第五十一話 葛藤
大猿の魔物が黒い閃光によって消滅すると、クリスは元に戻った。
しかし──
「……っ」
ムサシは、まるで自分を敵とみなすかのような鋭い視線で刀を構えたまま、警戒を解かない。
バーバラも、何か得体の知れないものを見るように呆然と立ち尽くしていた。
その様子に、クリスはうつむきながら、苦しげに口を開いた。
「……覚醒したのですね、僕は……」
バーバラが静かに問いかける。
「……どういうことなの、これ?」
「そうか、バーバラは初めてだったな」
ムサシが重い口を開いた。
「こいつはたまに、ああやって黒髪になって、まるで別人みてぇな戦い方をするんだ」
そう言って、一呼吸。
(……前回、俺に攻撃してきたことは黙っておくか)
喉元まで出かけた言葉を、ムサシは飲み込んだ。
「……そう、なんだ……」
バーバラはまだ驚きを隠せないまま、そっと視線を落とした。
「原因は……わからないの?」
「……はい、全く。……本当に、申し訳ありません」
クリスの声は、深い後悔と自責の念に沈んでいた。
アリシアは、その様子を見つめながら、心の中で思う。
(……今は、言えない。
言うべきじゃないと思う……)
──クリスの覚醒の原因が、自分のパンツを見ることだなんて。
誰にも、本人にも、とても言えたものではなかった。
だからこそ、アリシアは気丈に笑って言った。
「クリス!そんな顔しないで!
きっと、いつか必ず原因はわかるわ。
焦らないで、みんなで乗り越えていきましょう!」
その言葉に、クリスはアリシアの配慮を悟り、ますます自分が情けなく思えてくる。
「……はい。ありがとうございます、アリシア様……」
唇を噛みしめながら、深く頭を下げた。
(……クリス……)
アリシアは彼を見つめる。
(意識が飛んで、何も覚えてないうちに恐ろしい力を振るってしまうなんて、きっと本人が一番怖いはず……)
しかし、そのすぐ後に心の叫びがこだまする。
(……でも、その覚醒のきっかけが…………私のパンツって!!)
思わず天を仰ぎたくなるほどの苦悩が、胸に押し寄せた。
そんな二人の間で、ふいに軽い声が響いた。
「ていうかさー、何あの魔法!? やばかったんだけど! 普通に!
あんなの私、撃てないわよ!? ねぇクリスくん、ほんとに何も覚えてないの!?」
唐突すぎるバーバラの興奮に、クリスは目を丸くした。
「えっ!? す、すみません! 本当に……何も覚えていないのです……!」
「え〜? つまんなーい!
次はちゃんと観察してやるんだから!」
バーバラの無邪気な宣言に、その場の空気がふっと軽くなる。
アリシアも思わず笑ってしまった。
「バーバラ! 本当に魔法が好きなのね!」
(……バーバラ、ありがとう……!)
「え?いや、そんなに好きじゃなかった、というかむしろ嫌いだったんだけど………
そうね、最近は──好きかも」
少し照れながら、嬉しそうに笑うバーバラ。
そんな彼女を見つめながら、ムサシは心の中でぽつりとつぶやいた。
(ったく……いい女だぜ……)
「──さてと!」
アリシアが手を叩いて気合を入れる。
「気を取り直して進みましょう! 今回も、誰にも怪我はなかったんだし!」
アリシアの掛け声に、再び一行は北東へと歩を進め始めた。
そして再び──
脳筋の鬼と、狂愛の鬼による、容赦なき魔物の駆逐劇が始まった。
その様子を後方から見守るアリシアは、隣を歩くクリスの存在を、どうしても意識せずにはいられなかった。
──これまでのクリスの覚醒。
そのすべてが、自分のスカートの中を見た瞬間に発動している。
そう思うと、恥ずかしくてたまらなかった。
けれど同時に──
本人がまったく覚えていないことを思い出すと、少し安堵した。
ただ……
少しだけ、悔しかった。
アリシアの産みの母マリアンは、セレクト下着ショップの創業者。
その血を引いたアリシアもまた、下着に並々ならぬこだわりを持っている。
見せるつもりなんて一切ない──
だが、バーバラの下着を見て赤面するクリスが、自分の下着を見て、赤面どころか“見たことすら覚えていない”というのは、やっぱり少し、悔しかった。
(……馬鹿ね、私。何を考えてるの……だけど──)
アリシアは思い返していた。
──黒髪になったクリスが、そっと自分のスカートを直してくれたこと。
──そして、シルドーニャで、自分を庇い、魔法をすべて受け切ったこと。
(……ドキドキしちゃうわよ、あんなの……)
目の前では、脳筋鬼と魔法狂が、凄まじい勢いで魔物を斬り散らかしている。
だがアリシアの視界には、もはや何も映っていなかった。
「アリシアちゃーん! あそこに旅の宿屋があるよー!」
バーバラの声が飛び込んできた。
「もう暗くなってきたし、今日はあそこに泊まらない?」
アリシアははっとして我に返る。
「あ、ホントね! そうしましょう!」
そう返したその声には、どこか上の空な響きが、残っていた──。




