第三柱ノ壱:神鹿と、咲かぬ藤
三輪山を後にして、天鳥船は、大和盆地をさらに北へと進んでいく。
やがて、車窓の向こうにどこまでも広がる深い森が見えてきた。街の中心部に、まるで太古から時間が止まったかのような広大な原生林が鎮座している。その木々の間からは、五重塔の屋根が空に向かって伸びているのが見えた。
「大きい……」
澪緒が感嘆の声を漏らす。
「うん、すごいね……。あんなに大きな建物、初めて見たかも……」
旭も同意して頷く。すると、ダッシュボードの上のヤタ様が、ふん、と鼻を鳴らした。
「あれは器にすぎん。あのお堂は昔、この国を大きな災厄から守るために時の帝が建立したものよ。中には盧舎那仏…巨大な仏が鎮座しておる。じゃが、それでもこの地の『錆』を完全に防ぎきることはできんようじゃな」
「あ……!」
ヤタ様の言葉を遮るように、後部座席の澪緒が子供のように目をきらきらと輝かせた。
森の入り口、広々とした芝生の上で、ぴょこん、と可愛らしい二本の角と優しい瞳がこちらを覗いている。鹿だ。一頭だけではない。あちらにもこちらにも、まるで森の主であるのが当たり前かのように、たくさんの鹿たちがのんびりと草を食んでいる。
「鹿さん……! 本物の……!」
吉野の山奥で育った彼女にとって、それは絵本の中でしか見たことのない憧れの光景だった。
「旭さん、少しだけ寄っていきませんか? お願いです!」
そのあまりに純粋な願いに、旭はふふ、と微笑んでアクセルを緩めた。
「しょうがないなあ。少しだけだよ」
「やったあ!」
しかし、そのやり取りをダッシュボードの上のヤタ様がぴしゃりと遮った。
「ならん! 我らの使命を忘れたか! 寄り道など……」
「まあまあ、トリ。少し休憩しましょうよ」
旭がなだめる。
「それに、ほら、澪緒ちゃんがあんなに喜んでる。いいでしょ?」
ヤタ様は、バックミラー越しに満面の笑みで窓の外を見つめる澪緒の姿をちらりと見ると、ちっと舌打ちをしてそっぽを向いた。
「……勝手にせい。ワシは知らん」
◇
天鳥船を駐車場に停め、三人は奈良公園へと足を踏み入れた。
澪緒は一目散に一頭の子鹿に駆け寄ると、その柔らかな毛並みにそっと手を伸ばそうとした。
その瞬間、ヤタ様の窘めるような声が飛んだ。
「待て、小娘。ここの鹿たちは神の使いじゃ。人の手でみだりに触れてよい存在ではない」
「え……」
残念そうに手を引っ込める澪緒。
「……ふん。まあ、向こうから来る分には仕方ないがな」
ヤタ様が、少しだけ照れくさそうに付け加える。
「鹿せんべい、というものがある。それを手にすれば、鹿の方からお主らに敬意を払ってくるじゃろう。それならば、まあ、神様もお許しになる」
「……なんだかんだで、優しいんだね、トリは」
旭が、くすりと笑って小声でツッコんだ。
その言葉通り、澪緒が鹿せんべいを買った途端、どこからともなくたくさんの鹿たちが彼女の周りに殺到してきた。
「わ、わわ……!」
せんべいをねだって、こつんと丁寧にお辞儀をしてくる鹿。服の裾をきゅ、きゅ、と引っ張ってくる鹿。「はやく、はやく」とつぶらな瞳で訴えかけてくる鹿。その可愛らしくも猛烈なアピールに、澪緒は嬉しい悲鳴を上げながら、あっという間に鹿の群れに飲み込まれてしまった。
旭はそんな微笑ましい光景を眺めながら、茶屋で買った串に刺さったよもぎ団子をのんびりと頬張っていた。
(平和だなぁ……)
三輪山での戦いが、まるで嘘のようだ。
そう思った、その時だった。
群れから少しだけ離れた木陰の奥。そこに、一頭だけ佇んでいる鹿がいるのに旭は気づいた。
その鹿は、他の鹿たちとは明らかに違っていた。
身体は、神々しいまでの『白』。そして、その頭には天を衝くかのような、枝分かれした見事な角が生えている。群れの主、あるいはこの森そのものの意志が形となったかのような、圧倒的な風格。
しかし、その神聖なはずの白鹿はどこか動きが鈍いように見えた。純白であるべき毛並みも艶がなく、少しだけパサついている。そして、その瞳に宿るべき古の知性の光が、深い悲しみと苦痛の色にどんよりと濁っていた。
旭の鋭敏な感覚が、あの白鹿から微かだが、しかし無視できない「錆」の気配を感じ取っていた。
◇
鹿たちとの触れ合いを終えた一行は、奥にある春日を冠する大社へと、ゆっくりと歩を進めていた。
その参道は異様なほどの静けさと神聖さに満ちていた。道の両脇に、まるで森の番人のように苔むしたおびただしい数の石灯籠が、どこまでも続いているのだ。その一つひとつに長い年月にわたる人々の祈りが込められているのを感じ、旭は厳かな気持ちでその灯籠の間を歩いていく。
しばらく進むと、道の脇に一枚の古びた木の看板が立っているのが見えた。
「植物園……?」
旭がそう呟くと、隣の澪緒がぱっと顔を輝かせた。
「植物園! わあ、素敵ですね。ねえ、旭さん、少しだけ寄っていきませんか?」
「うん、いいよ。行ってみようか」
二人はその植物園へと足を踏み入れた。園内は確かに、様々な時代の貴重な植物が生い茂り、生命力に満ちている。鳥のさえずり、虫の羽音、花の香り。その賑やかな生命のシンフォニーに、二人の心も浮き立つようだった。
そして、園の最も奥に、ひときわ有名な藤棚があった。
しかし、二人はその光景に足を止めた。
季節は、春。
本来であれば、美しい薄紫色の花が甘い香りと共に滝のように咲き誇っているはずの、その場所。
だが、そこにあったのは、力なく垂れ下がる枯れた蔦だけだった。
まるで、生命そのものを、春の訪れを、忘れ去ってしまったかのように。
「……藤が、咲いていない……?」
澪緒が、信じられないものを見るように呟いた。
その枯れた蔦からは、吉野や三輪山で感じたものと同じ、しかしもっと陰湿で、じわじわと生命力を吸い取るような「錆」の気配が漂っていた。
「トリ、これは……」
旭が、肩の上のヤタ様に尋ねる。
ヤタ様は厳しい目で枯れた藤棚と、その向こうにそびえる若草山を交互に見比べると、静かに言った。
「……あの白鹿の苦しみと、この藤の枯渇は根が同じじゃ。この土地の生命力を司る龍脈が淀んでおる。源は、あの若草山の奥にある大いなる石じゃろう」
「だったら、また三輪山の時みたいに……!」
澪緒が希望を込めて言う。
しかし、ヤタ様はゆっくりと首を横に振った。
「いや、今回はちと厄介じゃ。錆の力が、この庭園の生命力そのものである『藤』に巣食っておる。あの枯れた蔦が、この土地全体の錆を吸い上げる中心点になっておるのじゃ」
「それだけではない」と、ヤタ様は続ける。
「この土地の龍脈は、五つの小さな龍神が守護しておる。その流れもまた錆によって乱れ、力が霧散しておる。このままでは、仮に大元の石を浄化したとて、土地の力が元に戻らん」
鎮め石、枯れた藤、そして五つの龍脈。三つの問題を、同時に解決しなければならない。
絶望的な状況に、旭と澪緒は言葉を失う。
そして、ヤタ様は深い溜息と共にもう一つ、重い事実を告げた。
「……おまけに、あの若草山の奥もまた、三輪山と同じ『禁足地』じゃ。人の子が軽々しく立ち入れる場所ではない」
彼は、まるで自分に言い聞かせるかのように、ぽつりと呟いた。
「……やれやれ。またワシが行くしかないようじゃな」
その声には、三輪山での激闘の消耗が隠しきれずに滲んでいた。
「トリ、でも、あなたの力は……」
旭が思わず気遣いの言葉を口にする。
すると、ヤタ様はその言葉を遮るように、わざとらしくぷいと顔をそむけた。
「ふん、ワシの心配か? 無用じゃ。これしきの錆、問題ないわ」
その言葉とは裏腹に、彼の黄金のオーラがほんの一瞬、弱々しく揺らいだのを旭は見逃さなかった。
(……うそ。本当は、かなり無理をしてるんだ……)
だが、旭はそれ以上何も言わなかった。彼の、神の使いとしての、そして年長者としてのプライドを、ここで傷つけるべきではない。今はただ、彼を信じること。それが自分の役割だ。旭はそっと唇を噛みしめた。
ヤタ様は、そんな旭の心を見透かしたように咳払いを一つすると、指揮官のような厳しい口調で言った。
「作戦はこうじゃ。三手に分かれ、三つの問題を同時に叩く。最も効率が良い」
そして、ヤタ様は二人に向き直り、それぞれの役割を告げた。
「瀬の神子よ、お前は、この庭園に巣食う錆の中心……あの枯れた藤を、その力で祓え。何が潜んでおるかは分からん。心してかかれ」
「詠み人よ、お前は、この森に点在する五大龍神の社を巡り、その言霊で龍脈の流れを鎮めよ。道は、この森の守護者たちが教えてくれるはずじゃ」
「そしてワシは、若草山の奥、大いなる石の元へ飛ぶ。お主ら二人がそれぞれの役目を果たしている間に、ワシが内側から錆の根源を断つ!」
「……わかった。やってみる」
「はい……! やります!」
旭と澪緒は、強い決意を目に宿し、力強く頷いた。
こうして、春日の森を舞台とした、三者三様の困難な儀式が始まろうとしていた。
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