第二柱ノ弐:言霊と、清めの水
途方に暮れる旭の隣で、澪緒が意を決したように一歩前に出た。
「あの、やめてください!」
凛とした声が、境内に響く。
その声に、青年はぎろりと血走った目で澪緒を睨みつけた。
「何だ、貴様は。部外者は口を出すな」
「部外者ではありません。私も、あなたと同じ、この国とここに眠る人々の歴史を心から敬愛している者です」
澪緒は怯むことなく、まっすぐに青年を見つめ返した。
「だから、わかるんです。あなたがこの場所をどれだけ大切に想っているか。その想いは、とても尊いものです。でも……」
澪緒は、泣きじゃくる女の子に痛ましそうな視線を送る。
「その想いが、誰かを泣かせるためのものであって、いいはずがありません」
「黙れッ!」
青年の、抑えつけられたような叫び声。
「貴様のような者に何がわかる! 俺は、守らなければならないのだ! この、日本で最も清浄で尊い場所を! お前たちのような、敬意も知識もない者どもの無知な冒涜から!」
彼の激情に呼応するように、周囲の空気がびりびりとさらに歪んでいく。清浄なはずの神域に、「錆」の気配がより一層濃くなっていくのが、旭にはわかった。
(ダメだ…言葉だけじゃ、届かない……!)
澪緒の言葉は正しい。でも、今の彼は正論を受け入れられる状態じゃない。彼の心は、「守らなければ」という強迫観念でがんじがらめになっている。
その時、旭の肩で烏が囁いた。
(詠み人よ。お前の出番じゃ)
(そやつの心は硬い鎧に閉ざされておる。だが、その鎧の下にはこの場所を愛する純粋な心があるはずじゃ。その一番柔らかい場所に、お前の言霊を届けよ!)
烏の言葉に、旭は頷いた。
力ずくではダメだ。正論でもダメだ。
でも、歌なら。彼の心の、一番奥にある純粋な想いに寄り添うことなら、できるかもしれない。
旭は一歩前に出ると、青年に向かって深く頭を下げた。
「あなたの、この場所を想うお気持ち、お察しします。本当に、素晴らしい場所ですものね」
突然の穏やかな声に、青年は戸惑ったように言葉を失う。
旭はゆっくりと顔を上げると、この荘厳な社殿を、そしてその先に広がる大和の国を見つめるようにして、静かに歌を詠み始めた。
”始まりの 宮居を守る 君が背に 千代の静寂と 天の光あり”
それは、青年の「歪み」を否定する歌ではなかった。
彼の、この場所を守ろうとするその孤独な背中と、その行為の持つ本来の神聖さを、ただありのままに肯定する歌だった。
旭の言霊が柔らかな光となって、青年の心を縛り付けていた「不寛容」の鎧に、ほんの少しだけ亀裂を入れる。
その一瞬の隙を、澪緒は見逃さなかった。
「……旭さん、ありがとう」
小さく呟くと、澪緒はそっと目を閉じ、両手を胸の前で合わせた。
彼女の力が境内に満ちていく。しかし、それは吉野で荒魂を祓った時のような激しい奔流ではない。
まるで打ち水をするかのように、あるいは朝霧が立ち込めるかのように、清浄でどこまでも優しい水の霧が、ふわりと境内を包み込んでいった。
その霧は冷たくはない。むしろ、温かい。
ささくれ立っていた心を優しく撫で、鎮めてくれるような慈雨そのものだった。
旭の詠んだ歌の余韻と、澪緒の創り出した優しく清らかな水の霧。その二つが、青年の心を縛り付けていた硬い鎧をゆっくりと溶かしていく。彼の肩から、目に見えない重荷がどさりと降りたかのようだった。
「……あ……わたしは……」
青年は、まるで長い夢から覚めたかのように、呆然とその場に膝をついた。彼の周りに満ちていた、あの息の詰まるような排他的な空気はもうどこにもない。
母親の後ろに隠れておそるおそる様子をうかがっていた女の子が、もうあの青年が怖くないことに気づいたのか、母親の手を振りほどき、とてとて、と青年の元へ駆け寄った。
「お兄ちゃん、ごめんなさい」
小さな、しかしはっきりとした声だった。女の子は、自分が落としてしまった鹿のクッキーの欠片を拾い上げ、青年へと差し出す。
「もう、写真撮らないから。ちゃんと、ルール、守るから…。だから、もう、怒らないで……」
その、あまりに純粋な言葉に、青年ははっと顔を上げた。そして、自分がしたことの愚かさに、ようやく気づいた。
「……いや、違うんだ」
青年の声は震えていた。
「君は、何も悪くない。悪かったのは、全部、私だ。怖い思いをさせて、本当に、本当にすまなかった……」
彼は女の子の目線までゆっくりと屈むと、涙で濡れた瞳で優しく語りかけた。
「一番大切なのは、ルールを守ることじゃない。君が、この場所を『素敵だな』って、そう感じてくれることだったのに。私は、その心を、踏みにじるところだった」
そして、彼は深く、深く頭を下げた。
「だから、どうか私のことは忘れて。そして、日本の始まりの地を、その肌で、心で、しっかりと感じて、楽しんでいってください」
その言葉に、女の子の母親も父親も、安堵の表情で深く頷いた。
◇
その心温まる光景を見届けた旭と澪緒の元へ、烏が舞い降りてきた。
「うむ。この宮の『歪み』は、解けたようじゃな」
「歪み……?」
澪緒が尋ねる。
「この宮は、『人の秩序』の極み。その力はあまりに強く、清浄じゃ。じゃが、強すぎる光は濃い影を生む。本来、この宮の『秩序』と対になり調和を保つべき、もう一つの力がこの大和の地にはある」
烏は、ギロリと山々の向こうを睨みつけた。
「三輪の山じゃ。あの山に宿る、荒々しく根源的な『自然の力』が、今『錆』によって暴走し、混沌をまき散らしておる。その影響で、対となるこちらの宮の『秩序』もまた、行き場を失い、不寛容という形で歪んでおったのじゃ」
烏の言葉に、旭と澪緒は全てを理解した。
この青年を救っても、根本的な解決にはならない。大和の地に満ちる、この「歪み」そのものを正さなければならないのだ。
二人は、本来の姿を取り戻した青年に、そして穏やかな笑顔で見送ってくれる家族にそっと一礼すると、再び参道を歩き始めた。
境内の空気は春風のように心地よく、そしてどこまでも澄み渡っている。白砂利の道も完璧に整えられた木々も、もはや圧迫感ではなく、ただ誇り高い美しさだけを湛えていた。
「……すごい。空気が、美味しい」
澪緒が嬉しそうに深呼吸する。
旭も大きく頷いた。彼女はノートを取り出すと、今の気持ちを短い歌に書き留めた。
”礎の 宮居に満ちる 春の風 ふたつでひとつ 和するこの国”
◇
天鳥船に戻った一行。
カーナビの画面には、烏が示した次の目的地「伊吹山」が、変わらず光っている。
「寄り道は終わりじゃ。今度こそ、近江へ向かうぞ」
烏がそう言った。
しかし、旭と澪緒は顔を見合わせた。そして、同時に、しかしきっぱりとした声で言った。
「ううん、次は三輪山に行こう」
「はい。行かなければ、なりません」
その迷いのない二人の瞳を見て、烏は何も言わずに、ただ大きなため息を一つ、つくだけだった。
旭はカーナビを操作し、新しい目的地を設定する。
それは、ここからそう遠くない場所。
この国の、もう一つの「始まり」が眠る、神の山だった。
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