第二柱ノ肆:神の山の微笑み
澪緒が向かったのは、山の西側にある、清らかな水が湧き出るはずの泉だった。
その泉は、悪戯な「奇魂」の力によって荒れ狂う混沌の渦と化していた。水は意思を持ったかのように無数の水の蛇となって暴れ回り、周囲の岩や木々を容赦なく打ち付けている。
「鎮まりください……」
澪緒は泉のほとりに立ち、そっと目を閉じた。
彼女の祈りに呼応し、その手から優しく清らかな水の力が、霧となって泉へと広がっていく。
すると、どうだろう。あれほど荒れ狂っていた水の蛇たちが、澪緒の癒しの力に触れ、少しずつその動きを穏やかなものに変えていく。威嚇するように跳ねていた水しぶきも、まるで彼女の祈りを聞き入れているかのように静かになっていった。
(いける……! このまま、この水の心を元の優しい姿に……!)
確かな手応えに、澪緒の表情がほんの少しだけ和らいだ。
◇
一方、旭が向かったのは、山の東側にあるひときわ深い森だった。
そこは、「幸魂」の歪んだ愛情によって、無数の蔦がまるで蛇のように絡み合い、一つの巨大な茨の牢獄と化していた。
旭は、その茨の中心を見据え、この場所に満ちる強すぎる母の愛に語りかける。
「あなたの、子を想う気持ちは、とても、とても美しいものです」
そしてノートを開き、その想いに寄り添う和歌を静かに詠み始めた。
”愛し子は 籠の鳥にあらず 天翔ける 信じる心こそ 絆なるらん”
旭の言霊が柔らかな光となって、茨の牢獄を内側からゆっくりと優しく照らし出す。
すると、蔦の動きがぴたりと止まった。それどころか、まるで彼女の言葉を理解したかのように、その絡まりが少しずつ解けていく気配さえあった。
(届いてる……! 私の言葉が……!)
旭の心にも、確かな希望の光が灯った。
◇
しかし、二人の儀式がこのまま成就するほど、この山を蝕む「錆」は甘くはなかった。
二人がそれぞれの場所で確かな手応えを感じた、まさにその瞬間。
結界の奥、鎮め石が安置されているであろう山の最深部から、「ゴッ」という全てを拒絶するような邪悪な脈動が響き渡った。
その脈動に呼応し、澪緒の目の前で静まりかけていた泉が、再び、そして以前よりも遥かに激しく荒れ狂い始める。
水の蛇たちの透き通っていたはずの身体が黒い「錆」に侵食され、その目に憎悪と破壊衝動に満ちた赤い光が宿る。
「そんな……!」
癒しの力はもう通じない。黒い水の蛇と化した奔流が、今度は明確な殺意を持って澪緒へと襲い掛かった。
森の状況も一変していた。
旭の言霊に解けかけていたはずの蔦が、黒い棘を無数に生やしながら一気に彼女の身体へと襲い掛かる。
「きゃっ……!」
蔦が彼女の足首に、腕に、そして言葉を紡ぐべき口元にまで、きつく、きつく巻き付いてきた。
「あ……ぐ……!」
カーディガンの生地が破れ、白い肌に赤い線が走る。息が苦しい。
「……無駄なことを……」
「……お前ごときに、この『愛』が癒せるものか……」
今度の囁き声は、もう彼女自身の心の声ではなかった。それは、この森に宿る歪みきった母性の、明確な拒絶の言葉だった。
意識が、遠のいていく――。
◇
もう駄目だ。
二人が同時にそう感じた、その時だった。
ドゴオオオオオン!!!
突如として、森の中心部で巨大な爆発音が響き渡った。
それは、澪緒が戦っていた泉から暴走した黒い水の蛇の一体が、森の方向へと大きく逸れ、その巨体を叩きつけた音だった。
「奇魂」の無軌道な悪戯が、「幸魂」の執着の森を、偶然にも破壊したのだ。
その衝撃で旭の体を締め付けていた蔦の力が、一瞬だけふっと緩んだ。
「……今……!」
旭は茨の牢獄から一気に抜け出すと、ボロボロになりながらもなんとか森の中心部から脱出する。
泉では、森への誤爆によって一瞬だけ力の奔流が途切れた隙を突き、澪緒が最後の力を振り絞って巨大な水の壁を展開していた。それはもはや浄化のためではない。ただ自分の身を守るためだけの、最後の砦だった。
二人はそれぞれの場所で命からがら最悪の状況だけは切り抜けた。しかし、状況は何も好転していない。
森はまだ不気味に蠢き、泉の水の蛇は体勢を立て直して再び澪緒の水の壁を削り始めている。
旭は森の入り口で息も絶え絶えに、拝殿の奥にある三つ鳥居を見つめた。
(烏は、まだなの……?)
結界の奥からは何の反応もない。それどころか、山の奥から漏れ出してくる「錆」の気配は、弱まるどころかむしろ先ほどよりも強くなっているようにさえ感じられた。
泉の方では、澪緒がかろうじて水の壁を再展開しようとしていた。
しかし、その時だった。
森の木々を揺らす蔦の蠢く音。泉の水をかき乱す水の蛇の音。その二つの、別々だったはずの音がぴたりと止んだ。
そして、山全体を墓場のような完全な静寂が支配する。
「……何……?」
旭が呟いた、その瞬間。
森の中心から、そして泉の中心から、黒く禍々しいオーラがまるで巨大な二つの腕のようにゆっくりと伸び始めた。
歪んだ「幸魂」と、暴走する「奇魂」。二つの魂が、互いに惹かれ合うように空中で一つに絡み合っていく。
「まずい! 二人とも、そこから離れろ!」
烏の声が、旭の頭の中に直接、悲鳴のように響いた。しかし、もう遅い。
二つの魂が完全に融合し、一つの、あまりにも巨大で絶望的な存在へと変貌を遂げた。
それは茨の蔦で編まれた巨大な黒い蛇だった。その身体の表面を、泥水のような錆びた水が絶えず駆け巡っている。その目は憎悪に燃える赤い燐光を放ち、その口からはこの世の全ての悲しみを凝縮したかのような、低いうなり声が漏れていた。
「幸」と「奇」、二つの魂の歪んだ側面だけが融合した、純粋な破壊の化身。
「グルルルルルウウウオオオオオオオッ!!」
その咆哮は、もはや声ではなかった。山全体を揺るがす、魂への直接的な衝撃波だった。
澪緒が展開していた水の壁は、その咆哮だけでガラスのように粉々に砕け散る。
「きゃああああっ!」
澪緒は凄まじい衝撃に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。彼女の身体を包んでいた神衣の光が弱々しく明滅し、今にも消えそうだ。
旭は澪緒の元へ駆け寄ろうとする。しかし、地面から伸びてきた無数の茨の腕が彼女の足首を掴み、動けなくする。
「いやっ……!」
巨大な茨の蛇が、ゆっくりと二人を見下ろす。
もう、駄目だ。
偶然の助けも、小手先の技も、何もかもが通用しない。圧倒的な力の差。絶対的な絶望。
旭の脳裏に、これまでの短い旅が走馬灯のように駆け巡った。伊勢の光、熊野の悲しみ、そして吉野で出会った、この優しくて強い友人の笑顔。
(ごめん、澪緒ちゃん……私には、やっぱり、何も……)
旭が固く目を閉じた、まさにその瞬間だった。
カッ!
三つ鳥居の奥、結界の中心から、世界を白く染め上げるほどの凄まじい光が放たれた。
それは、太陽そのものがすぐ目の前に降臨したかのような、絶対的な「聖」の光。
光は茨の蛇の巨体を真正面から撃ち抜き、その動きを完全に停止させた。
「な……に……?」
旭が恐る恐る目を開けると、光の中心、三つ鳥居の前で一羽の烏が静かに、しかし神々しいまでのオーラを放って佇んでいた。
その身はもはやただの黒い鳥ではない。全身が黄金の炎に包まれ、まるでミニチュアの太陽のようだ。その姿は疲れ果て、消耗しきっているように見えたが、その瞳には確かな勝利の光が宿っていた。
「……ふん。手間取らせおって」
烏が、吐き捨てるように言った。
「ようやくお役御免というわけか。……ワシは、ワシの仕事を果たしたぞ」
「鎮め石を蝕む『錆』の核は、この太陽の光で焼き祓った!」
そして、彼は倒れている澪緒に向かって、最後の力を振り絞るように叫んだ。
「立て、瀬の神子よ! 魂は弱り、道は開かれた! その悲しみを、今こそ祓い流せッ!!」
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