第百六話 雨の夜の森
──アリエヘン王国の西方。
そこは二十年後、勇者アリシアと僧侶クリスが冒険の第一歩を踏み出した、あの森であった。
雨降る夜の中、森の一角に突如として光が走り──
モーゼフとイヴリンの姿が現れた。
「……本当に、ワープした……」
周囲を見回しながら、モーゼフが驚き混じりに呟く。
「突然四魔王が現れて襲われることとか、あったでしょ?偵察用の魔物を使ってあなた達の居場所を把握して、こうやってワープしてたのよ」
イヴリンは、まるで他人事のように淡々と語る。
「……そういうこと、だったのか……」
モーゼフは静かに頷いた。
そして、おもむろにイヴリンを見つめて問う。
「………君は、僕を殺さないのかい?」
「……え?」
「僕は僧侶だ。戦闘では、仲間を支えるための存在。一人では何もできない。君なら、殺せると思ったから」
イヴリンはほんの少し、困ったような顔を見せる。
「……殺してほしいの?」
そのあまりに無垢な問いに、モーゼフは一瞬、息を飲む。
「………君は、殺したくないのかい? 他の魔物たちのように、人間のことを」
「うん。殺したいとは……特に思わないかな」
その目には、何の嘘もなかった。
「……勇者の仲間である、僕のことさえ?」
「別に、勇者は憎くないよ。憎いのは……たぶん、父だけ」
雨音がふたりの間に流れ込む。
「……君は、不思議な人だな」
その一言に、イヴリンの胸の奥で、何かがふっと灯る。
“人”と呼ばれたこと──
それは、彼女にとって生まれて初めての経験だった。
「あなたに言われたくないよ。本当に……頭のおかしな僧侶」
そう言った時のイヴリンの、ほんの微かな口元の緩みを見た瞬間、モーゼフの中に芽生えた何か──
それは理性に罪悪感を与え、魂に喜びをもたらす……混沌だった。
「……君の名前は?」
「イヴリン」
「……僕は、モーゼフだ」
「うん、知ってる。あなたたち、城では有名だったから」
その言葉に、モーゼフの脳裏にかつての旅の記憶がよみがえる。
共に笑い、共に泣き、時にぶつかり合いながら、絆を深めていった仲間達。
デイビッドの勇気と明るさ。
モルガンの知性と情熱。
コジーロの剣と酒癖。
その全てが——もう過去のものとなった。
モーゼフの瞳から、静かに涙がこぼれ落ちた。
それは悔恨ではない。
裏切ってしまった仲間への、真っ直ぐな申し訳なさ。
そして、もう彼らはここにはおらず、もう二度と会うこともないという現実への、どうしようもない寂しさだった。
(……泣いてる……)
他人が目から水を流すという行為に対し、どう振る舞えばいいのか、イヴリンにはまだその感覚がなかった。
だから彼女は、ただ黙って、彼を見つめていた。
やがてモーゼフは涙を拭い、言った。
「……君のことは、うちで匿う」
「……閉じ込めるってこと?」
「そのツノがある限り、君を外に出すわけにはいかない。誰にも見られないように、深夜に行こう」
「ツノなら、消せるよ。ほら」
イヴリンが言うと、頭の小さなツノが、すっと消える。
「え……!?」
「変身魔法。ツノだけなら、ほとんど魔力を使わないから。家で隠れてる時以外は、使いっぱなしで問題ないの」
「そ、それはすごいな……。でも、その力を悪用したりは……?」
モーゼフが問うと、イヴリンは急にスカートをめくり上げて言った。
「……これを人間の街に買いに行く時だけ、使ってた」
小さな動物達が描かれた、白の"あれ"が顕になった。
「な、何をしてるんだっ!!お、おろしてくれ!!」
顔を真っ赤にして叫ぶモーゼフに、イヴリンは小首をかしげる。
「どうしたの? そんなに慌てて……?」
(……下着を見られて恥ずかしいという感覚もないのか……)
「い、いや……別に、なんでもない……」
イヴリンはクスッと笑った。
「やっぱり変な人間なんだね、モーゼフは」
(いや……人間の男なら、みんな同じ反応をするはずだ……これは、仕方ないのだ……)
そう心の中で自己弁解をしていると──
「あ。あとね、これを買うために──」
イヴリンは地面に落ちていた小石を拾い、手の中でそれをコロリと転がす。
瞬間、石が銀貨へと変わった。
「こうやって、小さなものを人間のお金に変えてたの」
「それは立派な悪用です!!今後は許さないからね!!」
「そうなんだ……わかった。じゃあ、モーゼフが買って。これ以外、全部城に置いてきちゃったから。」
モーゼフはまたしても顔を赤くし、ぷいっと顔を背けた。
「……と、とにかく、行くよ!!」
そしてふたりは──
雨の止まぬ森を、アリエヘンの方角へと歩み始めた。




