開発した武器を第三国に売っていいのか」「それは紛争を助長しないか」
そんな議論が数ヶ月も続く間に、最新兵器の型は古くなり、ビジネスチャンスは逃げていく。実に非効率極まりない。
そこでタナカ氏ら優秀なエリートたちは、画期的なシステムを考案した。
それが、法案名『国家的意思決定におけるノイズ・キャンセリング法』である。
「国会が口出しできない仕組み」と聞くと、世間の一部では「独裁だ」とか「怖い」などと騒ぐ手合いもいたが、タナカ氏に言わせればそれは誤解だった。
「いいですか、これは『信頼の委託』なんですよ」
タナカ氏は、視察に訪れた一人の若手議員に説明した。
議員は、かつての国会議事堂が現在は「国立静寂公園」という名の、誰も立ち入ることのできない厳重なドームに覆われているのを不思議そうに眺めていた。
「我々は国会の機能を止めたわけではありません。ただ、あまりにも複雑化した現代の兵器体系と国際情勢を、素人である議員の皆さんに判断させるのは酷だという結論に達したのです。だから、国会は『今後すべての決定を、専門家による全自動アルゴリズムに一任する』という決議を一度だけ行い、あとはお休みいただいているのですよ」
「でも、国民の声はどうなるんです?」と議員が尋ねた。
「声ですか? もちろん、ビッグデータとして集計していますよ。SNSの『いいね』の数や、その日のスーパーの特売品の売れ行きから、国民の潜在的な『輸出への意欲』をAIが算出します。今のところ、国民の80%は、難しい平和論争よりも、武器輸出による減税の方を好むという結果が出ています」
タナカ氏がデスクのボタンを押すと、壁一面のモニターに世界地図が映し出された。
地図上のあちこちで、赤い点が明滅している。それは「平和維持装置」の輸出先だった。
「見てください。今や、我が国の武器は『原則輸出OK』です。それどころか、輸出しない方が難しい。共同開発した相手国が『売りたい』と言えば、自動的にOKが出る仕組みになっています。そこに国会が介在して『ちょっと待て』と言う余地はありません。なぜなら、その『ちょっと待て』という言葉そのものが、条約違反として自動的に罰金を科される設定になっているからです」
「国会が口出しできない」というのは、物理的に声を封じることではない。
口を出した瞬間に、その発言者の銀行口座から巨額の「経済損失補填金」が引き落とされ、所属する政党のオフィスが自動的に解体されるという、極めて合理的な「自動フィードバック・システム」が構築されているのだ。
「これぞ、究極の民主主義の完成形です。国民が選んだ政府が、国民のために、国民に心配をかけないよう、国民のあずかり知らぬところで、すべてを完璧に処理する。国会というノイズが消えたことで、我が国の武器輸出額は前年比400%を記録しました」
その時、オフィスの電話が鳴った。タナカ氏はにこやかに受話器を取った。
相手は、ハト丸の共同開発国である某国の担当者だった。
「ええ、ええ。最新型の『対地・対空・対人・対概念ミサイル』ですね。輸出の承認? もちろんです。こちらのシステムでは、すでに『承認』の判子が自動で押されています。え? 輸出先がどこかって? いえいえ、それを知る必要はありません。我々のシステムは『どこに売るか』という倫理的判断を、あえてブラックボックス化することで、担当者の心理的負担をゼロにしているのですから」
電話を切ったタナカ氏は、ふと思いついたように、デスクの引き出しから小さな、古びた真鍮の鍵を取り出した。
「ところで議員、あなたは知っていますか? あのドームに覆われた国会議事堂の中に、最後の一人だけ、本物の人間が残っているという噂を」
「えっ? 誰が……」
「『異議あり係』ですよ。何世代も前から、形式上、反対の声を上げ続けるためだけに雇われている職員です。彼は防音室の中で、毎日マイクに向かって『反対だ!』と叫び続けている。しかし、そのマイクはどこにも繋がっていない。彼の給料は、我々が輸出したミサイルの利益から支払われています。皮肉なものですが、これもまた一種の『平和の形』と言えるでしょうな」
数年後、タナカ氏は引退の日を迎えた。
世界は平和だった。少なくとも、タナカ氏の手元の端末にはそう表示されていた。
輸出された武器がどこで使われようとも、それは「原則OK」の範疇であり、国会も新聞も何も文句を言わなかった。
タナカ氏は最後に、後任の若者にアドバイスを送った。
「いいかね。最も怖いのは『反対されること』ではない。『誰も見ていないところで、すべてが決まっていく心地よさ』に慣れてしまうことだ。……まあ、慣れてしまえば、これほど楽な仕事はないんだがね」
タナカ氏が局長室を去る際、背後のモニターで自動更新が走った。
『新型・全自動報復システム:輸出承認完了。宛先:不明。理由:共同開発国の全会一致による。国会への報告:不要』
窓の外では、また一台、新型の「平和の使い」が、音もなく空へと飛び立っていった。
それがどこへ向かうのか、そもそもなぜ飛んでいくのか、知っている人間はこの国にはもう一人もいなかった。
しかし、人々のスマートフォンには、その輸出利益による「特別配当金」の入金を知らせる、心地よい通知音が響き渡っていた。
「素晴らしい。誰も怒っていない。誰も悲しんでいない。これこそが、理想の政治だ」
タナカ氏は、静まり返った街を眺めながら、満足げに目を閉じた。
耳を澄ませば、遠くのドームの中から、かすかに「反対だ……」という、誰にも届かない幽霊のような声が聞こえたような気がしたが、彼はそれを、ただの風の音だと思うことにした。




