第零柱ノ参:迷いの修験道
一歩足を踏み入れると、ひやりとした、それでいて清浄な空気が旭を包んだ。それは、車のエアコンが作り出す人工的な涼しさとは全く違う、生命力に満ちた冷気だった。
深く息を吸い込むと、湿った土と苔、そして杉の葉が放つ、どこか薬草にも似た清冽な香りが胸いっぱいに広がる。
道は、人の手で一つひとつ敷き詰められたであろう不揃いな石畳。その表面は千年以上の時の中で、数えきれないほどの巡礼者たちの足に踏まれ、滑らかに丸みを帯びている。
旭は思わずスマートフォンを取り出し、カメラを向けた。木々の間から差し込む光が、まるでスポットライトのように道を覆う深い緑の苔を照らし、きらきらと輝かせている。何枚かシャッターを切ってみるが、この神聖な光と空気は、どうやっても小さな画面には収まりきらなかった。
「……だめだ、全然伝わらない」
苦笑しながらスマートフォンをポケットにしまい、自分の目でこの景色をしっかりと焼き付けようと決めた。
心地よい疲労を感じながら、一歩、また一歩と歩みを進める。ただあてもなく車を走らせていた時の、あの精神的な疲労とは違う。一歩一歩、自分の足でこの歴史の道を確かに踏みしめている。その実感が、旭の心を軽やかにした。
しばらく歩くと、少しだけ開けた峠の頂上にたどり着いた。そこには、赤い前掛けをつけた小さなお地蔵様が、道端にひっそりと佇んでいた。長年の雨風に晒され、その表情は摩耗してはっきりとは見えない。だが、そのたたずまいは、まるでここを通る全ての旅人たちを、「よく来たね」と優しい眼差しで見守り続けてきたかのようだった。
お地蔵様の足元には、誰かが供えたのだろう、小さな野の花が少しだけ萎れかけている。旭は、その花の向きをそっと直してやると、リュックから沢で汲んだばかりの水を少しだけ根元に注いであげた。
「私も、無事にこの道を行けますように」
自然と、そんな祈りの言葉がこぼれた。
峠の木陰に腰を下ろし、旭はノートを取り出す。今感じている、この静かで満たされた気持ちを、言葉にしておきたかった。
"石畳 苔の緑と 春の陽と 風の音色に 我は癒されん"
歌を詠み終え、そっと目を閉じる。風が木々の葉を揺らす音、遠くで鳴くウグイスの声。その全てが、今の彼女にとっては優しい音楽のように聞こえた。このまま、ずっとここにいたい。そんな穏やかな気持ちに満たされる。
◇
満ち足りた気持ちで、旭は峠道を下り始めた。
足取りは軽い。鼻歌さえ出そうだ。木漏れ日がまるでダンスのスポットライトのように、彼女の歩く先を次々と照らしていく。なんて心地良い場所だろう。天啓は、こんなに素敵な場所に自分を導いてくれたんだ。そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
しかし、その幸福感の片隅で、ほんの小さな棘のような思考がちくりと顔を出した。
(……本当に、この道の先に、答えなんてあるのかな)
伊勢での天啓は、あまりに鮮烈だった。でも、もしかしたら旅の疲れが見せた、ただの夢だったのかもしれない。使命だなんて、大げさに考えすぎているだけじゃないか……?
一度芽生えたその疑念は、じわりと心の隅に小さな染みを作った。
しばらく、そんなことを考えながら歩いていた、その時だった。
ふと、何かが足りないことに気づいた。
(あれ……?)
足を止め、耳を澄ます。
さっきまであんなに賑やかに聞こえていたウグイスの声が聞こえない。他の鳥の声も、風が木々の葉を揺らす音さえも。
世界から、音が消えていた。
聞こえるのは、自分の荒い呼吸の音と、どく、どくと警鐘のようにやけに大きく響く心臓の鼓動だけ。
さっきまでの心地よい静けさとは違う。まるで分厚いガラスの中に一人だけ閉じ込められたかのような、息の詰まる不自然な静寂。
ぞくり、と背筋に悪寒が走り、腕の皮膚が妙にざわついた。
それと同時に、辺りの光が見る間に失われていく。太陽が急に厚い雲に覆われたかのように、森全体が暗い影に沈んでいく。ひんやりとした風が、今度は悪意を帯びたように首筋を撫でていった。
そして、どこからともなく、乳白色の濃い「霧」が地面を這うように、じわりじわりと湧きたち始めた。最初は足元に纏わりつくだけだった霧が、あっという間に濃度を増し、数メートル先の木々さえもその白い闇の中へと溶かしていく。
旭はスマートフォンのライトを点けるが、光は霧に乱反射するだけで、すぐ先さえ見通せない。コンパスを取り出しても、磁針は意味もなくくるくると回り続けている。完全に方向感覚を失い、旭はその場に立ち往生してしまった。
その時だった。霧の中から、囁き声が聞こえ始めた。
それは、葉が擦れる音のようで、それでいて、まるで自分自身の思考が漏れ出たかのような奇妙な響きを持っていた。
……あなた、ここで何を探しているの?……
「え……?」
……答えなんて、どこにもないのに……
囁きは、先ほど彼女自身が抱いた疑念を、正確になぞってくる。
……戻るなら、今のうちだよ……
それは、警告のようでもあり、優しい誘惑のようにも聞こえた。
……これも、ただの逃避行じゃないか……
……お前なんかに、何ができる……?
今度は、明確な嘲笑の色が混じる。
旭は両手で耳を塞ぐ。だが、声は外から聞こえるのではない。内側から、直接響いてくる。
孤独と不安の波に、旭の膝はがくりと落ち、その場にしゃがみ込んでしまいそうだった。冷たい石畳が、ズボンの生地を通して体温を奪っていく。もう、駄目かもしれない。
……ほら、やっぱりお前には無理だったんだ……
嘲るような囁きが、とどめを刺そうとした、その時だった。
彼女は、胸に手を当てた。
伊勢の神域で、あの楠の木の下で感じた、確かな「熱」。魂に直接刻まれた、あの神々しいまでの感覚。
あれは、夢じゃなかった。この胸の奥で、今も小さな熾火のように、確かに熱を放っている。
「……うるさいっ!」
思わず叫んでいた。
しゃがみ込みそうになる身体を、震える両腕で必死に支える。
「逃避行でも……なんでも、いい……!」
そうだ、きっかけは何だっていい。でも、私は伊勢で確かに「言葉」を受け取った。そして今、こうして熊野のこんなに深い場所まで、自分の足でやって来た。
それは、紛れもない事実だ。
「答えがないなら……見つけるまで、歩くだけだ……!」
震える声で、自分に言い聞かせるように呟く。そしてリュックからノートとペンを取り出すと、かじかむ指で決意を言葉に刻みつけた。
"霧深き 惑いの森に 独り立つ 心の弱さ 我は越え行かむ"
歌を詠み終え、顔を上げた、その瞬間だった。
全ての囁き声を切り裂くように、霧の向こうから一つの澄んだ鳴き声が響いた。
「カァ、」
それは、ただの鳥の声ではなかった。世界の法則を書き換えるかのような、重みと力を持った「音」だった。
旭がはっと声のした方を見る。
霧の中、すぐ近くの木の枝に一羽の大きな「烏」が止まっているのが見えた。濡れたように艶やかな黒い羽根。そして、何よりも――その烏の足は、確かに三本あった。
三本足の烏は、その賢そうな瞳で旭をじっと見つめている。
天啓にあった「三本足の烏」。あれが、「導き手」。
旭はそれを直感した。助かったんだ、と安堵の息が漏れる。
しかし、烏は飛び去らなかった。
「カァァァアアア—————ッ」
二度目の鳴き声は、空間そのものを震わせる、凄まじい咆哮だった。
旭が立っている足元の地面が、霧が、周囲の木々が、その鳴き声に共鳴し、まるで水面に映った景色のようにぐにゃりと歪み始めた。
「え……なに、これ!?」
世界が、壊れていく。
乳白色の霧は、夕焼けのような、あるいは夜明けのような、紫と橙が混じり合った不思議な光を帯び始める。天を突いていたはずの杉木立は、さらに巨大で、見たこともないほどにねじれた異様な姿へと変貌していく。苔むした石畳は、淡い光を放つ水晶の道へと姿を変える。
頭上を見上げると、霧の切れ間から見える空は、もう見慣れた春の青空ではなかった。そこには、深い藍色の夜空に、二つの月が浮かんでいた。
ここは、どこ?
ここは、私が今までいた場所じゃない。
眩暈と吐き気に、旭はその場に膝をついた。立っていられない。世界が、自分の知らない法則で作り変えられていく。
やがて世界の震えが収まった時。
彼女がいたのは、先ほどまでと同じ熊野の古道によく似た場所だった。だが、全ての景色が、より幻想的で、より濃密で、そして、より危険な気配を放っていた。空気には、花の匂いでも土の匂いでもない、甘く未知の香りが満ちている。
呆然とする旭の肩に、ふわりと軽い何かが舞い降りた。
見ると、あの三本足の烏だった。彼は、その賢そうな瞳で旭の顔を覗き込むようにして、今度は「言葉」を発した。それは、老婆のようでもあり、少年のようでもあり、いくつもの声が重なったような不思議な声だった。
「ようこそ、岸に流れ着きし子よ。裏の日本へ」
「――ここから先は、表とは理が違う」
その言葉を証明するかのように、今までの「囁き声」とは質の違う、明らかな敵意と獣のような気配が、森の奥から立ち昇った。
ざわざわ、と森の闇が蠢く。それは風の音ではない。何かが、こちらへ近づいてくる音だ。
旭と烏が同時にそちらを向くと、闇の中から二つの燐光がぬっと浮かび上がった。
そして、月明かりと苔の放つ淡い光に照らされて、その全体像が姿を現す。
鹿のような枝分かれした角、猿のようにしなやかな四肢、そして木の根が絡まり合ってできたかのような歪な胴体。それは、森そのものが悪意を持って形を成したかのような、この世ならざる「モノ」だった。
「モノ」は、明らかに異物である旭を認識し、その燐光の瞳に飢えたような光を宿す。
キィィィィ、とガラスを引っ掻くような耳障りな鳴き声が響き渡る。
旭の思考は、恐怖で完全に停止した。
ただ、本能だけが叫んでいた。
――逃げろ、と。
彼女は背を向け、考えるよりも先に駆け出していた。背後からは、木々がなぎ倒されるすさまじい追跡の音が迫ってくる。
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