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詠姫 ~土地が錆びる時、姫は歌を詠む~  作者: 斎詠清淀
第一柱:桜の山、始まりの巫女
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第一柱ノ肆:瀬の神子、反撃の奔流

変身を遂げた澪緒の蒼い瞳には、もはや戸惑いの色はない。ただ目の前の敵を見据え、傷ついた友人を守るための、静かで燃えるような決意の光を宿していた。


「キシャアアアアアッ!」

荒魂が、異質な力を放つ澪緒により一層の敵意を向ける。薙刀が再び振り上げられ、黒ずんだ桜の花弁が死の嵐となって澪緒へと殺到した。

しかし、今の彼女はもうただ怯えるだけの少女ではない。

「水の壁!」

澪緒が叫ぶと、彼女の前に分厚く清らかな水の障壁が瞬時に現れる。花弁の刃が水の壁に衝突し、パリン、パリンとガラスが砕けるような音を立てて消滅していく。


だが、荒魂の猛攻は終わらない。次から次へと放たれる刃の嵐に、水の壁が徐々に削られていく。

「くっ……!」

防戦一方の澪緒の顔に、焦りと疲労の色が浮かび始めた。彼女は荒魂を倒すことよりも、この思い出の場所を守ることに囚われ、一歩も前に出ることができないでいた。水の壁は徐々に勢いを失い、悲しみに満ちた猛攻は終わることがない。ついに花弁の刃が水の壁を突き破り、澪緒の頬を浅く切り裂いた。


「澪緒ちゃん!」

腕の痛みをこらえながら、旭が叫んだ。

(このままじゃ、澪緒ちゃんが……!)

どうすればいい? 私にできることは? 力のない私が、どうやって彼女を助ければいい?

旭の頭が高速で回転する。その時、烏が叫んだ。

「小娘! そやつの核は怒りではない……千年溜まった、主を想う悲しみじゃ! その悲しみを和らげぬ限り、祓えん!」

「悲しみ……」

そうだ、この社に眠る悲劇の英雄と美しき舞姫の物語。この荒魂は、その英雄に仕えた忠義の武蔵坊の成れの果て。ならば、その悲しみを癒せるのは……。


「詠み人よ!」

旭の思考を烏の切羽詰まった声が破った。

「本殿の片隅に、英雄の遺物が残っておるはずじゃ! 悲しみを癒せるのは主の魂だけじゃ! それを探せ!」


烏の言葉に、旭ははっとした。

(そうだ、英雄ゆかりの品々……!)


「澪緒ちゃん、もう少しだけ持ちこたえて!」

旭は叫ぶと、土蔵の壁際から飛び出し、荒れ狂う花弁の嵐の中を本殿へと向かって走り出した。

「旭さん!? 危ない!」

澪緒の悲鳴が背後から聞こえる。しかし、旭は止まらない。今、自分にできることはこれしかない。


本殿の展示室は荒魂の気にあてられ、ほとんどの展示品が「錆」に侵され崩れ落ちていた。

「お願い……何か、何か残っていて……!」

祈るような気持ちで旭はガラスケースの中を探す。そして、一番奥の、一番小さな木箱の中にそれを見つけた。

それは、英雄がこの地を去る際に、恋人である舞姫に渡したという、小さな小さな「笛」だった。木でできた簡素な横笛。しかし、それは千年の時を経てもなお、不思議な温もりを保っていた。


旭はその笛を、まるで大切な宝物のようにそっと両手で包み込んだ。

そして、澪緒が戦う境内へと再び駆け戻る。

「澪緒ちゃん!」

旭の声に、かろうじて水の壁を維持していた澪緒が振り向いた。


旭は、その笛を唇に当てる。音楽の知識はない。吹き方なんて知らない。

でも、彼女はこの笛に込められた持ち主の想いを感じていた。恋人を想う切ない気持ち。そして、この忠臣への感謝と労いの気持ち。

彼女がすべきことは、荒魂を癒すことではない。この笛の持ち主、この忠臣が命を懸けて仕えた「主君の魂」に、この苦しみを伝えることだ。


旭は、その一心を込めて、主君の魂を呼び覚ますための和歌を詠んだ。


”君を待つ 千年の桜 錆びに泣く 主よ、忠臣の 声を聞き給え”


歌と共に、か細く、しかしどこまでも澄んだ「息」が笛を通り抜けた。

それはただの息ではなかった。旭の言霊の力が乗ったその音色は、この世の誰にも聞こえない、魂に直接響く「呼び声」となって、裏日本のどこかで眠れる英雄の魂へと届いた。


その瞬間、戦場の空気が変わった。

荒魂の動きがぴたりと止まる。そして、桜吹雪の中から光に包まれた、若き日の気高い「英雄の魂」が静かに姿を現した。

しかし、荒魂は千年の悲しみと「錆」に心を覆われているため、目の前に現れた主君の姿を認識できない。ただ懐かしい気配に混乱し、より一層苦しみ、暴れ狂う。


「瀬の神子よ、今じゃ!」烏が叫ぶ。「あの者の魂を覆う憎しみと悲しみの『錆』を、お前の力で洗い流せ! 心の目を、こじ開けるのじゃ!」


その言葉に、澪緒は自分の真の役割を理解した。

彼女は太刀を構え直し、その力を破壊ではなく、ただ一点「洗い清める」ためだけに集中させる。

「鎮まりください……あなたの長い、長い悲しみは、私が全て受け止めます!」

浄化の奔流が、荒れ狂う荒魂を優しく包み、その身を覆っていた錆びついた鎧、枯れた桜の枝が次々と剥がれ落ちていく。


やがて、全ての「錆」が洗い流された時、荒魂の禍々しい姿は消え、中から傷ついた「忠臣の魂」が姿を現した。彼の瞳から憎悪は消え、ついに目の前に立つ主君の姿をはっきりと捉える。

英雄の魂の隣に、そっと「美しき舞姫の魂」も寄り添った。

英雄は、涙を流す忠臣の魂に、悲しげに、しかし慈しむように微笑みかけた。

「……待たせたな。すまなかった。お前の忠義、千年見届けていた。もう、よいのだ。共に行こう」

その「労い」と「謝罪」の言葉こそが、忠臣の魂を縛り付けていた最後の楔を打ち砕く。忠臣の魂は深く頷き、三人の魂が光の粒子となって桜吹雪の中へと溶けるように消えていった、その瞬間。


世界が、変わった。


まず、風の音が変わった。それまで禍々しい気を含んで重く淀んでいた風が、ふわりと春の息吹を取り戻す。優しく、そしてどこか懐かしい、桜の本当の香りを運んで二人の頬を撫でていった。


次に、光が戻ってきた。空を覆っていた打ち身の痕のような鈍い紫色の雲が、まるで朝日が闇を払うように端からすうっと晴れていく。そして、二つの月の本来の光――白銀と瑠璃色の清浄な光が、再び世界に降り注ぎ始めた。


その光に照らされて、境内が、山が、次々と本来の姿を取り戻していく。

黒い燃え殻のようだった桜の木々が、幹の根元からまるで早送り映像のように、生命力に満ちた瑞々しい茶色を取り戻していく。枝という枝に新しい蕾が瞬く間に芽吹き、そして一斉に花開いた。それはもう「錆」に侵された赤黒い花ではない。薄紅色、濃い紅色、そして清らかな純白。一つひとつの花びらが、内側から光を放つかのようにきらきらと輝いている。

地面を覆っていた黒い染みは、まるで陽光に溶ける雪のように消え去り、後には柔らかな緑の苔と、清浄な土の地面が姿を現した。ひび割れていた石灯籠は何事もなかったかのように元の姿に戻り、ぷつりと断ち切られていた注連縄も、再び神域を清らかに結んでいる。


「あ……」

澪緒が呆然と、自分の故郷を見つめている。

「きれい……」

旭の口から、感嘆のため息が漏れた。これだ。これこそが、澪緒が愛し、守りたかった、本当の吉野の姿なのだ。


その、あまりにも美しく切ない光景を見届けた旭。彼女は腕の痛みも忘れ、涙を堪えながらノートを開く。鎮魂の歌を、詠んだ。


”千年の 悲しみ洗いし 春の水 桜の君と 天へ還りゆく”


旭の歌に、土地の気が完全に鎮まり、社の奥にあった大いなる石も穏やかな輝きを取り戻した。

しかし、その石の表面には、まだ黒い煤のような「錆」の残滓が僅かにこびりついている。

その時、旭の肩に烏が舞い降りた。

「……ふん。仕上げはワシの役目か」

烏はそう言うとふわりと飛び立ち、石の前でその身に太陽の光を凝縮させる。

「――滅せよ」

一瞬だけ放たれた黄金の閃光が、石に残っていた最後の錆を完全に焼き尽くした。


「……あれが、鎮め石……」

変身を解かれ、元の姿に戻った澪緒が、呆然と呟く。

「うむ。あれこそが、この国の龍脈を安定させ、『錆』の侵食を防ぐ鎮め石じゃ」

烏が、旭の肩に戻り、説明する。

「日本各地の聖地に同じものが眠っておる。そして、その全てが今、ある者たちに狙われておるのじゃ」


「これが……」

「お前たちの旅は、始まったばかりじゃ」

烏の言葉に、旭は決意を秘めた目で、隣の澪緒を見た。

しかし、澪緒は俯いていた。その視線は旭ではなく、今、本来の美しさを取り戻した故郷、吉野の地に注がれていた。

その表情に浮かんでいるのは、安堵と喜び。そして、それ以上に深い、この土地への愛着だった。

「……よかった……」

彼女は、心の底からそう呟いた。

「……本当に、よかった。元の、私の大好きな吉野に、戻ったんですね……」

その言葉には、「もう、どこへも行きたくない」という強い響きが、確かにあった。


旭の胸が、ちくりと痛む。

そうだ。彼女の願いは、最初からただ一つだった。「この場所を守りたい」。その願いは今、叶えられたのだ。

これ以上、彼女を危険な旅に付き合わせる権利など、自分にはないのかもしれない。


「……澪緒ちゃん」

旭がおそるおそる、声をかける。

「私たちは、行くね。他の場所にもきっと、澪緒ちゃんの故郷みたいに、助けを待っている人たちがいると思うから」

それは、旭なりの別れの言葉だった。


しかし、澪緒は何も答えない。

ただ、じっと自分の足元の清らかな土を見つめている。

その時、彼女の視界にふと、旭の腕が入った。カーディガンの袖が破れ、痛々しい傷口に白いハンカチがきつく巻かれている。

自分が恐怖に震えているだけだった時、この人は、たった一人で自分を守るために血を流してくれた。この人は、吉野とは何の関係もない、ただの旅人だったはずなのに。


(……私は、この人に、守ってもらったんだ)

(この人がいなければ、私の大好きなこの場所は、今頃……)


澪緒はゆっくりと顔を上げた。

そして、傷ついた旭の腕にそっと視線を落とす。

「……私、行きます。旭さんと一緒に」

その声は震えていた。しかし、その瞳には先ほどまでの迷いはなく、確かな決意の光が宿っていた。


「え……?」

驚く旭に、澪緒は涙を堪えながら、精一杯微笑んでみせた。

「この山が、本当に好きだから。私のたった一つの、大切な故郷だから。だから、行かなきゃダメなんです」

「ここだけじゃなく、日本中の誰かのたった一つの大切な場所が、あんな風に悲しみで縛られるのは、もう見たくないんです」

彼女は、自らの意志で故郷から「未来へ旅立つ」ことを選んだのだ。


こうして、裏日本を巡る、二人と一匹の本当の旅が、始まった。

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