第零柱ノ肆:天鳥船
息が続かない。
心臓が破れそうなほど激しく脈打ち、足は鉛のように重い。それでも旭は、ただ無我夢中で走り続けていた。
肩に乗っていたはずの烏は、最初の混乱の中でどこかへ飛び去ってしまった。今はもう、頼れるものは何もない。
背後からは、木々がメリメリと裂け、地面がどしんと揺れるすさまじい追跡の音が迫ってくる。時折聞こえる、ガラスを引っ掻くような甲高い鳴き声がすぐ近くで響くたびに、心臓が氷水に浸されたように冷たくなった。
見たこともないねじれた木々の間を、ぬかるんだ地面に足を取られながら必死に駆ける。甘くむせ返るような未知の香りが、肺を焼いた。恐怖で、涙さえ出てこない。
(もう、無理……)
ついに、ぬるりとした太い木の根に足を取られ、旭は派手に転倒した。受け身も取れず、湿った腐葉土の上に全身を強く打ち付ける。痛みで霞む視界の中、背後の音がすぐそこで止まったのが分かった。
ゆっくりと、恐怖に引きつる顔を上げる。
そこには、あの異形の「モノ」が旭を見下ろしていた。二つの燐光が、まるで絶望を覗き込むようにぎらりと光る。その口と思しき場所から、キィィィィ、と耳障りな音が漏れた。
終わった。
そう思った、その瞬間だった。
ブオォォォンッ!!
森の奥から、聞き慣れた、しかしこの世界には絶対にあるはずのない音が響き渡った。力強いガソリンエンジンの咆哮。
そして、
「パァァァァーーーーーッ!!」
けたたましいクラクションの音!
次の瞬間、異形の木々をなぎ倒しながらヘッドライトを煌々と輝かせ、旭の愛車であるはずのキャンピングカーが猛然と突っ込んでくる。
「モノ」は、その予期せぬ闖入者に驚き、一瞬だけ動きを止める。その隙を突き、キャンピングカーは勢いを緩めることなく、その巨体で「モノ」を真正面から跳ね飛ばした。
「キシャアアアッ!」という断末魔の叫びと共に、妖怪は森の奥へと弾き飛ばされていく。
呆然と、その光景を見つめる旭の前で、キャンピングカーのドアがプシュッと自動で開いた。
運転席には、誰もいない。
代わりに、ダッシュボードの上に見慣れた三本足の烏が止まっており、その賢そうな瞳で旭を睨みつけていた。
「何を呆けておる! 早く乗れ!」
いくつもの声が重なったような、不思議な声が叫ぶ。
「この船の真名は天鳥船! 表の理では聖域に入れんが、神域である裏の路を駆けることこそ、この船の真の役目よ!」
旭は、夢中で車に乗り込んだ。ドアが閉まると同時に、車は再び力強く発進する。誰が運転しているわけでもないのに、ハンドルは滑らかに回転し、車体はオフロードカーもかくやというほどの走りで異形の森を駆け抜けていく。
◇
どれくらい走っただろうか。
やがて追跡の気配が完全に消え、天鳥船は少しだけ開けた静かな泉のほとりで、ゆっくりと停車した。
旭は、見慣れた自分の車のシートの上で、ようやく荒い息をついた。自分のコーヒーの残り香、昨日食べたお菓子の包み紙、散らかった地図。そのあまりに「日常」な光景と、窓の外に広がる月が二つ浮かぶ非現実的な森の景色とのギャップに、頭がくらくらする。まだ、震えが止まらない。
「……ここは……一体、どこなの……? さっきのは、何……?」
「だから言うたであろう。裏の日本じゃ」
ダッシュボードの上の烏が、呆れたように答える。
「お主らが『表』と呼ぶ世界と、神々やあやかしが息づくこの『裏』の世界。二つは合わせ鏡。普段は決して交わらぬが、伊勢や熊野のような、特に力が強い場所では時折、境界が曖昧になる」
「さっきの霧は……」
「いかにも。あれは表と裏を繋ぐ『帳』じゃ。そして、お主が詠んだ決意の歌が、ワシを呼び、そして裏への扉を開いた」
その不思議な声は、続ける。
「……そして、お主が海辺の聖地で感じた『悲しみ』の正体……。あれこそが、この裏の日本から漏れ出し、表の日本を『錆』び付かせようとしておる、大いなる災いの源流よ。それを止められるのは、始まりの禊より生まれし四つの流れ……その力が全て揃った時だけじゃ」
「始まりの……流れ……」
「うむ。その流れを継ぐ四人の巫女たちがいる。だが、彼女たちはまだ自らの使命を知らぬ。普通の少女として眠っておる。お主が、ワシの導きと共に彼女らを見つけ出し、目覚めさせるのじゃ」
「……私が? 無理だよ、そんなの!」
思わず叫んでいた。
「私は何の力も持ってない! さっきだって、ただ逃げることしかできなかった! そんな私が、巫女様を見つけ出すなんて……!」
混乱と恐怖、そして自分の無力さへの絶望が、涙になって溢れそうになる。
だが、烏はただ静かに、その賢そうな瞳で旭を見つめ返した。
その言葉に呼応するように、沈黙していたカーナビの画面がふいにぱっと明るくなる。
そこには見慣れた日本の地図。しかし、地名は全て見たこともない古い漢字で記されている。そして、一つの場所が赤い光で示されていた。
【目的地:吉野】
「……吉野……」
「どうやら、最初の巫女はそこにいるようじゃな」
烏は、こともなげに言った。
訳も分からないまま異世界に放り込まれ、命からがら逃げ延びたばかりだというのに、もう次の目的地が示されている。
旭は深い深いため息をついた。だが、もう後戻りはできない。
彼女はノートを取り出すと、今のこの途方もない心境を、一句に詠んだ。
”二つの月 見上げる空の 果て知らず 賽は投げられ 旅は続いてく"




