第百十話 マリアン
——アリエヘン王国、城下町。
セレクト下着ショップ「マリー・アントワ」——その扉を、イヴリンがそっと開ける。
カランコロンッ……
と、小さな鐘の音が響いた。
店内は温かみのある木目調の棚と、ふわりと漂う花の香りに包まれている。
色とりどりの下着が美しく陳列されており、そこには”日常”と”夢”が混ざり合う、優しい空間が広がっていた。
イヴリンは、まるで夢の中に迷い込んだかのように、キラキラとした目で店内を見渡す。
「……凄い……」
その声に重なるように、明るく溌剌とした声が店内に響いた。
「いらっしゃいませ!」
声の方へと振り向いたイヴリンの視線の先には、
明るく活発な雰囲気をまとった、一人の女性が立っていた。
腰まで届くブロンドの髪を片側に編み込み、エメラルド色のワンピースを着こなしている。
お腹はふっくらと膨らみ、妊婦であることが一目でわかる。
その立ち姿には、生命を育む母としての優しさと、商人としての快活さが同居していた。
彼女こそ、勇者デイビッドの妻──マリアンである。
「ごゆっくりご覧くださいませ!」
その声に、イヴリンは思わず彼女の顔をじっと見つめていた。
(この人が……勇者の奥さん……)
マリアンは、その視線にただならぬ気配を感じ、そっと距離を詰める。
「……何か、お探しですか?」
イヴリンは真っ直ぐマリアンの目を見据えた。
「……下着を探しに来たの」
その真顔と、当たり前すぎる返答の落差に、マリアンの背筋がぞわりと震えた。
「そ、そうですよね! 失礼いたしましたっ!何かございましたら、お気軽にお声がけくださいませ!」
そう言って笑うマリアンに、イヴリンは小さく頷き、ゆっくりと店内を歩き始めた。
ずらりと並ぶ千差万別の下着の中で、イヴリンが立ち止まるのは、必ず"白い"下着の前だった。
その中でも、花柄、動物柄、ハート柄といった、謂わゆる“可愛い”デザインの下着を、まるで宝石でも見るように、眼を輝かせて見つめていた。
その様子をそっと見守っていたマリアンが、柔らかく声をかけた。
「白の可愛い系のもの、お探しなんですね」
「……うん……」
イヴリンは、少しだけ頬を染めながら返した。
「白って、いいですよね。私も好きです」
──"好き"
その言葉に、イヴリンの表情がふと変わる。
マリアンを見つめながら、ゆっくりと尋ねる。
「ねえ。あなたも……下着が、好きなの?」
それは、純粋すぎる問いだった。
しかし、自分と同じ感覚を持つ存在などこの世界にいないと思っていたイヴリンにとって、それは新たな世界への扉だった。
マリアンは、今まで数えきれないほどの客と接してきたが、こんなにも素朴な質問を、こんなにも真顔でぶつけられたのは、初めてだった。
そして——こんなにも心が揺さぶられたのも、初めてだった。
「もちろんです!! だからこの店を始めたんですから!!」
「……そっか」
イヴリンは、驚きながら、どこか嬉しそうに、静かに呟いた。
マリアンは、仕事など関係なしに、この黒髪の少女ともっと深く関わりたいと思い始めた。
この少女の下着への想いには、何かただならぬものがあるに違いないと感じずにはいられなかった。
そんな思いを胸に抱きながら、マリアンは会計を終えたイヴリンに声をかけた。
「ありがとうございます!!あの……お客様は、アリエヘンの方ですか?」
「……違うよ。でも、しばらくはここに住むと思う」
「でしたら、またぜひお越しください!何も買わなくてもいいので!」
「……えっ、いいの?」
「はいっ!」
マリアンの満面の笑みに、イヴリンはきょとんとしながらも尋ねた。
「……でも、どうして?」
「えっと……下着について、語り合いたいからです!」
ド直球なその言葉は、イヴリンの心を深く貫いた。
「……語り、合う……それは、あなたにとって、どういう意味があるの?」
「えっ!? ええっと……楽しそうだから。あははっ」
マリアンが照れくさそうに笑って言ったその一言は、イヴリンにとってあまりにも衝撃的だった。
自分の好きなことについて、他者と語りたい。
なぜか?
楽しそうだから。
この論理そのものが、イヴリンの世界には存在しなかった。
生き延びること。力を持つこと。
それがすべてだった。
彼女の中の"殻"には、また一つ大きなヒビが入ったようだった。
イヴリンは、頬を赤らめながら微笑する。
「……確かに、楽しそう」
その一言に、マリアンの笑顔がぱあっと花開いた。
その笑顔は、二十年後の娘のそれと同じく、太陽のように眩しかった。




