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詠姫 ~土地が錆びる時、姫は歌を詠む~  作者: 斎詠清淀
第一柱:桜の山、始まりの巫女
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第一柱ノ壱:邂逅、そして桜の下で

天鳥船あめのとりふねと名付けられたキャンピングカーは、二つの月が浮かぶ深い藍色の空の下を走っていた。

裏日本の道はアスファルトではない。硬く締め固められた土の道だ。それでも不思議と揺れは少なく、天鳥船はまるで水の上を滑るように、静かに、そして滑らかに進んでいく。

そして、その道に他の車の姿はない。この『裏日本』に入ってから、彼女が見た乗り物は、己の愛車ただ一台。旅人たちは皆、自らの足でこの古の道を歩いている。


やがて、前方に仄かな明かりが見えてきた。

「あれが、桜の山の麓の町か……」

運転席の旭が呟くと、ダッシュボードの上の烏がこくりと頷いた。


麓の駐車場に車を停めた旭は、日本最古と言われるロープウェイに乗り、山の駅へと向かった。眼下に広がる山肌は満開の桜で覆われている。その風景は、旭が旅の雑誌で見たことのある、表日本の吉野の「一目千本」と驚くほどよく似ていた。

だが、決定的に違うものがいくつかあった。空に浮かぶ二つの月。そして、町の空気そのものが、まるで古い映画のフィルムのように色褪せて見えること。


ロープウェイを降り、そこから続く曲がりくねった坂道の参道を、旭はゆっくりと登り始めた。道の両脇には土産物屋や茶屋が軒を連ねている。軒先には山伏が身に着けるような、小さな法螺貝や数珠が並んでいる。この土地全体が、古くから続く山岳信仰の巨大な道場なのだということが肌で感じられた。

しかし、店先に立つ人々の表情は虚ろで生気が感じられない。すれ違っても、誰一人として旭に視線を向けることはなかった。

「これが、『錆』の影響か……」

烏の言葉を思い出し、旭はごくりと喉を鳴らした。


「最初の巫女の気配は、山の中腹にある社から強く感じられる。行くぞ」

烏に導かれるまま旭は坂道を上り、やがて視界が大きく開けた。「中千本」と呼ばれるエリアだ。そして、その中心に旭は息を呑んだ。

山の中腹に、あまりにも巨大な木造の建造物が、まるで山そのものから生えてきたかのように圧倒的な存在感を放って鎮座しているのだ。修験道の総本山とされる大寺院の金堂。その威容に、旭はただ立ち尽くす。


烏は、その大寺院を横目に、少しだけ脇道に入った場所にある古びた社を指した。南朝の悲しき帝が住まいとし、そして、悲劇の若武者が恋人と別れたという、いわくつきの社だ。

社の境内は満開の山桜に囲まれ、息をのむほど美しかった。しかし、旭の研ぎ澄まされた感受性は、その美しさの下に横たわる幾重にも重なった「記憶」を感じ取っていた。京を追われた帝の無念、忠義に生きた武士たちの誇りと哀しみ、そしてこの場所で引き裂かれた恋人たちの悲恋……。

「……すごい場所だね。綺麗だけど、少し息が苦しくなるくらい……」

旭が思わず呟いた、その時だった。


本殿の脇、ひときわ大きく見事に咲き誇る一本の枝垂れ桜の下に、その少女を見つけた。

年の頃は、自分より少し下だろうか。セーラー服の上にカーディガンを羽織った、ごく普通の少女。彼女は桜の幹に背を預け、膝に広げたスケッチブックに一心不乱にペンを走らせていた。


旭の気配に気づいたのか、少女がふと顔を上げた。春の雪解け水を思わせる、どこまでも澄んだ蒼い瞳が、まっすぐに旭を捉えた。

「こんにちは」

少女は、見知らぬ旭の姿に少しだけ驚いたように目を見開き、警戒するように僅かに身を引いた。

「……観光、ですか?」

「え、あ、うん。なんだか、呼ばれたような気がして……」

旭がそう言うと、少女の表情がほんの少しだけ和らいだ。

「……わかります。この場所、ただ綺麗なだけじゃないんです。たくさんの人の強い想いが、今もこの桜に、この土に残っているような気がしませんか?」

「うん……。すごく、悲しい物語の気配がする」

旭が正直に答えると、少女は驚いたように、そして嬉しそうに微笑んだ。

「そうなんです!」

彼女は自分のスケッチブックを旭に見せた。そこには、桜の木の下で刀を差した武士と、美しい舞の衣装を着た女性が、悲しそうに向き合っている姿が繊細なタッチで描かれていた。

「悲劇の英雄と、彼を愛しこの桜の下で舞を奉納したという女性のお話。教科書では数行で終わってしまうんですけど、ここに来ると、二人の息遣いまで聞こえてくるような気がして……。私、昔から、そういう声にならない声を聞くのが、好きみたいなんです」

「……私も、そう思う」

旭の言葉に、少女はぱっと顔を輝かせた。「本当ですか!? そう言ってくれた人、初めてです!」。


その屈託のない笑顔に、旭もつられて微笑む。そして、改めて向き直った。

「私、旭っていいます。東雲旭」

「旭さん、素敵な名前……。私は澪緒。綾瀬澪緒です。よろしくお願いします」

「澪緒ちゃん、よろしくね」


二人は、その場で多くのことを話した。澪緒がこの町で生まれ育ったこと。この社の持つ、幾層にも重なった歴史の記憶に、なぜか昔から強く心を引かれていたこと。旭は、自分のあてのない旅のことを少しだけ話した。澪緒は興味深そうに、そして少しだけ羨むような眼差しで、旭の話を聞いていた。


「もしよかったら、明日、私が好きな吉野の場所、案内しますよ。ここから見える上千本の景色もすごいですし、もっと奥には、修験道の人たちが昔修行したっていう、すごい滝があるんです。きっと、気に入りますよ」

別れ際、澪緒はそう言ってくれた。もちろん、断る理由はない。

「ありがとう! お願いしようかな」

旭がそう答えると、澪緒は本当に嬉しそうに笑った。



その夜、旭は天鳥船の中で今日の出来事を反芻していた。

出会った少女、綾瀬澪緒。彼女が、天啓にあった「始まりの子」、水の力を継ぐ巫女と言うことはなぜかすぐに分かった。

彼女の持つ常人離れした感受性こそが、その証なのかもしれない。

あんなに穏やかな彼女が、これから過酷な戦いに身を投じることになる。その運命の渦中に、自分が彼女を引きずり込むのだ。そう思うと、ずしりと重たい責任感が旭の肩にのしかかった。

彼女はノートを取り出す。今日出会った、儚げで美しい少女のことを、歌に詠んだ。


”山桜 悲しき色を 宿すかな 君が瞳の 青に溶けゆく”


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