第8章 06
清美が顔を上げた。
涙に濡れた瞳で遠くを見つめながら、静かに口を開く。
「夫は重い病気を患っていたの。お医者様に手の施しようが無いと言われるほどの難病……。それでもトモルを授かったことがわかったとき、夫は手術を決意した。神様に感謝したわ。手術は成功したんですもの!
でも夫は気付いていたのね。いずれまたその病気に侵されるってことに……。亡くなったあとに知ったんだけど、自分に多額の保険金をかけていたのよ……。
手術から十数年、突然病気が再発して夫は眠るように亡くなったわ。笑っているように安らかに逝った……。あれからいろんなことがあって、ほんの一ヶ月前なのに、もうずいぶん昔のことみたい……」
清美の言葉が終わると同時、メグルの脳内を再び閃光が駆け巡った。
朝日が差している……。
このキッチンだ。
眩しいほどの光に包まれている。
フライパンを手にしながらふり返る、清美の笑顔。
ぼくは、朝ご飯を食べているんだ……。
目の前でトモルが、眠たそうに目をこすりながら欠伸をした。
笑い声……。
ああこれは、ぼくの笑い声だ。
幸せ……。
なんて幸せなんだろう。
こんなにも幸せな時間を、ぼくは過ごしていたんだ。
……あれ、なんだ、目眩がする。
痛いっ!
頭が……割れそうだっ!!
ああ、ぼくの景色が……。
ぼくの大切な世界が、闇に沈んでいく……。
……何も……見えない……。
メグルは現実に戻った。
つい先ほどの出来事のように、頭に痛みが残っている。
(あの目眩のあとぼくは倒れたんだ。この場所に……あの温かな光りに包まれた我が家に戻ることなく、死んだんだ……)
いつのまにか隣家の灯りは消えていた。鮮やかな幻覚とは対照的に、暗闇に沈んだキッチンの床には、やつれた清美がくずおれている。
メグルは許せなかった。
幸せのなか、ひとり死んでいった自分が許せなかった。
残された家族がこんなにも不幸になっているのに、自分は何も知らず『天界』に行けると浮かれていた。
(何がエリートだ。何がエリートだけに託される名誉な仕事だ。そんな甘い言葉で管理人など引き受けず、守護霊として家族を見守っている方が、どんなに立派だったろう……)
「トモルくんのお母さん」
メグルが、うなだれたままの清美に声をかける。
「誰かがトモルくんやお母さんを傷付けようとしています。卑劣な手段でみんなを煽動し、巧妙にトモルくんやお母さんに気付かれないよう嘘を吐き、悪意をまき散らして、ふたりを追い込んでいるんです」
メグルは学校裏サイトの存在と、そこに書かれているトモルや清美に対する誹謗中傷の内容を話した。
目を見開き、唇を震わせながら聞いていた清美は、メグルの話が終わると発狂したように叫び、悲しみに絶望して泣き崩れた。
メグルはただ見守ることしかできなかった。この残酷すぎる現実に、慰めの言葉など何も見つからなかった。
ついには熱を出して倒れてしまった清美を、メグルはソファに寝かせて看病する。
(清美は自分たち家族を誤解し、責めた世間を恨むだろうか? いや、誰だって恨むはずだ。恨んだって仕方のない仕打ちだ……)
あのサイトに嘘を書き込み、世間を悪意で煽動した者は、それすらを狙っているようにメグルには思えた。
(まさに悪魔のなせる技……)
汗に濡れた清美の額や首筋を、メグルがやさしくタオルで拭う。
その手を、そっと清美がつかんだ。
「さっき、きみを見て驚いたの。メグルくんの目は、夫の目にそっくりだったから……」
うっすらと開けた瞳は、愛おしそうにメグルの瞳を見つめていた。
(清美の夫ではない、いまのぼくに、何ができるというのか……)
自分の無力さゆえ頬に涙が伝うのを感じながら、メグルは清美の頭をやさしくなでた。




