第二十六話 扉の前で
──解散寸前の危機を、信頼と友情の力でなんとか乗り越えた三人は、ダンジョンの最下層へと足を踏み入れていた。
階段を降りると、そこはこれまでの階層とはまるで様子が異なっていた。
分かれ道はなく、ただ一筋に続く石畳の道。そして、その先には、いかにも“ボス”が待っていそうな仰々しい扉が鎮座していた。
そして──その扉の少し手前には、謎のドブ沼があった。
「なにあれ……きったなっ!」
アリシアが眉をしかめる。
「そうか? 昔、あんな感じの池でザリガニ獲って遊んでたけどな。食わなかったけど」
「食うやつおらんわ!」
例によって、先ほどの涙のやり取りなどなかったかのように戯れ合い始める二人。
その後ろでは、白目を剥きながらゾンビのごとくふらふらと歩く青年の姿があった。
「……はぁ……はぁ……」
クリスだった。
そもそも街に行って宿屋で休みたいくらい疲れていたところへ、勇者アリシアがこのダンジョンを発見してしまい、強行突入。
中では毒沼、棘床、落とし穴に翻弄され、さらには意識を失い、知らぬ間に仲間に攻撃し、意識が戻れば目の前には自分を斬ろうとする斬撃狂──。
クリスは、肉体も精神も、完全に限界を迎えていた。
「おいおい、大丈夫かよ。そんな調子なら、覚醒したままのほうがマシだったんじゃねぇのか?」
ムサシがまるで何もかも忘れたかのように無神経なことを言う。
もはやツッコむ気にもなれないアリシアは、静かに天を仰ぎ祈った。
(神様……私の大切な悩める僧侶クリスに、この男の脳筋のうち少しでいいから、分けてあげてください……)
──その時だった。
クリスが、まるでゾンビが実家に帰るかのような自然な動作で、そのままドブ沼に倒れ込み、沈んでいった。
「クリス!! 大変!!」
「なんだ? ザリガニでもいたか?」
慌てて駆け寄るアリシアの目の前で、沼が──輝き出した。
「な、なに!? なんなの!?」
「……いたのか!?」
沼に浸かっていたのは、ザリガニではなく、クリスだった。
その水面は光を放ち、やがて全体が穏やかな淡い輝きに包まれていく。
「……これは……?」
ダンジョンが、パーティを“真の探索者”と認めたときだけ現れる、特別なご褒美──
それが、この体力・精神力を完全に回復する魔法の泉だった。
その出現条件は過酷で、
1.ダンジョン内の魔物をすべて倒す
2.すべての宝箱を開ける
3.すべてのトラップに引っかかる
という、まさに“やらかし切った”者にしか与えられない報酬。
さらに、泉の直前には“最後の試練”が仕込まれていた。
それは──「いかにも臭そうなドブ沼に飛び込む」という、常識と勇気とイカれ具合を試す究極の判断。
まったくの無自覚でこれを突破したのは、聖職者クリス。
そのゾンビ顔は、みるみるうちに元の凛々しく清潔感ある青年へと戻っていく。
「クリス! 顔色が良くなってない!?」
「そうですか? たしかに……疲れが癒えていくような感覚があります」
「私も入ってみよーっと!」
アリシアも泉に身を沈めると、思わず声を漏らす。
「すごい……! 疲れがどんどん取れていくわ! ムサシ、あなたも入りなさいよ!」
「あぁ。疲れが取れんのはいいことだな」
ムサシも珍しく素直に泉へと入った──が。
「……特になんも感じねぇけどな。気のせいなんじゃねぇか?」
「気のせいなわけないでしょ! 見なさいよ、クリスの顔!」
「まあ……たしかに、さっきまでとは別人だが……」
ムサシが不思議そうに首をかしげるが、そもそも彼はまったく体力を消耗していなかった。回復を感じないのも無理もない。
クリスが完全に復活し、元の優しげで知性を宿した瞳を取り戻すと、アリシアは微笑みながら言った。
「クリス、もう全快したみたいね! いつものクリスに戻ったもの!」
「ええ。ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
「鍛え方が足りねぇんだよ。明日から毎日筋トレな」
「はい、よろしくお願いいたします」
「真面目すぎるわよっ!」
アリシアが思わず吹き出し、笑い声が泉に広がった。
そして、三人は立ち上がる。
「さあ、そろそろ行くとしましょうか。──扉の向こうへ!」
「待ちくたびれたぜ」
ムサシは、悪そうな笑みを浮かべながら扉を見つめていた。




