第一話 旅立ち
世界に再び暗黒の影が忍び寄る、そんなある朝──
ここはアリエヘン王国の城下町。
古い石畳の道に陽光が差し込み、白壁の家々と鐘楼が朝の光を浴びて静かに輝いていた。
街の外れにある、小さな孤児院の玄関先。
旅立ちの時を迎えた少女が、義母に別れを告げようとしていた。
「それじゃ、行くね!」
金色の髪をふわりと揺らし、少女──アリシアは明るく笑った。
白いブラウスに黄色のスカート、鮮やかな赤マントを羽織り、頭には白いカチューシャ、足元には柔らかな茶色のブーツ、腰には細身の剣を携えている。
その姿は、朝の陽光に映えて凛とした輝きを放っていた。
義母テレサはふくよかな体を揺らし、手で目頭を押さえた。丸みを帯びた頬に涙が伝い、ぽってりとした腕でエプロンの端をぎゅっと握りしめていた。
「とうとうこの日が来てしまったんだね、アリシア……」
「泣かないでよ、お母さん。ちゃんと帰ってくるから! 大魔王を倒したら、孤児院の手伝いだってするんだから、楽しみに待ってて!」
アリシアはぐっと拳を握りしめ、笑顔のまま背を向けた。
テレサは、娘の旅立ちを、ただ静かに、涙ながらに見送った。
*
──勇者アリシア。
それは約二十年前、勇者デイビッドと、セレクト下着ショップの店主マリアンとの間に生を受けた、選ばれし少女。
彼女がこの世に生まれた瞬間、産声とともにまばゆい光が天に放たれた。
それは、真なる勇者の証──だが、その奇跡を、父デイビッドが見ることはなかった。
彼は、死闘の末に命を捧げ、大魔王の封印を成し遂げたのだった。
そして、母マリアンもまた、アリシアが一歳になる前に、病に倒れこの世を去った。
──それから二十年。
北方の海底に沈む魔王城から禍々しい黒き閃光が天に放たれ、魔王城は再び上空へと浮かび上がった。
恐れていた大魔王の復活が現実となったことを、人々は知った。
だが、大丈夫。
この世界には、もう立ち上がっている者がいる。
今日こそが、新たなる勇者アリシアの旅立ちの日である!
父から受け継いだ勇者の血。母から授かった下着へのこだわり。
そんな彼女は、旅立ちにふさわしい純白の下着を身に着け、(もちろん、誰にも見せるつもりはないけれど!)意気揚々と城へと向かった。
城では、国王からありがたいのかよく分からない祝辞と、勇者への贈り物とは思えない実用品(タオル、煎餅など)を拝領し、
気を取り直して城下町へと戻る。
町の人々は、皆こぞって外に出て、勇者の晴れ姿を一目見ようと待ち構えていた。
*
一方その頃、町外れの高台にある教会では、若き僧侶がひとり、勇者の旅立ちを祈っていた。
神に捧げる真摯な祈りに身を委ねるその僧侶の名はーークリス。
雪のように白い髪が、教会の淡い光を受けて、柔らかく輝いている。
黒の僧衣を身にまとい、胸元には十字架のペンダントが揺れていた。
その清廉な姿は、まるで神の使徒のようだった。
父であり師であるモーゼフは、そんな息子に声をかける。
「見に行かなくて良いのか?」
威厳を漂わせる黒衣をまとい、白銀の短髪と深い皺の刻まれた目元が、僧侶としての厳格さと父親としての優しさを同時に滲ませていた。
クリスは、祈りを中断することなく答えた。
「今日ほど、神に祈るべき日はありませんよ、お父さん。」
モーゼフは小さく笑みを浮かべ、「そうか」とだけ言った。
そのとき──
教会の扉が、音を立てて開いた。
いったい誰が?
モーゼフとクリスが顔を上げると、そこには。
「おはよう、クリス!」
まさかの勇者本人、アリシアの姿があった。
「アリシア様……!?」
クリスは目を丸くする。
「貴方に、一緒に来てほしいの。」
「ええっ!?」
目をぱちくりさせるクリスに、アリシアは真剣な眼差しを向ける。
「長く、険しい旅になるのは分かってる。だからこそ、優秀な僧侶であり、誰よりも信頼できる貴方の力を貸して欲しいの。」
クリスは、驚きと戸惑いを抱えたまま、思わず父モーゼフに視線を向ける。
モーゼフは、そんな息子ににっこりと微笑みかけた。
「行ってこい、クリス。」
「でも……父さん、教会は……!」
「これこそ、神の御心だ。心配するな。教会なら、まだまだこの身体が守ってみせる。」
「モーゼフ様……ありがとうございます!」
アリシアは深く頭を下げた。
クリスはしばし逡巡し、胸に手を当て、そっと瞼を閉じた。
(神よ……この身をもって、世界を守るお手伝いをさせてください)
静かに祈り、彼は顔を上げた。
「……分かりました。
長く険しい旅路、アリシア様のお供をさせていただきます。」
「やったぁ!」
アリシアはぱあっと顔を輝かせた。
クリスは急いで支度を整え、モーゼフに別れを告げる。
「行ってきます……父さん!」
「うむ。クリス。──神のご加護を。」
*
城下町の通りに出ると、待っていた人々から割れんばかりの大声援が上がった。
「アリシア様ー!!」
「クリスー!頼んだぞー!!」
たくさんの祝福の声を背に、勇者アリシアと僧侶クリスは、新たな旅立ちへと歩み出した。
*
少し離れた高台の上。
教会の裏手から、モーゼフは静かに、旅立つ息子の背中を見つめていた。
ハンカチでそっと目を拭い、彼は空に向かって微笑む。
「見ているか、イヴリン……
私たちのクリスが、今、旅立ったよ。
お前も、あの子を、見守ってやってくれ……」
晴れ渡る空には、
美しい三角形の白い雲が、ふわりと浮かんでいた。
まるで、これから始まる冒険を祝福するかのように。