第百八話 父の部屋
──翌朝。
淡い朝日が窓から差し込み、モーゼフは静かに目を覚ました。
「……あ、目が開いた! これが、“起きる”ってやつ?」
イヴリンが、ベッドの脇で正座のような格好でこちらを見ている。
一瞬驚いたモーゼフは、すぐに微笑みを返した。
「そうだよ。これが“起きる”ってこと。……そして、起きたらこう言うんだ。 おはよう、イヴリン」
「おは……よう……?」
口の形を確かめるように繰り返すイヴリンに、モーゼフはふっと微笑む。
「僕が寝ている間、何をしていたの?」
「星を見てた」
「……そうか。星、好きなんだ?」
「うん。……綺麗だよね、星って。ずっと、見ていられる」
朝日に照らされたイヴリンの微笑みは、どこか神聖なものに見えた。
(美しいものを、美しいと思えるのか……彼女は)
その時、イヴリンがぽつりと続けた。
「でも、モーゼフの寝てる顔も、ずっと見てられそうだった。でも、起きてくれて、良かった。死んでなかったから」
その淡々とした言葉に、モーゼフの心臓がドクンと鳴る。
「……僕が死ぬのは、嫌なの?」
「うん」
「……どうして?」
「モーゼフ、面白いから」
モーゼフは、クスッと笑った。
「そうか。それは良かった」
そして、ベッドから身を起こしながら言った。
「さて……父さんに挨拶しに行かなくちゃ。心臓が悪いから、びっくりさせすぎないようにしないとね。イヴリン、ここで待っていてくれ」
「うん。待ってる」
モーゼフは、生まれて初めて“女の子のいる自分の部屋”を後にした。
そして、不思議なことに、その扉をまた開ければ“彼女がいる”という事実に、小さな喜びを感じていた。
教会の廊下を抜け、モーゼフは父の部屋の前に立つ。
「……お父さん、モーゼフです。昨夜、帰ってきました。失礼します」
ノックに返事はなかった。
扉をゆっくりと開ける。
そこには──旅立つ前と変わらぬ、几帳面に整えられた空間があった。
ただ、一つだけ違うものがあった。
──奥の棚の上に飾られた、額縁に収められた父・アムランの写真。
ドクン…ドクン…ドクン…
胸騒ぎが走る。
モーゼフはそのまま裏口へと駆け出し、階段を駆け下り、街へと向かった。
*
坂を駆け降りるモーゼフに、通りすがりの男が気づく。
「モーゼフ!? おい、モーゼフだろ!? 帰ったのか!!」
「……はぁ……マイクさん……お久しぶりです……!あの、父を見かけませんでしたか……!?」
マイクの表情が一瞬で曇る。
「……モーゼフ……いいか……辛い話だ。………アムラン様は、三ヶ月ほど前に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となったんだ」
ドクン…ドクン…ドクン…
「………?」
「教会での講話中に……心臓だった。苦しまずに逝かれたそうだ……」
周囲の音が、遠ざかっていく。
マイクの声だけが、水の中から響くように──ぼんやりと、くぐもって聞こえた。
モーゼフの中で、何かが崩れ落ちた。
──父アムランは、心臓が弱かった。
だから最初は、デイビッドの誘いを断ろうとした。
しかし父は、それを許さなかった。
「信仰の力を、世界のために使え。それが神の御心だ」
そう言って。
「……そんな……やっぱり……僕の、せいだ……全て……僕の……
うああああああっ!!!」
モーゼフは悲痛な叫びをあげながら、教会へと引き返した。
マイクは、その背をただ黙って見送った。
*
アムランの部屋に戻ったモーゼフは、額縁を持って膝をつき、泣き崩れる。
「……お父さん……すみません……すみませんっ……!!うぅっ……っ!!!」
そのとき、背後から足音が。
「……モーゼフ……?どうしたの……?」
イヴリンだった。
振り返るモーゼフ。
そして次の瞬間、本能のままにイヴリンへと縋りついた。
「……イヴリン……父さんが……死んでしまったよ……っ……」
イヴリンは、驚いたように目を丸くしながら、無意識のまま、モーゼフの頭に手を添え、優しく撫でた。
そして、ぽつりと訊ねた。
「……モーゼフ……これは……あなたの父への、”愛”?」
その言葉に、モーゼフの脳裏にイヴリンの過去の言葉がよぎる。
ーーー
「……父、封印されたんだね」
「……どうせなら殺してくれればよかったのに、あんな父」
「……憎いのは……たぶん、父だけ」
ーーー
イヴリンには、“父を愛する”という感覚がわからないのだ。
モーゼフは、悲嘆に暮れながらも、父を失って泣ける自分の姿こそが、どれだけ“恵まれていた”かを思い知る。
「……うん……この涙は、父さんへの愛……そして、父さんからの愛だ……」
「……そっか。良かったね、モーゼフ」
イヴリンの言葉に、モーゼフはこらえきれず立ち上がり、彼女をそっと抱きしめた。
「……モーゼフ……これ、は……?」
「……わからない……でも、こうしたいって思ったんだ。ありがとう、イヴリン……」
「……ありが、とう……?」
生まれて初めて受けたその言葉。
それは、イヴリンの中の"殻"に、確かに──深く、静かなヒビを入れた。




