第二十六話 消えた新妻
「――悔しい?」
凛とした鈴音のような声。聞き覚えのある声だ……。
――誰だっけ?
私は顔を上げて声の主を視界に入れると、目を疑った。
「――え?」
黒いローブを纏った少女――いや、そんなはずは……
目を擦り、目を凝らす。
顎の辺りで無造作に切り揃えられた銀髪に、左右異なる瞳色。嫌いだった幼い顔立ち。
そして、その胸には一匹の黒猫が抱かれている。
「あなたは……私?」
そう、私だ。そこに立っていたのは前世の、魔女だった頃の私だった。
魔女の私が口を開く。
「――本当に逃げていいの?好きな人から。 負けていいの?私に」
ヴィルドレット様の心の真実を知った事があまりに辛過ぎたのか。こんな幻を見るほどに私の心は悲鳴をあげているらしい。
「私に、負ける? 何言ってるの?あなたは私でしょ?私はヴィルドレット様の愛する人じゃないの。なれなかったの。負けたのよ、その人に。ヴィルドレット様にはその人しか見えていない。 多分、いや絶対に、誰もその人には勝てないよ」
「――――」
魔女の私は無表情のままで何も言わない。でも次の瞬間、胸に収まっていたクロはそこから飛び降りてスタスタと私のもとへと歩いて来る。
目の前で立ち止まり、私の顔をジーっと見つめるクロ。
――懐かしいなぁ。よくこうやって私の顔をじっと見つめてたっけ。
「……クロ。 久しぶり……元気に、してた?」
幻と分かりつつも涙が溢れ出る。
寂しくて辛かったあの時みたいに、クロの癒しに救われようと、手を伸ばした。
「――え?」
しかしクロは私の手を拒むように踵を返し、魔女の私の方へと帰って行く。
クロの歩く先に立つ黒いローブの少女――その光景を眺めながら私の胸の奥はギュッと締め付けられる。
かつての私にはクロしか居なかった。私の心を支える唯一の存在だった。そしてクロもまた、私しか居なかったはず。それなのに……
「――クロ!!」
私はクロを呼んだ。けれど私の方を振り返る事は無く、クロは迎えるように手を広げた魔女の私の胸に飛び乗った。
そして、魔女の私は踵を返して暗がりの奥へと消えていった。
「…………っ」
何とも言い難い敗北感と喪失感に私の心は絶望感に打ちひしがれる。
人間に生まれ変わってからあの頃のような孤独感は味わっていないし、事実、今世の私は孤独では無い。
家族や友人に囲まれた今の私はあの頃の私から見てまさに理想の人生を歩んでいると言えるだろう。でも、
あれほど嫌だった孤独が、寂しくて辛かった日々が何故が尊く思えてくる。
幻のクロと再会してクロが私の心の支えの全てだった事を思い出して更に涙が止めどなく溢れ出る。
あの頃が懐かしくて尊い。
あの頃、私がどれほどクロに救われていたのかを今改めて思い知る。
せっかく手に入れた今世の人生。 私は一体何をしようとしてるの?
◎
ハンナの後を追って食堂を飛び出した俺は人混みの中にハンナの姿を探す。
まだ近くにいるはずだ。
着ていた服装に似た女性一人一人に目を凝らし、違うと思ったら次へ次へと視線を移していく。
「ハンナ!!」
堪らず声に出してハンナを呼ぶが、行き交う人々がもの珍しそうな表情でこちらを向くだけでその中にハンナの顔は無い。
――いない。
目で探すのを諦めて俺は駆け出した。
日が傾きだし、青かった空はオレンジ色に染まろうとしていた。
「はぁ……はぁ……」
行き交う人混みの中を一人、俺は手を膝につき息を切らす。
俺は決して小さくないこの街の全てを巡りながら、必死にハンナの姿を探した。しかし今だに見つけ出せずにいる。
「――っ」
息を整え、再び駆け出そうと――
「お坊ちゃま!!」
後ろからルイスの声に呼び止められた。
「いくら待てど一向に戻って来る気配がありませんでしたので――」
ルイスは違和感に気づいたようで、辺りに視線を巡らせ、再び口を開いた。
「ハンナお嬢様は?」
◎
コッコッコと人差し指でテーブルを叩く音が大広間に響く。苛立ちを全面に出した父が口を開いた。
「して、ハンナは何故お前のもとを去るに至った?」
「…………」
言葉に詰まらせる俺に父は続ける。
「ハンナは帰ってくるんだろうな?」
「……いいえ。 おそらくは……」
「おそらくは――何だ?」
高圧的に続きを促す父に、
『……ごんなさい――』
俺はハンナの去り際の様子を思い出し、それに答える。
「おそらく、こちらへは戻らないものかと……」
ダンッ!!と、父がテーブルを叩いた。
「何故だ!? お前、ハンナに何をした? 何故このような事になった!?理由を言え!」
「…………」
何故?と聞かれても答えようが無い。
もし、答えるとするならば、それは俺の中での想い人、即ち魔女の存在をハンナに知られた為だ、と、答えるしかない。
しかし、そんな事を言ってしまえば俺は全てを打ち明けなければならなくなる。
俺の前世が魔女の飼い猫だった事。魔女に恋心を抱いていた事。そして、その恋心を今もまだ持ち続けている事を。
そんな事を言えるはずもない。だから俺は口をつぐむしかできない。
――ダンッ!!
「……何故かと、聞いている。 言え」
父の苛立ちは頂点に達し、それが表情に見て取れる。次で言わなければおそらく殴り掛かってくるだろう。それほど高圧的で怒りを宿した目で俺を睨んでくる。
「…………」
それでも俺は吐くわけにはいかない。そもそもどう説明していいのか分からない俺は沈黙を守り続けた。
――ガタッ!
そんな俺に痺れを切らしたのか椅子に座っていた父がとうとう立ち上がった。 丁度その時だった。
「旦那様、お坊ちゃま――」
スカーレット家へ身を寄せたであろうハンナ自身へ向けた和解の親書と、スカーレット男爵卿へ心配と迷惑をかけてしまった事への謝罪、及び後日ハンナを迎えに伺いたい旨を綴った親書を届けに行っていたルイスが血相を変えて戻って来た。
「どうしたルイス、ハンナはやはりスカーレット家へ戻っていたか!?」
普段飄々として滅多に慌てる事のないルイスのただならぬ様子に父が恐る恐る問いかると、
「――――」
ルイスが首を横に振った。
「いいえ。 ハンナお嬢様はスカーレット家へは戻られておりませんでした」
「「何!?」」
既に夜は更けている。一体ハンナは何処へ……。
◎
ハンナが姿を消した翌日、突如王家から出された一報は衝撃的な内容だった。
《現代へ蘇りし『破滅の魔女』の公開処刑を明日、王城にて行う》




