表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
詠姫 ~土地が錆びる時、姫は歌を詠む~  作者: 斎詠清淀
第二柱:寄り道の、大和詣で
10/15

第二柱ノ弐:言霊と、清めの水

途方に暮れる旭の隣で、澪緒が意を決したように一歩前に出た。

「あの、やめてください!」

凛とした声が、境内に響く。

その声に、青年はぎろりと血走った目で澪緒を睨みつけた。

「何だ、貴様は。部外者は口を出すな」

「部外者ではありません。私も、あなたと同じ、この国とここに眠る人々の歴史を心から敬愛している者です」

澪緒は怯むことなく、まっすぐに青年を見つめ返した。

「だから、わかるんです。あなたがこの場所をどれだけ大切に想っているか。その想いは、とても尊いものです。でも……」

澪緒は、泣きじゃくる女の子に痛ましそうな視線を送る。

「その想いが、誰かを泣かせるためのものであって、いいはずがありません」


「黙れッ!」

青年の、抑えつけられたような叫び声。

「貴様のような者に何がわかる! 俺は、守らなければならないのだ! この、日本で最も清浄で尊い場所を! お前たちのような、敬意も知識もない者どもの無知な冒涜から!」

彼の激情に呼応するように、周囲の空気がびりびりとさらに歪んでいく。清浄なはずの神域に、「錆」の気配がより一層濃くなっていくのが、旭にはわかった。


(ダメだ…言葉だけじゃ、届かない……!)

澪緒の言葉は正しい。でも、今の彼は正論を受け入れられる状態じゃない。彼の心は、「守らなければ」という強迫観念でがんじがらめになっている。


その時、旭の肩で烏が囁いた。

(詠み人よ。お前の出番じゃ)

(そやつの心は硬い鎧に閉ざされておる。だが、その鎧の下にはこの場所を愛する純粋な心があるはずじゃ。その一番柔らかい場所に、お前の言霊を届けよ!)


烏の言葉に、旭は頷いた。

力ずくではダメだ。正論でもダメだ。

でも、歌なら。彼の心の、一番奥にある純粋な想いに寄り添うことなら、できるかもしれない。


旭は一歩前に出ると、青年に向かって深く頭を下げた。

「あなたの、この場所を想うお気持ち、お察しします。本当に、素晴らしい場所ですものね」

突然の穏やかな声に、青年は戸惑ったように言葉を失う。

旭はゆっくりと顔を上げると、この荘厳な社殿を、そしてその先に広がる大和の国を見つめるようにして、静かに歌を詠み始めた。


”始まりの 宮居を守る 君が背に 千代の静寂しじまと 天の光あり”


それは、青年の「歪み」を否定する歌ではなかった。

彼の、この場所を守ろうとするその孤独な背中と、その行為の持つ本来の神聖さを、ただありのままに肯定する歌だった。


旭の言霊が柔らかな光となって、青年の心を縛り付けていた「不寛容」の鎧に、ほんの少しだけ亀裂を入れる。

その一瞬の隙を、澪緒は見逃さなかった。

「……旭さん、ありがとう」

小さく呟くと、澪緒はそっと目を閉じ、両手を胸の前で合わせた。

彼女の力が境内に満ちていく。しかし、それは吉野で荒魂を祓った時のような激しい奔流ではない。

まるで打ち水をするかのように、あるいは朝霧が立ち込めるかのように、清浄でどこまでも優しい水の霧が、ふわりと境内を包み込んでいった。


その霧は冷たくはない。むしろ、温かい。

ささくれ立っていた心を優しく撫で、鎮めてくれるような慈雨そのものだった。

旭の詠んだ歌の余韻と、澪緒の創り出した優しく清らかな水の霧。その二つが、青年の心を縛り付けていた硬い鎧をゆっくりと溶かしていく。彼の肩から、目に見えない重荷がどさりと降りたかのようだった。


「……あ……わたしは……」

青年は、まるで長い夢から覚めたかのように、呆然とその場に膝をついた。彼の周りに満ちていた、あの息の詰まるような排他的な空気はもうどこにもない。


母親の後ろに隠れておそるおそる様子をうかがっていた女の子が、もうあの青年が怖くないことに気づいたのか、母親の手を振りほどき、とてとて、と青年の元へ駆け寄った。

「お兄ちゃん、ごめんなさい」

小さな、しかしはっきりとした声だった。女の子は、自分が落としてしまった鹿のクッキーの欠片を拾い上げ、青年へと差し出す。

「もう、写真撮らないから。ちゃんと、ルール、守るから…。だから、もう、怒らないで……」


その、あまりに純粋な言葉に、青年ははっと顔を上げた。そして、自分がしたことの愚かさに、ようやく気づいた。

「……いや、違うんだ」

青年の声は震えていた。

「君は、何も悪くない。悪かったのは、全部、私だ。怖い思いをさせて、本当に、本当にすまなかった……」

彼は女の子の目線までゆっくりと屈むと、涙で濡れた瞳で優しく語りかけた。

「一番大切なのは、ルールを守ることじゃない。君が、この場所を『素敵だな』って、そう感じてくれることだったのに。私は、その心を、踏みにじるところだった」

そして、彼は深く、深く頭を下げた。

「だから、どうか私のことは忘れて。そして、日本の始まりの地を、その肌で、心で、しっかりと感じて、楽しんでいってください」

その言葉に、女の子の母親も父親も、安堵の表情で深く頷いた。



その心温まる光景を見届けた旭と澪緒の元へ、烏が舞い降りてきた。

「うむ。この宮の『歪み』は、解けたようじゃな」

「歪み……?」

澪緒が尋ねる。

「この宮は、『人の秩序』の極み。その力はあまりに強く、清浄じゃ。じゃが、強すぎる光は濃い影を生む。本来、この宮の『秩序』と対になり調和を保つべき、もう一つの力がこの大和の地にはある」

烏は、ギロリと山々の向こうを睨みつけた。

「三輪の山じゃ。あの山に宿る、荒々しく根源的な『自然の力』が、今『錆』によって暴走し、混沌をまき散らしておる。その影響で、対となるこちらの宮の『秩序』もまた、行き場を失い、不寛容という形で歪んでおったのじゃ」


烏の言葉に、旭と澪緒は全てを理解した。

この青年を救っても、根本的な解決にはならない。大和の地に満ちる、この「歪み」そのものを正さなければならないのだ。


二人は、本来の姿を取り戻した青年に、そして穏やかな笑顔で見送ってくれる家族にそっと一礼すると、再び参道を歩き始めた。

境内の空気は春風のように心地よく、そしてどこまでも澄み渡っている。白砂利の道も完璧に整えられた木々も、もはや圧迫感ではなく、ただ誇り高い美しさだけを湛えていた。

「……すごい。空気が、美味しい」

澪緒が嬉しそうに深呼吸する。

旭も大きく頷いた。彼女はノートを取り出すと、今の気持ちを短い歌に書き留めた。


”礎の 宮居に満ちる 春の風 ふたつでひとつ 和するこの国”



天鳥船に戻った一行。

カーナビの画面には、烏が示した次の目的地「伊吹山」が、変わらず光っている。

「寄り道は終わりじゃ。今度こそ、近江へ向かうぞ」

烏がそう言った。

しかし、旭と澪緒は顔を見合わせた。そして、同時に、しかしきっぱりとした声で言った。


「ううん、次は三輪山に行こう」

「はい。行かなければ、なりません」


その迷いのない二人の瞳を見て、烏は何も言わずに、ただ大きなため息を一つ、つくだけだった。


旭はカーナビを操作し、新しい目的地を設定する。

それは、ここからそう遠くない場所。

この国の、もう一つの「始まり」が眠る、神の山だった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

最後まで、お読みいただき、ありがとうございます。


「面白い」「続きが読みたい」と、思っていただけましたら、ブックマークや、下の☆での、評価を、いただけますと、大変、励みになります。


皆様からの、ご感想、誤字報告、お待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ