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第零柱ノ弐:甦りの地

伊勢の神域を後にして、旭の旅はその様相を大きく変えていた。

昨日までの、あてのない逃避行は終わった。カーナビが示す「熊野」の二文字が、今は彼女の唯一の羅針盤だ。空っぽだった心には、「導き手を得よ」という熱を帯びた天啓が灯っている。それは不安であると同時に、生まれて初めて感じる確かな「使命」の重みだった。


伊勢を発ち、国道42号線を南下する。

あの楠の木の下で不思議な体験をしてから、旭の世界は少しだけ違って見えた。まるで、今まで気づかなかった新しい感覚が一つ増えたかのようだ。車窓から見える風景の色彩が、以前よりずっと鮮やかに目に映る。風の匂いに、土地の記憶のようなものが微かに混じっている気がする。


やがて道は、右手には深い緑の山々、左手には広大な太平洋という、雄大な景色の中へと吸い込まれていった。

山が海に迫る断崖を、いくつものトンネルが貫いている。暗く人工的なオレンジ色の光に満たされたトンネルを抜けるたび、目の前に息をのむような絶景が広がった。

「うわ……」

思わず声が漏れる。


どこまでも蒼く、そして広大な太平洋。春の柔らかな光を反射して、その表面はまるで神様がダイヤモンドの粉を撒いたかのように、無数に、そして眩しくきらめいていた。黒々とした岩礁に白い波が砕け散る様は、荒々しくも神聖な生命の律動を感じさせる。

天啓にあった「大いなる災い」が、この美しい世界を蝕もうとしている。そう思うと、胸が強く締め付けられた。この景色を、失いたくない。守らなければならない。その想いが、使命感をより一層強くした。


昼過ぎ、海沿いにある道の駅で車を停めた旭は、展望台へと歩いた。そこから見える光景に、彼女は再び心を奪われる。

海の向こう、断崖絶壁の岬から一頭の巨大な獅子が、天に向かって咆哮しているかのような巨大な岩があった。風と波が、気の遠くなるような時間をかけて彫り上げた自然の芸術。だが、今の旭にはそれがただの岩には見えなかった。

「……守り神、みたい」

そう、まるでこの美しい海岸線を太古の昔からずっと見守り続けてきた、土地の守護者のような気高い魂の気配を感じるのだ。旭は、その岩に向かって自然と小さく頭を下げていた。


再び車を走らせ、熊野地方に入ったところで、旭はまた不思議な気配に引かれてアクセルを緩めた。国道沿いに、他の神社とは明らかに違う、古く原始的な気配を放つ聖域の入り口があったのだ。大きな看板があるわけではない。ただ、そこに立つだけで空気が変わるのが分かった。伊勢で感じた清浄な気とも、獅子の岩で感じた力強い気とも違う。もっと重く、深く、そして悲しい気配。

何かに導かれるように、旭はキャンピングカーを駐車場に停め、その鳥居をくぐった。


そこは、社殿のない異様な空間だった。

代わりに目の前に立ちはだかるのは、高さ45メートルはあろうかという巨大な岩壁そのものだった。岩肌は黒くごつごつとしており、その表面には無数のシダや草花が、まるでしがみつくように根を張っている。岩壁の頂上からは、一本の巨大で太い綱が向かいの松の木へと渡されていた。藁を編み上げて作られたその綱は、まるで天と地とを結ぶ神々のための架け橋のようにも見えた。


圧倒的な存在感。畏怖。そして――。


「……悲しい……」


ぽつりと、言葉が漏れた。

なぜだろう。この巨大な岩を見上げていると、胸の奥が締め付けられるような、計り知れないほどの深い深い悲しみが伝わってくる気がした。それは誰か一人の悲しみではない。もっと根源的で、この国が生まれる前からずっとここに在り続けたかのような、途方もない孤独と絶望の気配。

風が木々を揺らす音が、まるでか細いすすり泣きのように聞こえる。


旭は、その場に立ち尽くしたままノートを開いた。

指先が、自然と動き出す。


"常世へと 続く岩戸か 春疾風 花の匂いに 悲しみを知る"


歌を詠み終えると、ざあっと春の強い風が吹き抜けた。風に舞った桜の花びらが、まるで涙のように岩肌を撫でていく。

ここがどんな場所で、どんな由来があるのか、旭はまだ知らない。だが、この場所で感じた悲しみの正体をいつか知らなければならない。そんな予感が、彼女の胸に強く刻まれた。



車に戻った旭は、しばらく言葉にならない感情の余韻に浸っていた。伊勢で受けた神々しくも畏ろしい天啓。そして今、この熊野の地で肌で感じた途方もなく古く、そして深い悲しみ。二つの体験はバラバラの点のように思えたが、その間には何か見えない線が確かにあるような気がしていた。


「導き手を得よ、か……」

天啓の言葉を反芻する。その導き手は、どこにいるのだろう。ただ待っているだけでは、何も始まらない。旭は気持ちを切り替えると、旅の前に買い込んだ詳細な観光地図を広げた。今いる海沿いの聖地から内陸へ向かい、熊野信仰の中心地である山深い場所にあるという本宮を目指すことに決める。

新しい目的地をセットし、彼女はキーを回した。


海沿いを走る国道から、山深くへと続く脇道へ。ここからは、これまでのような快適なドライブではない。道は次第に細く険しくなり、ガードレールのすぐ下には深い渓谷が口を開けている。ハンドルを握る手に、汗が滲んだ。

やがて道は「松本峠」と記された、古い石畳が残る古道の入り口へと差し掛かった。ここから先はさらに道が狭くなるようだ。旭は、峠の手前にある小さな駐車スペースにゆっくりと車を進めた。


その時だった。

ガクン、と大きな衝撃と共に、キャンピングカーのエンジンが咳き込むようにして止まった。

「え……?」

慌ててキーを回し直すが、うんともすんとも言わない。それどころか、今まで明るく灯っていたカーナビや計器類のランプまでが、ふ、と命を失ったかのように全て消えてしまった。


「うそ……バッテリー上がり?」

ありえない。この旅に出る前に、整備は完璧に済ませてきたはずだ。旭は何度もキーを回し直すが、キャンピングカーはまるで巨大な鉄の塊になってしまったかのように、沈黙を守っている。


途方に暮れて、旭は運転席から外を眺めた。

目の前には、苔むした石畳がどこまでも続くかのように森の奥へと誘っている。ひんやりとした、それでいて清浄な空気がここまで漂ってくるかのようだ。

その時、彼女ははっとした。


これは、ただの故障じゃない。

この車が、このキャンピングカーという「現代」が、これ以上先の「神域」へ入ることを、拒絶されているのだ。


「……ここから先は、この子じゃ行けないんだ……」

天啓は私一人に下された。ならば、この先の道も私一人の足で進まなければならない。神様は、そう言っているのかもしれない。

それは突き放されたような、それでいて試されているような、不思議な感覚だった。

旭の胸に、恐怖よりも先に、静かな覚悟が宿る。


彼女は運転席のドアを開けると、後部座席から登山用のリュックを取り出した。水、少しの食料、地図とコンパス、そしていつも肌身離さず持っている和歌のノートとペン。必要なものだけを手早く詰め込み、しっかりと背負う。

最後に、沈黙したままの愛車を優しく一度だけ撫でた。

「大丈夫、必ず帰ってくるから」


そして、旭は苔むした石畳と、天を突くような杉木立が続く「熊野古道」へと、ついにその一歩を踏み出した。



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