第一柱ノ弐:交流と、心の揺らぎ
翌朝、旭は、キャンピングカーの天窓を照らす、不思議な光で目を覚ました。
裏日本の空に浮かぶ二つの月。一つは、白銀の光を放って、まるで真昼の太陽のように辺りを支配している。そしてもう一つは、それに寄り添うように、淡い瑠璃色の光を静かに投げかけていた。その二つの光が混じり合い、世界は、どこか現実感のない、幻想的な青白い光に満たされている。
「……朝、か」
身体を起こし、旭は小さく呟いた。眠りは、浅かった。昨夜出会った少女のこと、そして、この世界の真実。あまりにも多くの出来事が、頭の中をぐるぐると駆け巡っていたからだ。
彼女は、小さなキッチンでお湯を沸かし、一杯のドリップコーヒーを淹れる。慣れ親しんだ豆の香りが、異世界の少し張り詰めた空気を和らげ、ここが自分の「城」であることを思い出させてくれた。この小さな儀式が、今の彼女の心を支える、大切なお守りだった。
温かいマグカップを両手で包み込みながら、今日のことを考える。
(澪緒ちゃん、来てくれるかな…)
約束はしたものの、昨日会ったばかりの、素性の知れない自分を、本当に信用してくれるだろうか。
(何を、話せばいいんだろう…)
自分の正体も、この旅の本当の目的も、まだ彼女には話せない。普通の旅人を装いながら、彼女の、そしてこの世界の秘密を探らなければならない。その事実に、胸がちくりと痛んだ。
約束の時間が近づき、旭は意を決して外に出た。ひやりとした、春の山の空気が心地よい。
すると、広場の入り口近く、一本の桜の木の下に、少しそわそわした様子で佇む人影が見えた。澪緒だった。
旭の姿に気づくと、彼女は、はにかみながら小さく手を振る。その表情は、昨日よりもずっと柔らかく、親しみがこもっているように見えた。今日の彼女は、制服ではなく、動きやすいカットソーと、ふわりとしたロングスカートを身に着けている。
「おはよう、旭さん」
「おはよう、澪緒ちゃん。今日は、よろしくね」
二人の小さな旅が始まった。
澪緒が最初に案内してくれたのは、昨日出会った社から、さらに山の上へと続く、曲がりくねった坂道だった。
「この坂道、結構きついんですけど、お店を見ながら歩くと、あっという間なんですよ」
澪緒は楽しそうに言うが、その足取りは、この坂道の全てを知り尽くしているかのように確かだった。
坂道の両脇には、様々な店が軒を連ねていた。名物の葛菓子や柿の葉寿司を売る店、地元の吉野杉を使った工芸品店、修験道で使う法螺貝や数珠を並べた、いかにもこの土地らしい店。そのどれもが、長い歴史を感じさせる佇まいだ。坂道を登るにつれて、眼下に広がる景色も変わっていく。麓の町並みが小さくなり、幾重にも重なる山々の尾根が、まるで水墨画のように、春霞の向こうに広がっていた。
やがて、視界が大きく開けた。「上千本」と呼ばれる、山の中腹に広がる公園だ。
「わあ…」
旭は息をのんだ。眼下に、言葉通りの「千本桜」が、雲海のように広がっていた。山肌を埋め尽くす、淡い、淡い桜色。昨日いた中千本が、今は遥か下に見える。風が吹くたび、山全体が、まるで生きているかのように、ざあっと桜の波を揺らしていた。
「すごい…天国って、本当にあったんだ…」
旭が呆然と呟くと、澪緒は誇らしげに、そして、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「はい。私の、自慢の故郷です」
絶景を堪能した二人は、見晴らしの良い峠の茶屋で休憩することにした。古い木造の、趣のある店だ。
「ここの葛餅、美味しいんです」
澪緒に勧められるまま、旭はぷるんとした半透明の餅を口に運んだ。ひんやりとして、つるりとした独特の食感。添えられた香ばしいきな粉と、濃厚な黒蜜の甘さが、歩き疲れた身体に優しく染み渡っていく。
「美味しい…。こんなに美味しいもの、初めて食べたかも」
「ふふ、良かったです」
澪緒は嬉しそうに言いながら、自分は葛餅にはあまり手を付けず、お茶をすすっている。その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「澪緒ちゃんは、いつかこの山を出てみたいとか、思ったりしないの?」
窓の外の絶景を見ながら、旭はふと、そんなことを口にしていた。
澪緒は、少し驚いたように目を瞬かせると、ゆっくりと首を横に振った。
「…考えたことも、ないです。だって、私の知っている物語は、全部ここにありますから」
「物語?」
「はい。悲劇の英雄様も、南朝の帝も…。この桜も、この道も、この石も、全部その記憶を見てきたんです。それを置いて、どこかに行くなんて…私には、できません。なんだか、この山から離れられないような気がするんです、昔から。ここにいるのが、私の役目、みたいな…」
それは、故郷への愛であると同時に、自らをその場所に縛り付ける、優しくも強い呪いのように旭には聞こえた。
「…じゃあ、次は、私のとっておきの場所に案内しますね!」
空気を変えるように、澪緒はにぱっと笑って立ち上がった。
「修験道の人たちが、昔、修行したっていう、すごい滝があるんです。あそこに行けば、きっと旭さんも、何か見つかるかもしれません!私の、一番好きな場所なんです」
◇
澪緒に連れられて、二人は観光客が誰もいない、細い山道へと入っていった。
これまでとは違う、さらに深く、原始的な自然の気配。しばらく歩くと、ごう、という地鳴りのような水音が聞こえてくる。そして、木々の切れ間の先に、その滝はあった。
旭は、言葉を失った。
何十メートルもの高さから、まるで天から降り注ぐ光のカーテンのように、膨大な量の水が、絶え間なく滑り落ちている。それは、白い絹のようにも、溶かした水晶のようにも見えた。滝壺は、吸い込まれそうなほど深い、神秘的な翠色をしていた。叩きつけられた水しぶきが、霧となって舞い上がり、二人の肌を優しく濡らし、周囲の苔むした岩々を、生き生きとした緑色に輝かせている。
空気を震わせる、その荘厳な水音。それは、ただの轟音ではない。聞いているだけで、心の中の悩みや澱みが、全て洗い流されていくような、清浄な響きを持っていた。
「すごい…」
旭がかろうじて絞り出した声に、隣の澪緒が、うっとりとした表情で頷いた。
「はい。私が悩んだり、悲しいことがあったりした時、いつもここに来るんです。この音を聞いていると、どんな悩みも、この水が全部、海の向こうまで流してくれるような気がして」
そう語る彼女の横顔は、この滝そのもののように、どこまでも清らかで、美しかった。
旭は、ようやく理解した。伊勢で受けた天啓にあった「始まりの子」「瀬の神子」。それは、この光景そのものだったのだ。彼女は、この滝のように、全てを洗い清める力を持っている。だから、こんなにもこの場所に惹かれるのだ。
旭は、そのあまりの神々しさに、涙が滲みそうになるのを必死でこらえた。そして、この感動を、目の前の少女への敬意を、言葉にして残さなければならないと、強く思った。
ノートを取り出し、ペンを走らせる。
”滝の音は 千代に流るる 祈りかな 君が横顔 水面に映して”
歌を詠み終えた、その時だった。
うっとりと滝を見つめていた澪緒が、ふと、不思議そうな顔で首を傾げた。
「…あれ?」
「どうしたの?」
「いえ…。なんだか、いつもと、少しだけ違うような気がして…。水の音が、いつもより、少しだけ鈍い、というか…」
澪緒の言葉に、旭も改めて滝に意識を集中させる。
すると、彼女の鋭敏な感覚が、確かに、その場の「違和感」を捉えた。
あれほど清らかだったはずの滝の水に、よく見ると、黒い筋のようなものが、ほんの僅かに混じっている。滝壺の周辺の苔が、部分的に、まるで病気のように、白く変色していた。そして、清浄なはずの空気の中に、海辺の聖地で感じた「悲しみ」の気配が、ごく微かに、しかし確かに漂っている。
その時、旭の肩に乗っていた烏が、彼女にしか聞こえない声で、そっと囁いた。
(…錆じゃ。この山にある、大いなる力の源…その石が弱り、そこから漏れ出した微量の穢れが、水の源流を少しずつ蝕み始めておる…)
旭はごくりと息をのんだ。この、澪緒にとって、何よりも大切なこの場所も、少しずつ、あの禍々しい気に侵され始めている。
「澪緒ちゃん、なんだか、少し寒くなってきたし、そろそろ戻らない?」
今はまだ、彼女に真実を告げる時ではない。旭は、自分の不安を悟られないよう、努めて明るくそう言った。
澪緒は、まだ少し納得いかないような顔をしていたが、「そうですね」と頷き、二人はその場を後にした。
帰り道、澪緒の横顔は、どこか憂いを帯びていた。
自分の愛する故郷の、小さな「病」に、彼女は気づき始めていたのだ。
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