第百十四話 風呂の間に
マリアン居候から数日が経った、ある夜のこと。
「ねぇ、イヴリン。私がここに来てから、ずっと一緒にいてくれてるじゃない?……本当にありがとう。でも、たまにはモーゼフのところにも行ってあげて。私が来る前は、ずっとふたりで過ごしてたんでしょ? きっと、寂しいわよ。お父さんを亡くしたばかりで、ただでさえ辛いんだもの……」
マリアンは湯浴み支度をしながら、優しく微笑んだ。
イヴリンは、少し戸惑いながらも応える。
「……でも、私はあなたが心配で。だから、ここに来てもらったのに……」
「もう、ほんっとに優しいんだから! じゃあ、こうしよ。私がお風呂に入ってる間だけ、モーゼフのところ行ってきて。私が戻ってきたら、また一緒にいればいいじゃない!」
「……わかった」
「うん、決まり! じゃ、行ってくるねー!」
マリアンが風呂場へと向かうのを見送ると、イヴリンはそっと立ち上がり、モーゼフの部屋の前に立った。
コンコンッ
「モーゼフ、入るよ?」
返事を待たずに扉を開けると、部屋の奥では、モーゼフが机に向かい、静かに本を読んでいた。顔を上げた彼は、優しい眼差しを向ける。
「イヴリン……どうしたの?」
「マリアンが……“一人じゃ寂しいだろうから、行ってあげて”って。お風呂の間だけ、って」
「そっか。……本当に優しいね、マリアンは」
「……うん。でも……私も、会いたかったし」
その言葉に、モーゼフの表情がふっと赤らむ。
「……そっか。それは、嬉しいな」
ほんの数日ぶりの“ふたりきり”という状況。それなのに、まるで何ヶ月ぶりに再会したかのような、奇妙な緊張と温かさが、イヴリンの胸を満たしていた。
(……この人が、私のすべてを変えてくれた)
あの魔王城で──大魔王の娘である自分を庇うために仲間達を裏切った、理解不能な命の恩人。
その存在のありがたさと愛おしさが、急激にこみ上げてきた。
モーゼフがいなければ、こうして“恩人へ感謝する”ことも、“友を大切に思う”ことも、知らずに死んでいた。
気づけば、イヴリンはモーゼフを抱きしめていた。
「……モーゼフ……モーゼフ………」
モーゼフもまた、静かに彼女の背に腕を回し、抱き返す。
そして──
イヴリンの唇は、見たことも、教わったこともない動きで、導かれるように、モーゼフの唇へと吸い寄せられていった。
それはモーゼフにとっても、二十八年の生涯で初めての口付けだった。
ドクン、ドクン、ドクン……。
鼓動の響きが、ふたりの耳に重なって伝わってくる。
やがて、唇は再び合わさる。
抱擁はより強くなり、キスは深まっていく。
「……モーゼフ………マリアンのノックが聞こえるまで……ずっとしてたい……」
「……僕も、同じことを考えていたよ、イヴリン……」
しばし、時を忘れるほどの愛のひとときが続いた。
──コンコンコンッ
突然のノックに、ふたりは慌てて身体を離す。
「イヴリン、お風呂上がったから、一応伝えておくねー! ゆっくりしてていいからねー!」
廊下の向こうから、マリアンの快活な声が響いた。
「いや、すぐ行くよ!」
イヴリンは乱れかけた服を整えながら、モーゼフの頬にもう一度、そっと口付ける。
「……おやすみなさい、モーゼフ。また、明日ね」
「うん……おやすみ、イヴリン。また、明日」
そして──
廊下では、鼻歌を口ずさみながら歩くマリアンの姿があった。
人生経験豊富で、人の心に敏い彼女には、ふたりの“変化”などとうにお見通しだった。
(ふふっ……二人に子供ができたら……この子にとっても、最高よね!)
妄想はすでに数年先へ。
心がほんのりと温かくなる夜が、静かに更けていった。




