第百九話 謁見
アムランの部屋。
そこは今、静寂に包まれていた。
モーゼフは椅子に座り、棚に飾られたアムランの写真をじっと見つめている。
その横で、同じく椅子に腰掛けるイヴリンが、黙って彼を見つめていた。
「ねえ、モーゼフ。下着を買いに行きたいの」
唐突に響いたその言葉に、モーゼフはビクリと肩を震わせた。
「きょ、今日じゃないと、まずいのか……?」
「だって、昨日と同じの履いてるんだよ?今日は違うの履きたい」
「それは……そうか……」
モーゼフは、これは清潔に関する話だと思い、納得する。
しかし、イヴリンが毎日違う下着を履きたいのは、どちらかというと——快楽に関する問題だった。
魔王城での退屈な暮らしの中、彼女にとって唯一の楽しみは、下着だった。
イヴリンが下着を身につけるのは、根本的には、身につけないと恥ずかしいからだった。
この感覚を持つ魔物は、人間の血が混じっているイヴリンだけだった。
つまり、人間同様、イヴリンにとっても、下着は生活必需品であった。
だがその必需品は、いざ仕入れに行くと、多種多様な色、形、模様があった。
そのため、"その中からどれかを選ぶ"という過程が、必然的に生じた。
そして、”選択”という過程は、イヴリンの人生において、ここにしか生じなかった。
この必要に迫られた選択こそが——
“快楽”の母なのであった。
(でも……下着を買いに行くということは……)
モーゼフの脳裏に、ある女性の顔が浮かぶ。
(……彼女の店に行くことになる。僕には彼女に会いに行く責任がある。デイビッド様の死を……伝えなければならない……。でも、そんな場所へ、大魔王の娘を連れて行けるわけがない。別々に行かなければ……)
一人で悩むモーゼフを、イヴリンがじっと見つめた。
「モーゼフ、何か考えているなら、言葉で言って。私、わからないから」
真っ直ぐな瞳。
その直球な言葉が、モーゼフの胸に静かに突き刺さる。
「……そうだね。ごめん。実は、下着のお店は、デイビッド様の……勇者の奥さんのお店なんだ」
「奥さん?」
「うん。奥さんっていうのは、一人の男性にとって、一番大切な女性のことを言うんだ」
「男が……一番"愛する"女」
「うん。そして、デイビッド様は……僕にとっても、大切な仲間だった。
だから僕は、彼の奥さんであるマリアンさんに、デイビッド様が亡くなったことを伝えなければならない。大魔王を封印したことで……とね」
「……そうなんだ。一番愛する人が死んだって聞いたら、悲しむよね。娘の私のことも、許さないだろうね。モーゼフの仲間たちみたいに。……うーん……」
しばし沈黙したあと、イヴリンはぽんと膝を叩いた。
「じゃあ一人で行くから、お店の場所教えてよ。あと、お金ちょうだい。ここから出入りするのは、誰にも見つからないようにするから、安心して」
モーゼフは驚きつつも、どこか感心したように微笑んだ。
彼女の判断は的確で、そして——
誰かの心を思いやるという視点を持っていた。
「わかった。街への道は、この教会から北に向かって石段を下りると、商店街に出る。右手にアーチ状の門があって、その奥の一番奥の店が、マリアンさんの店だ。店の看板は……『マリー・アントワ』。すぐわかるよ」
モーゼフは財布からを銀貨と金貨をいくらか取り出し、小さな袋に入れて渡した。
「ありがとう。行ってくるね」
「うん。気をつけて。僕はこれから城に行って、国王様に謁見してくる。じゃあ、また後でね」
「うん。また後で」
イヴリンは手を振ると、裏口から姿を消した。
その一言一句、身振りのすべてが、モーゼフの心に言い知れぬ喜びを残していった。
*
——アリエヘン城 玉座の間
豪奢な天井と重厚な赤絨毯が敷かれたその場所で、王は玉座に腰掛けていた。
整えられた髭と、端整な鎧に身を包んだその男——
三十半ばとは思えない威厳をまといながら、静かにモーゼフの報告に耳を傾けていた。
「……そうか。長く険しい旅、ご苦労であった」
王はモーゼフに深く頷き、語りかける。
「討伐こそ果たせなかったが、二十年の封印というのは、人類にとって多大なる利益である。勇者デイビッドが命を賭してもたらしたこの二十年……一日たりとも無駄にしてはならぬ!」
その声が玉座の間に響き渡る。
続いて、王は少し柔らかく微笑み、もう一度モーゼフを見つめた。
「……しかし、今はゆっくり休むと良い。アムランのことも、誠に残念であった。僧侶モーゼフよ……世界のために、よくぞ今日まで戦ってくれた!!……皆の者!!」
「はっ!!」
玉座の間に居並ぶ騎士や従者たちが、一斉に敬礼を捧げた。
「僧侶モーゼフ、そして亡き勇者デイビッドに──忠臣からの敬礼を!!」
一糸乱れぬ敬礼の中、モーゼフの目には涙が浮かぶ。
彼は静かに頭を下げ、その敬意に応えた。
そのとき、側近の一人がそっと紙袋を差し出す。
「……?」
「そなたが旅に出ている間に完成した、『アリエヘン煎餅』だ。持ち帰るが良い」
王はどこか誇らしげに言った。
「……ありがき幸せ……」
(……煎餅……)
モーゼフはそっと紙袋を抱きしめる。
こうして、煎餅の入った手提げを手に、モーゼフはアリエヘン城を後にした。
次なる行き先は——
亡き勇者デイビッドの妻の店である。




