第百七話 愛
モーゼフとイヴリンがアリエヘンの街に着いたのは、結局、夜も深まった頃だった。
人通りのない静かな城門を抜け、ふたりは雨に濡れた石畳の上を歩く。
街は静まり返っていた。
家々の灯りも落ち、聞こえるのは雨音と、二人の足音だけ。
「……帰ってきた……」
旅立ちの日に思い描いた、デイビッドと並んで凱旋するという目標は、実現されなかった。
勇者の代わりに大魔王の娘と並んで門を潜るなど、想像できるはずも、して良いはずもなかった。
これから、教会で自分の帰りを待つ父には、イヴリンのことを誤魔化すことなく話さなければならない。
国王に、討伐失敗の報告をしなければならない。
そして何より——
デイビッドの妻であるマリアンに、彼の死を告げなければならない。
苦悩は、尽きなかった。
「ふーん。ここなんだね」
と、イヴリンが興味深げに辺りを見回す。
「……あそこの高台にある教会の二階が、僕の住まいだ。行こう」
ふたりは人気のない路地を抜け、教会の裏手へと回りこむ。
階段をのぼり、二階の裏口をそっと開けると、教会の中は静寂に包まれていた。
明かりの落ちた廊下を、足音を忍ばせながら進む。
「たぶん父はもう寝ている。僕の部屋はあっちだ。……行こう」
突き当たりの扉を開け、モーゼフがランプに火を灯すと、
狭いながらも清潔な部屋がふたりを迎え入れた。
「……何も変わらないな。当たり前だけど」
久方ぶりの自分の部屋に足を踏み入れると、苦悩に悶える彼の口からも、微かに安堵の息が漏れた。
「モーゼフの部屋……せまいね」
と、イヴリンが素直な感想を口にした。
「ふふっ、そうだね。でも、僕にはこれで十分なんだ」
「ふーん」
イヴリンは興味ありげに室内を見渡す。
「今日はベッドで休んで。僕は床で寝るから」
「……寝る? なにそれ?」
「え?……君、寝ないの?」
「……たぶん、"寝る"ということをしたことはないと思う」
魔物は、生きるのに睡眠を必要としなかった。
イヴリンも、その特性を受け継いでいたのだった。
「そ、そうなんだね……。寝るっていうのは……横になって、目を閉じて意識を休めること……とでも、言えば良いかな」
「……死ぬのとは違うの?」
「うん。違うよ。寝るのは死ぬのと違って、朝になるとまた目が覚める。それを毎日しないと、人間はちゃんと生きていけないんだ」
「不便だね、人間って」
「そうだね。不便で、不合理で、不完全。……でも、それが人間さ」
モーゼフはどこか楽しげに微笑む。
「魔物になりたいと思ったことはないの?」
「うん。思わないかな」
「……人間でよかった?」
「……うん」
「どうして?」
モーゼフは少しだけ考えてから、ぽつりと答える。
「大切な人が、たくさんできたからかな。神様のおかげで」
「神様……?」
モーゼフは、やわらかく微笑んだ。
「僕たち人間に、“愛”というものを与えてくれる存在を、そう呼ぶんだ」
「……愛……それって、どんなもの?」
「……自分以外の人を……いや、人じゃなくてもいい。 とにかく"自分以外の何かを、自分のように、あるいは自分よりも大切に思える心"。それが愛だよ」
イヴリンはその言葉を、しばらく胸の中で転がすように黙っていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……そうなんだ……それは、すごいね」
その声には、驚きだけではなく、どこか憧れるような響きがあった。
モーゼフは、それに気づいた。
「……イヴリン。君の中にも、きっとあるよ」
「私の中に……愛が?」
「うん。きっとね」
モーゼフは、イヴリンに向かって、もう一度、
あたたかな笑みを浮かべてそう言った。
──夜が深まるにつれ、雨は止んでいった。




