第一柱ノ参:覚醒と解放
鳥の声が、聞こえない。
旭が目を覚ましたのは、光によってではなかった。辺りを支配する、あまりに不自然な「静寂」によってだった。
昨日まであれほど賑やかに彼女の朝を告げてくれた鳥たちの声が、ぴたりと止んでいる。それどころか、風が木々の葉を揺らす音も、遠くの川のせせらぎさえも聞こえない。
重たい頭を上げ、旭は車内の時計に目をやる。時刻はとっくに朝を迎えていた。それなのに、天窓から差し込む光はまるで深い夕暮れのように弱々しく、そして淀んでいる。二つの月が浮かぶ空は、昨日までの美しい藍色ではなく、まるで打ち身の痕のように鈍い紫色に染まっていた。
身体が鉛のように重い。頭の奥で鈍い痛みがズキズキと響いている。
車内の空気もどこか違っていた。昨日までの、コーヒーの香ばしい残り香や、彼女自身の匂いが染みついた安心できる空間ではない。まるで雨に濡れた古い鉄のような、冷たく不快な匂いが微かに漂っていた。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
何かが、おかしい。昨日、あの滝で感じた「違和感」が、一夜にしてこの世界全体を覆い尽くしてしまったかのような、圧倒的な異変。
その時だった。
ドン、ドン、ドン!
キャンピングカーのドアを、誰かが必死に叩く音が響いた。
あまりに突然の、そして乱暴なノックに旭の心臓が大きく跳ねる。
「旭さんっ!」
聞こえてきたのは、切羽詰まった澪緒の声だった。
旭は慌ててドアを開けた。
そこに立っていた澪緒は、血の気が引いた蒼白な顔をしていた。その瞳には、恐怖と信じられないものを見るかのような戸惑いが浮かんでいる。
「大変です! 山が……山が、泣いています! 桜が、黒く……川の水も、なんだか……」
言葉が途切れ途切れだ。自分の愛する故郷が目の前で壊れていく様に、彼女は完全にパニックに陥っていた。
「澪緒ちゃん、落ち着いて!」
旭は震える彼女の肩を強く掴んだ。
「大丈夫、大丈夫だから」
「でも、でも……!」
「わかる。私もさっきから、ずっと嫌な感じがしてる。でも、泣いてても何も始まらない!」
旭の力強い言葉に、澪緒ははっと息をのむ。
その時、旭の肩に乗っていた烏が、これまでになく厳しい声で叫んだ。
「その小娘の言う通りじゃ! 山の力が泣いておる! あの社にある、この土地そのものである大いなる石が『錆』に蝕まれ、悲鳴をあげておる! 源はそこじゃ!」
「あの、社に……」
澪緒が震える声で呟く。昨日、二人で語り合った思い出の場所。
「行こう、澪緒ちゃん」
旭は澪緒の手を固く握った。力はない。けれど、今の自分には彼女を支えることならできる。
「何が起きてるのか確かめに行こう。そして、止めよう」
その瞳には、もう昨日までの「あてのない旅人」の面影はなかった。天啓を受け、試練を乗り越えた確かな決意の光が宿っていた。
澪緒は、旭のその強い眼差しに、こくりと一度だけ強く頷いた。
◇
二人は駆け出した。
変わり果てた参道を、息を切らしながら駆け抜ける。昨日まであれほど美しかった桜並木は、まるで山火事の跡のように黒く焼け焦げたような姿になっていた。虚ろな表情の住民たちが、道の脇に力なく座り込んでいる。
昨日までの穏やかな空気はもうどこにもない。ただ、禍々しく、そして途方もなく深い悲しみの気配だけが、二人に重くのしかかっていた。
息を切らしながら、二人は因縁の社へとたどり着いた。
その境内は、禍々しい気で満ち満ちていた。昨日まであれほど誇らしげに咲いていた桜の木々は、見るも無残に黒く焼け焦げている。地面には力なく散った花びらが、黒い染みのように広がっていた。
「そんな……うそ……」
変わり果てた思い出の場所。澪緒の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「大丈夫、澪緒ちゃん。まだ、終わってない」
旭は彼女の背中を支えるようにして、境内へと一歩足を踏み入れた。
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……と、低い地鳴りのような音が地面の底から響いてきた。それは、この山そのものが上げている苦悶のうめき声のようだった。
「見て……!」
旭が指さす先で、信じられない光景が広がっていく。
まだかろうじて色を保っていた数本の桜の木が、目の前でまるで墨汁を吸い上げるように、その幹を、枝を、花を、急速に黒く染めていく。そして、ぱらぱらと燃え殻のような花びらを音もなく散らした。
境内にあった石灯籠の火袋が理由もなく次々とひび割れ、神域を守っていたはずの注連縄が、ぷつり、ぷつりと意思を持った力に断ち切られるかのように地面に落ちていった。
清浄であるはずの神域が、リアルタイムで「死」に侵食されていく。
「いや……いやっ……!」
澪緒は、その光景に耐えきれず耳を塞ぐ。彼女の愛した、美しくも悲しい物語が眠るこの場所が、目の前で穢され、破壊されていく。その絶望が、彼女の心を容赦なく抉った。
「源は、本殿の奥じゃ!」
烏が叫ぶ。
二人は本殿の脇を抜け、さらに奥へと進む。そこには、この土地の力を支えているはずの大いなる石が安置されている場所があった。
しかし、その空間は夏の陽炎のようにぐにゃりと歪み、中心からはまるで黒い泥のような「錆」がとめどなく溢れ出している。
そして、その「錆」が、怨嗟の声と共に一つの形を取り始めた。
最初に現れたのは、錆びついた分厚い鎧に覆われた巨大な腕。次に、枯れた桜の枝が絡みついた鬼のような形相。やがてその全身が、「錆」とこの土地に眠る「悲しみ」を依り代として、この世に完全に顕現した。
身の丈は三メートルを優に超えるだろうか。かつて「忠義の武蔵坊」と呼ばれたであろう、巨大な武士の姿をした「荒魂」だった。その目には理性なく、ただ「この場所を誰にも渡さぬ」という暴走した忠義と、千年分の悲しみの炎が赤黒く燃えている。手には、岩をも砕く巨大な薙刀を握っていた。
「キシャアアアアアッ!」
甲高い咆哮と共に、荒魂がその巨大な薙刀を天に向かって一振りする。
すると、境内にあった全ての桜が、一斉に血のような赤黒い色に染まった。
次の瞬間、荒れ狂う風と共にその無数の花びらが、一枚一枚カミソリのように鋭い「刃」と化して、嵐のように二人へと襲い掛かってきた。
「きゃっ!」
「こっちです、旭さん!」
澪緒が恐怖に固まる旭の腕を掴んで走り出した。
ざっ、ざっ、ざっ! 二人は黒い染みとなった花びらが敷き詰められた境内を必死に駆ける。
しかし、花弁の刃はまるで意思を持ったかのように執拗に二人を追いかけてくる。ヒュン、ヒュン、と空気を切り裂く音がすぐ耳元で聞こえ、旭のパーカーの袖が数枚の花びらに切り裂かれてはらりと舞った。
背後の社殿の柱に花弁が突き刺さり、硬い木材をいとも容易く抉っていく。あれがもし体に当たっていたら。ぞっとする想像に、旭の足がもつれた。
「しっかり!」
澪緒が、その細い腕で必死に旭の身体を支える。
二人は本殿の裏手、土蔵の壁際まで追い詰められてしまった。もう、逃げ場はない。
ゆっくりと地響きを立てながら、荒魂が二人の方へと向き直る。その赤黒い瞳が、怯える二人を確かに捉えた。
薙刀がゆっくりと、そして高く振り上げられる。
もう、駄目だ。
その圧倒的な恐怖を前に、澪緒の足はまるで地面に縫い付けられたかのように動かなくなってしまった。瞳から、絶望の涙が溢れる。
その、永遠のように感じられた一瞬。
隣で友人が恐怖に震えている。
旭は、震える澪緒の前に自らの身体を割り込ませるようにして、両腕を広げた。
それは理屈ではなかった。ただ、この優しくて、悲しい物語を愛する少女を、自分が今ここで出会ったたった一人の新しい友人を、失いたくない。その一心だけだった。
力なき自分にできる、唯一で最後の抵抗だった。
荒魂の薙刀が振り下ろされる。それに呼応して、無数の花弁の刃が旭の身体へと殺到した。
ザシュッ、と肉を裂く鈍い音。
「―――っ!」
声にならない悲鳴が、旭の口から漏れた。
左腕に焼けるような激しい痛みが走る。見れば、カーディガンの袖が真っ赤に染まり、そこから絶え間なく血が流れ落ちていた。
「あ……あさひ、さん……?」
澪緒の震える声。彼女の蒼い瞳が、信じられないものを見るように旭の腕の傷と、そこから滴る血に釘付けになっている。
自分のせいで。
私が何もできなかったから。
昨日出会ったばかりの、私のたった一人の新しい友達が、私のために血を流している。
――これ以上…私の、大切なものを、壊さないでッ!
澪緒の魂からの叫びが、裏日本の淀んだ空気を震わせた。
次の瞬間、彼女の身体から凄まじい蒼い光がほとばしる。
「え……なに、これ……!?」
自らの身に起こる奇跡に、澪緒自身が一番驚いていた。
光は吉野の清流そのものだった。ほとばしる水の力が彼女の身体を包み込む。純白の白衣、深い藍色の緋袴、そして要所を守る青水晶の鎧――伝統的な巫女服の姿を模しながらも、その全てが聖なる水で織り上げられた神々しい「神衣」へと、その姿を変えていった。
「小娘! それがお前の真の姿、『瀬の神子』よ!」
旭の肩で、烏が叫ぶ。
その、凛とした、しかし、どこか偉そうな声に、旭は、はっと、自分の肩を見た。
声の主は、間違いなく、そこに止まっている、三本足の烏だった。
(え…?今、この鳥…しゃべっ…)
しかし、その驚きと疑問は、目の前のあまりに神々しい光景によって、すぐにかき消されてしまう。
今は、そんなことを考えている場合じゃない。
変身を遂げた澪緒は、その蒼い瞳にもはや戸惑いの色はない。ただ、目の前の敵を見据え、そして傷ついた友人を守るための、静かで、しかし燃えるような決意の光を宿していた。
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