第百五話 殻
──空から海へと落ちゆく魔王城。
その崩壊の只中から、一隻の方舟が宙を駆け、飛び去っていった。
方舟の中では、モルガンとコジーロが、すべてを飲み込んだ上で──
今この瞬間、共に生きて帰れることへの、抗うことのできない喜びを噛みしめていた。
二人はただ、互いの存在を確かめ合うように、涙を流しながら、静かに抱き合っていた。
*
——玉座の間。
イヴリンは、目の前の男を驚きの眼差しで見つめていた。
命を賭して共に大魔王と戦った仲間たちを裏切り、
その大魔王の娘である自分を──命を賭けて庇った、この白髪の僧侶。
その行動には、理解不能な狂気と、抗いがたい吸引力があった。
今まで感じたことのなかった何かが、心の奥底で震えていた。
イヴリン──
大魔王ジャダムにとって、それはただの「失敗作」だった。
娘であるかどうかなど、どうでもよかった。
愛など欠片もない。そこにあるのは、関心の空白。
ゴミと同じ。いや、それ以下だった。
イヴリンの母は、人間だった。
それも、信仰と慈愛に満ちた、"聖女"と呼ばれる存在。
ジャダムは──
自分と真逆の存在と子を成すことで、"自分をも超える何かが生まれるのでは"と、ただの実験のつもりで彼女を攫い、犯した。
なぜなら──退屈だったから。
それが、大魔王ジャダムという存在だった。
聖女は、イヴリンを産むと同時に、命を落とした。
人間と魔物との間に生まれた命は──
その出産において、母の命を対価とするという摂理が、この世界には存在していた。
イヴリンは、期待された“怪物”ではなかった。
面白くもなく、特別でもなく、ただの“失敗”だった。
彼女を愛さなかったのは、父親だけではなかった。
あらゆる魔物が彼女を愛さなかった。
なぜなら──そもそも純粋な魔物は“愛”を持つことができない存在なのであった。
群れることはあっても、助け合うことはあっても──
それは、単なる生存本能にすぎなかった。
家族を慈しむことも、仲間を思うことも、恋をすることも、神に祈ることもない。
それが、人間と魔物との決定的な違いだった。
故に──
魔物の世界に生きてきたイヴリンは、愛を知らなかった。
愛されることも、与えることも、一度たりともなかった。
けれども──
彼女の中で、聖女から受け継いだ"愛"は、まだ完全に死んではいなかった。
というより、まだ産まれてさえいなかった。
殻の中で、眠ったままだった。
しかし、この目の前の男──
仲間を裏切り自分を守った、モーゼフという謎の男の存在によって、
愛が眠る殻に、微かな亀裂が走った。
——イヴリンは、小さく呟く。
「……まだ、出れる」
「……え?」
「……一緒に、来て」
そう言うと、イヴリンはモーゼフの手を握り、立ち上がった。
二人は玉座の間を出て、地下へと続く階段を駆け降りる。
石の階段を下り、薄暗い通路を進んでいくと──
やがて、広大な魔法陣が刻まれた大広間にたどり着く。
「この中に入って、行きたい場所を言えば、近くにワープできる」
「えっ!? そんなことが……」
「いいから、早く。時間がない」
「わ、わかりました……! ……アリエヘン王国、西の森へ!!」
モーゼフが叫ぶと、彼とイヴリンの身体が柔らかな光に包まれ、魔法陣の中心で消えた。
その直後──
魔王城は、海底へと沈んでいった。




