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詠姫 ~土地が錆びる時、姫は歌を詠む~  作者: 斎詠清淀
第二柱:寄り道の、大和詣で
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第二柱ノ伍:寄り道の、その先に

「立て、瀬の神子よ! 魂は弱り、道は開かれた! その悲しみを、今こそ祓い流せッ!!」


烏の叫びは、まるで天からの啓示のように、二人の魂を奮い立たせた。

光の衝撃で、旭の身体を締め付けていた茨の蔦が一瞬だけ焼け焦げるようにして緩む。

「……っ、はぁ……!」

ようやく呼吸を取り戻した旭は、咳き込みながらも、烏が創り出した一瞬の好機を悟る。


一方、泉のほとりで吹き飛ばされていた澪緒も、その光と声に、かろうじて意識を繋ぎとめていた。

彼女は、旭がいるであろう森の方向を案じ、そして、烏の言葉を信じ、ふらつく足で自力でゆっくりと立ち上がった。

彼女の身体を包む神衣の光はまだ弱々しい。しかし、その瞳には、友と導き手への絶対的な信頼の光が宿っていた。


彼女は、動きを止めた茨の蛇――その中心で、今にも消え入りそうに揺らめいている「二つの魂」へと、再び向き直る。

そして今度こそ、その太刀を祈りを込めて天へと掲げた。

「鎮まりください……あなたの長い、長い悲しみは、私が全て受け止め、そして、流します!」

澪緒の太刀から放たれたのは、もはや壁ではない。それは、この山に満ちる全ての悲しみと執着を優しく包み込み、浄化する、雄大な光の河だった。


それと、時を同じくして。

森の中で自由になった旭もまた、ノートとペンを固く握りしめていた。腕の痛みも、体の疲労も、今は全てこの一編の歌のために。

彼女は、この地に眠る母の魂に、そして遠くで戦う友の魂に、全ての想いを乗せて言霊を紡ぐ。


”愛し子は 籠の鳥にあらず 天翔ける 信じる心こそ 絆なるらん”


旭の歌が慈愛に満ちた光となり、澪緒の創り出した光の河へと、静かに、そして優しく溶け込んでいく。

水の力と、言霊の力。二人の巫女の力が、今、初めて完全に一つになった。


光の河は勢いを増し、動きを止めた茨の蛇を、優しく、優しく包み込んでいった。

浄化の奔流に洗われ、蛇の体を構成していた禍々しい茨は、次々と本来の美しい若葉へと姿を変えていく。泥水のような水は、清らかな泉の恵みへと還っていく。


やがて、荒魂の禍々しい姿が完全に消え去った、その瞬間。

世界が、息を吹き返した。


空を覆っていた打ち身の痕のような鈍い紫色の雲が、まるで朝日が闇を払うように端からすうっと晴れていく。そして、二つの月の本来の光――白銀と瑠璃色の清浄な光が、再び世界に降り注ぎ始めた。

その光に照らされて、山が次々と本来の姿を取り戻していく。

黒く変色していた苔は鮮やかな緑のビロードとなって岩々を覆う。悪意の悪戯をしていた小川は、きらきらと光を反射させながら楽しげなせせらぎの音を奏で始めた。執着の象徴だった蔦は、他の木々を締め付けるのをやめ、ただ寄り添うようにその幹に緑の模様を描いている。

山全体が、長い悪夢から覚めたかのように、穏やかで温かく、そしてどこまでも荘厳な、本来の神の山の姿を取り戻していた。


その、あまりにも美しい光景の中心。

ふわり、と陽炎のように光の粒子が集まっていく。

そして、そこに一人の高貴な女性の魂が、静かに姿を現した。

その表情は深い慈愛に満ち、そして、その腕には安らかに眠る神の御子みこであろう赤子を、大切そうに抱きかかえている。

母なる神の真の姿だった。


彼女は、旭と澪緒に向かって何も言わずに、ただ穏やかに微笑みかけた。それは感謝であり、謝罪であり、そして自らの過ちを正してくれた二人への、祝福のようにも見えた。


そのあまりにも神々しく、そしてどこまでも優しい母の姿に、旭は涙が頬を伝うのも忘れ、ノートを開いた。

これは鎮魂歌ではない。ただ、目の前にある美しい光景への、祝福と贈り物。


”神の山 眠る御子の 安らけし 母の愛こそ 常世の光”


旭の歌が言霊となって、母子の魂へと届く。

母なる神の魂は、より一層深く満足げに微笑むと、その腕に抱いた我が子と共に、ふわりと無数の光の粒子となって三輪山の深い緑の中へと静かに溶けていった。



後に残されたのは、完璧なまでの静寂と、温かい安らぎだけだった。

二人は消耗しきってはいたが、その心は不思議と満たされていた。

二人はお互いのボロボロの姿を見て、しかしその瞳には確かな達成感を浮かべ、固く、固くその手を握りしめた。


そこへ、少しだけ霊力を消耗し、ふらつきながらも一羽の烏が舞い戻ってきた。

「……ふん。手間取らせおって」

ぶっきらぼうに、しかしどこか満足げに烏は言った。

「べ、別に、お主らのために頑張ったわけではないからな! ワシの役目だからじゃ!」


そのあまりに分かりやすい強がりに、旭と澪緒は顔を見合わせてふふっと優しく笑った。

「はいはい。ありがとうね、烏さん」

旭が、そう呼びかけた時だった。ふと、彼女は首を傾げる。

「……でも、いつまでも『烏さん』って呼ぶのも、なんだか変だよね。長旅になるんだし、何か、あだ名をつけない?」


「あだ名、ですって?」

澪緒が、ぱっと顔を輝かせた。

「いいですね!ええと、ええと……。いつも黒いから、『くろちゃん』、とか……?」

「断る!」

烏が、即座に叫んだ。

「なんだその、そこらの駄犬につけるような、安直な名前は!」


「じゃあ……。太陽の光を操るから……『日輪君』とか……?」

旭が、少しだけ真面目に提案する。

「格好いいですが、あだ名にしては、少し長すぎませんかね……」

澪緒が、困ったように言う。


「ううむ……」と、旭は腕を組んだ。

彼女は、改めて、目の前の不思議な烏を見つめる。三本の、力強い足。そして、太陽の如き、偉大な力。

「……そうだ。あなたは、すごく、大きくて、偉大な存在だから……」

旭は、自分の記憶を探るように、呟いた。

「古い言葉で、『大きい』とか、『たくさん』っていう意味で、『』って使うことがあるよね。八百万やおよろずの神様、みたいに」

「それに、神様の使いだから、敬意を込めて、『様』をつけて……」

旭は、ぱん、と手を叩いた。

「――ヤタ様!」


その、あまりに完璧な響きに、澪緒も「素敵です!」と目を輝かせた。

しかし、当の烏は、どこか不服そうに、ぷいと顔をそむけている。

「……ヤタ様、だと?」

彼は、しばらく、ぶつぶつと、その名前を反芻していたが、やて、これ以上ないほど、大きなため息をついた。

「……まあ、よい。貴様らがつける、ふざけた名前に比べれば、百倍はマシか」

そして、彼は、二人に向き直ると、これでもかと胸を張って、威厳たっぷりに言った。

「――今回だけじゃぞ!特別に、このワシを、ヤタ様と呼ぶことを、許してやらんでもない!」


その、あまりに分かりやすい強がりに、旭と澪緒は、また、顔を見合わせて、声を上げて笑ってしまった。


二人は烏……ヤタ様を肩に乗せ、天鳥船へと戻ると、先ほど解決したばかりの橿原の町へと再び車を走らせた。



一行は天鳥船で、再び橿原の町へと戻ってきた。

三輪山での激闘で消耗しきった心と体を癒すため、そして次の長い旅に備えるため、この「始まりの地」で少しだけ羽を休めることにしたのだ。


夕暮れ時の穏やかな参道を、二人はあてもなくゆっくりと歩いていた。

すっかり元の、清浄でしかしどこか誇りげな空気を取り戻した神域。行き交う人々も皆、穏やかな表情をしている。

その時、ふと澪緒がある一点を見つめて足を止めた。

「あ……」

その視線の先には、昼間に出会ったあの家族の姿があった。

両親と手をつなぎながら楽しそうに歩く、小さな女の子。その手にはもう鹿のクッキーはないけれど、代わりに父親に買ってもらったのであろう、小さな風車が夕暮れの風にくるくると優しく回っていた。

その光景は、どこにでもあるありふれた、しかし何物にも代えがたい幸せな家族の姿だった。


なぜだろう。旭は、そのありふれたはずの光景から目が離せなかった。

不思議な感覚。この光景を、自分は知っている。こんな二つの月が浮かぶ空の下ではない。もっとずっと眩しい、たった一つの太陽の下で。父親の優しい笑顔、母親の穏やかな眼差し、そして風車を追いかける少女の弾むような笑い声。どこで? 海の見える公園だっただろうか。

記憶は陽炎のように揺らめいて、その輪郭をはっきりと結ばない。

(……旅の、疲れかな)

旭は小さくかぶりを振って、その奇妙な既視感を心の隅へと追いやった。


その温かい光景をじっと見つめながら、澪緒がぽつりと旭に尋ねた。

「……旭さん。私、いつか、あんなお母さんに、なれるでしょうか」


その言葉はあまりに不意で、そしてあまりに切実だった。

旭は少しだけ驚いたように、澪緒の横顔を見る。

三輪山で、歪みながらも我が子を、そして我が子が愛した山を必死に守ろうとしていた母なる神の魂。その途方もない愛情に触れた彼女だからこそ、今その言葉が自然とこぼれ落ちたのだろう。


旭は少しだけ考えて、そして優しく微笑んだ。

「……どうだろうね。それは、私にも分からないかな」

そして、幸せそうに歩いていく家族の背中を見ながら、続ける。

「でも、ああいうのって、すごく、良いよね」


その、なんてことない、しかし心からの共感の言葉に、澪緒は嬉しそうに、そして少しだけはにかむように、こくりと頷いた。



翌朝。

心と体の休息を終えた一行は、天鳥船に乗り込んだ。

カーナビの画面には、ヤタ様が最初に設定した本来の目的地が、変わらず光っている。

近江の国、伊吹山。

二人目の巫女が待つ、次なる聖地へ。


旭はアクセルをゆっくりと、しかし力強く踏み込んだ。

大和の地で二つの魂を癒し、そしてまた一つ絆を深めた彼女たちの本当の旅が、今、再び始まろうとしていた。

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