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詠姫 ~土地が錆びる時、姫は歌を詠む~  作者: 斎詠清淀
第二柱:寄り道の、大和詣で
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第二柱ノ参:神の山と、母の伝説

天鳥船が、橿原の整然とした神域を離れ、広大な大和盆地へと滑り出していく。

車窓の外には、どこまでも続く穏やかで豊かな田園風景が広がっていた。吉野の険しい山々とも、熊野の荒々しい海岸線とも違う、全てを優しく受け入れるかのような悠久の時間が流れる土地。

ここが、かつてこの国の全ての歴史が始まった場所なのだと、理屈ではなく肌で感じられた。


「見て、旭さん」

澪緒が感嘆の声を上げて前方を指さす。

その視線の先、広大な盆地の中にぽつ、ぽつ、と、まるで天から三つの翠の宝玉がこぼれ落ちたかのように、完璧な形をした三つの山がそびえ立っていた。


「……あの山……」

旭は息をのんだ。見覚えがあった。

旅の始まり、伊勢へ向かう高速道路のサービスエリアでぼんやりと眺めた、あの風景。霞の向こうに、遠く淡く見えていた、あの美しい山並み。

あの時ただの風景だと思っていたものが、今こうして自分の「目的地」として目の前にある。

不思議な縁に、旭の胸が熱くなった。


「大和三山じゃな」

烏が静かに言った。

「天の香具山あめのかぐやま畝傍山うねびやま耳成山みみなしやま。天から見下ろす神々のための古き道標よ。あの山々に、この国の始まりの、神代かみよの記憶が眠っておる」

烏の言葉に、旭はごくりと喉を鳴らした。


やがて一行は、その三山の中でもひときわ大きく、そして何か生き物のような気配を放つ、美しい円錐形の山の麓へとたどり着いた。

車を降りると、これまでの聖地とは比べ物にならないほど濃密で、原始的な生命の気に全身が包まれた。まるで山全体が巨大な心臓であり、その力強い鼓動が風となり、空気となり、この場を支配しているかのようだ。


「すごい……。山全体が、神様なんだ……」

「うむ」

烏が静かに頷く。

「この山には、人の手による社殿というものがない。山そのものがご神体なのじゃ。そして、この山に宿る大いなる神には、古くから一つの伝説がある」

「伝説……?」

澪緒が興味深そうに尋ねた。


「この山に宿る偉大なる男神と、この地に住んでおった、それはそれは美しい人間の姫君が恋に落ち、やがて二人の間には神の御子が生まれたという『聖婚伝説』じゃ」

烏は遠い目をして続ける。

「姫の名は、玉依姫たまよりひめ。神の御子を産み、育てた偉大なる母じゃ。そして、その『母の魂』は今もこの山に満ち満ちておる。我が子である神と、その子が愛したこの山を、守ろうとする強すぎるほどの愛情がな……」


烏の言葉に、旭と澪緒は顔を見合わせた。

この神々しくも、どこか畏怖を感じさせる山の気配。それは、この山に満ちる「母性」そのものなのかもしれない。



一行は、山の麓にある大きな鳥居の前に到着した。

ここから先は神の領域。天鳥船を駐車場に停め、三人はその聖域へと静かに足を踏み入れた。


大きな鳥居をくぐり、三人は深い木々に覆われた参道へと足を踏み入れた。

ひんやりとした空気が肌に心地よい。しかし、その清浄な空気の中に、旭と澪緒は早くもこの山の「歪み」の気配を感じ取っていた。


参道の脇に立つ立派な杉の木。その幹に、まるで緑色の巨大な蛇のように太い蔦が、締め付けるように執拗に絡みついている。よく見れば一本だけではない。周囲の木々という木々が、お互いに蔦や根を絡ませ合い、まるで嫉妬深い恋人同士のようにその自由を奪い合っていた。

道端に咲く美しい山百合。しかし、その甘い香りに誘われた蝶が花弁に止まった瞬間、花びらがまるで食虫植物のようにきゅっと閉じて蝶を閉じ込めてしまう。


「……なんだか、この森……」

澪緒が不安そうな声を上げる。

「ええ……。『愛』が強すぎる、というか……」

旭も、その異様な光景に眉をひそめた。


さらに参道を進むと、今度は別の異常に気づく。

参道の脇を流れる清らかなはずの小川。その水が時折、透き通った水の蛇のような形となってぴしゃりと跳ね、歩く二人の足元を濡らしてくるのだ。それは、まるでたちの悪い子供のようないたずらだった。

ゴロリ、と。道端の石ころがまるで意思を持ったかのように、絶妙なタイミングで転がり、旭の進路を塞ぐ。

「わっ……!」「きゃっ!」

二人は次々と起こる、ささやかで、しかし明らかな悪意のこもった「奇跡」に翻弄される。


「……なるほどな」

その様子を見ていた烏が、静かに呟いた。

「この山の主は、その正体を大いなる蛇とする根源の神。その魂もまた蛇の性質を宿す。『幸魂さきみたま』の深い愛情は、蛇のごとき執着に。『奇魂くしみたま』の賢しい知恵は、蛇のごとき悪戯に……。どちらも、錆によって歪められた母性の暴走じゃ」


烏の言葉に、旭と澪緒はこの山で起こっていることの全てを理解した。

このままでは、いずれこの歪んだ愛情と悪戯は、もっと大きな災いを引き起こすだろう。二人は顔を見合わせ、強く頷いた。



歪んだ愛と悪戯に満ちた参道を抜け、一行は山への入り口である拝殿にたどり着いた。

そして、その拝殿の奥に佇む光景に、旭と澪緒は思わず息をのんだ。


そこに在ったのは鳥居だった。しかし、彼女たちが知っているどんな鳥居とも違う。

中央に堂々とした構えの鳥居があり、その左右に一回り小さな鳥居が、まるで翼のように連結しているのだ。三つの神域への入り口が横一列に並んだ、異様で、しかし神々しいまでの威圧感を放つ「三つ鳥居みわとりい」。

その柱は千年の風雪に耐えた神代杉であろうか、黒光りしており、その奥にあるはずの森の景色はまるで陽炎のようにゆらゆらと歪んで見えた。鳥居そのものから、目には見えない、しかし肌で感じるほどの強力な結界が壁となって発せられているのだ。


「これが…結界……」

旭が見えない壁に手を阻まれ、呟く。

「どうすればいいの……?」

澪緒が助けを求めるように烏を見つめた。


しかし、烏の表情はこれ以上ないほどに険しかった。

「……駄目じゃ。手遅れやもしれん」

「え……」

「中の『錆』の力が、暴走した二つの魂を煽り、内側から結界をさらに強固にしておる。これでは外から祈りを届かせることなど不可能じゃ。……この先は、どうしようもない」

烏は、悔しそうにそう吐き捨てた。


どうしようも、ない。

その言葉が、二人の少女の胸に冷たく突き刺さった。

「そんな……」

澪緒の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。自分の愛した吉野が、今この山と同じように悲鳴をあげている。目の前に苦しんでいる魂がいるのに、何もできない。その無力感が、彼女の心を苛んだ。

旭も唇を固く噛みしめた。伊勢で天啓を受けた時のあの高揚感が、急速に色褪せていく。結局、私には何もできないのか。ただ見ていることしか……。


二人のその悲痛な顔を見て、烏はぎゅっと目を閉じた。

そして、深い深いため息をついた。まるで、千年分の疲労を吐き出すかのような、ため息だった。

やがて彼はゆっくりと目を開けると、決意を秘めた鋭い眼光で二人を見据えた。


「……お主らは入れぬ。じゃが」

「……?」

「ワシならば、行ける」


「本当!?」

旭と澪緒が同時に顔を上げる。

「お願い、烏! 行ってくれるの!?」

澪緒が懇願するように烏に手を差し伸べる。

烏はぷいと顔をそむけた。

「勘違いするな、小娘ども。ワシは神の使いじゃ。お主らに命令される筋合いはない。それに、結界の奥はワシにとっても危険なことに変わりはないわい。下手をすればこの身が消し飛ぶやもしれん」

その言葉はぶっきらぼうで冷たく聞こえた。しかし、その瞳の奥には、二人の少女の悲しみを、見過ごせないという確かな優しさが宿っていた。


「……それでも、行くんだね」

旭が静かに言った。

烏はちっと舌打ちをすると、ばさりと翼を広げた。

「……お主らの熱意に免じて、特別じゃ。よく聞け。儀式は三位一体で臨むぞ」


そして、烏は作戦を告げた。

「ワシが内側から、石を蝕む『錆』そのものを、我が太陽の光で焼き祓う! その瞬間に合わせ、お主ら二人は外から二つの魂を鎮めるのじゃ!」

「……わかった!」「はい!」


「ワシを信じろ。そして、互いを信じよ。……行くぞ!」

烏はそう言い残すと、一筋の黒い矢のように、三つ鳥居が発する歪んだ結界の中へと、その身を投じた。

残された二人は顔を見合わせた。そして、強く頷くと、それぞれの試練の場所へと走り出した。


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