第十話 団欒
太陽が落ち、夕焼け空に夜闇が掛かり始めた頃、ルイスさんが夕食時を知らせに来てくれた。
今が丁度その時間だったのか、それとも私達を呼びに来たついでだったのかは分からないが、ルイスさんは灰色の野良猫への餌やりを終えると、立ち上がり、こちらへ向けてニッコリと笑みを浮かべた。
「ところで御二方共。明日からは夫婦となるのです。仲は深まりましたかな?」
「…………」
ルイスさんの笑顔。しかし私の心とは裏腹にヴィルドレット様の表情は暗く感じた。
私は出掛かった笑顔を引っ込めた。
庭園散歩の時、決して多くはなかったけれどヴィルドレット様と幾つか言葉を交わせた事でほんの少しだけど心の距離が縮まった気がしていた。だから私はルイスさんの問い掛けに対して「はい!」と、笑顔で本当は答えたかった。
「……ぇ、えぇ……」
でも実際に私から出た返答は絞り出すかのようなか細い声と、俯いた様子だった。
その瞬間、ルイスさんの眉間には皺が寄って、こちらを見る視線が恐くなった。
「ハンナ嬢。 夕食の時間との事だ。屋敷へ戻ろう」
そんなルイスさんをよそに、平然とした様子でヴィルドレット様は私へ向けてエスコートの手を差し伸べてきた。
お義父様からの言いつけ「今日はハンナ嬢のエスコートに徹しろ」を粛々と遂行すべく、だろう。
「暗くなってきたから、足元には充分気をつけるんだ」
ルイスさんの恐い顔と、ヴィルドレット様の何食わぬ顔を交互に見て、あわあわしながら私はヴィルドレット様の手を取った。
「あ、あああ、ありがとうございます……」
ヴィルドレット様のエスコートに身を任せつつも、私の心は暗い。
これまでのヴィルドレット様から窺える様子を総評して、やっぱり、私に対する関心はほぼゼロなのだろうと思う。
仕方ないよね……何せ『政略結婚』だもん。ひいては、今日がヴィルドレット様にとっての初顔合わせ。
一目惚れでもされない限り、今すぐ恋情を持たれるなんてあり得ないし、私みたいな幼顔じゃ、一目惚れなんてもっとあり得ない。幾ら足掻いたところで今の私に出来る事など何も無い。
これ以上自分をより良く見せようなどと、張り切り過ぎても、無意味で疲れるだけ。
それに、幾ら猫を被ったところで、いずれきっとボロが出てくる。
そう思うと、肩に入っていた力がスッと抜け、気が楽になった。
でもその代わり、昔年の夢が叶うと思ってしまっていた私の心には大きな穴がポッカリと空いてしまっている。
◎
普段、お義父様とヴィルドレット様が揃って食事をする事は滅多に無く、一応食堂があるものの、それも使用人達にしか使われていないらしい。父と子、それぞれの執務室で簡単に済ませるのが常日頃の食事事情との事。しかし今日はその形を取らないらしい。
「旦那様はどうやらハンナ様をいたく気に入られたようで。昼食だけでなく、夕食にもご一緒されるとの事です」
「え、そうなんですか? 公爵様からそのように思われる事は大変光栄です」
お義父様から認められた事は素直に嬉しい。……私がヴィルドレット様から認められる日は――、愛される日は来るのだろうか?
ルイスさんの先導で連れて来られたのは大広間。大きな両開きの扉がルイスさんと侍女によって開かれると、最初に目に飛び込んできたのは光り輝くシャンデリア。その煌びやかな灯りで照らされた室内はまるで昼間のように明るい。そして、その灯りの真下では、シャンデリアの灯りを一身に浴び、美しく発色した赤髪が満面の笑みを浮かべていた。
「やぁ、2人共。 仲は深まったかい?」
しかし、その満面の笑顔もヴィルドレット様の無言の応対と、私の詰まらせ具合で……
「…………」
「……え、えぇ……」
お義父様のその穏やかな表情が険しい形相へと変化していく事を私は知っている。
くわっと、ヴィルドレット様を睨むお義父様へ、間髪いれずに割って入ったのはルイスさんだ。
「旦那様。 幾ら明日夫婦になるとはいえ、今日初めて会ったその日から仲睦まじくなる事は至難と言えるでしょう。ハンナ嬢からしましても大きなプレッシャーとなるのではないでしょうか」
ルイスさんの言葉にお義父様の険しい表情が崩れていく。
ふぅ、と一呼吸を挟んだ後に椅子の背にもたれ掛かると「そうだな」とルイスさんに同調した。
ルイスさんのフォローに助けられ、私はほっと胸を撫で下ろす。
「まぁいい。2人共早く座りなさい」
「はい」
ヴィルドレット様はまず私の椅子を引いてくれた。
「ありがとうございます」
私はヴィルドレット様へ軽く頭を下げ、腰を落とした。
そして、ヴィルドレット様は私の隣りの席に着き、正面には温和な表情のお義父様がいる。
先程のルイスさんとお義父様のやり取りからして、どうやらルイスさんは当主であるお義父様から絶大な信頼を得ているようだ。 多分、息子であるヴィルドレット様よりも。
たった一言で当主を宥めるルイスさんの凄味にほえ〜、と目を丸くしていると、ガラガラと音を立てて食事が乗せられた台車がやって来た。漂ってくる美味しそうな匂いは、私の落ちた気分を持ち直す良いきっかけになった。
――そうだ! いつまでも落ち込んでいたって仕方ない。
今は運ばれてくる夕食に心躍らせる事にしよう。
私は食べる事が好きだ。昼食がそうだったように夕食もかなり期待できる。
夕食は一体どんなだろう、とワクワクして待つ私の前を侍女達が手際よく準備していく。
食器から奏られるカチャカチャという音がなんとも心地が良い。
「わぁ、お肉!」
「ほう。ハンナ嬢は肉が好きなのか?」
思わず出た歓喜の声にお義父様が反応した。
「はい! 魚や野菜も好物ですが、やはりお肉が1番ですね! そして、デザートは別腹です!どんなにお腹一杯でも、甘い物なら幾らでも入る気がします」
「そうか、そうか! 我が家のシェフは腕が良いからな。きっとハンナ嬢の口にも合うはずだ」
お義父様の後ろで控えていたルイスさんが更に付け加える。
「今日の夕食は厳選した最高級素材を使用した、当家のシェフ渾身の料理となっております。もちろん、今日が特別です。そですよね?」
ルイスさんの隣りに立つ人がこの料理を作った『シェフ』なのだろう。ルイスさんに促され口を開いた。
「左様でございます。僭越ながらハンナ様に喜んで頂けるよういつもに増し、腕によりをかけ作りました」
「それは、いつもは手を抜いているという事かな?」
お義父様がニコリと笑みを浮かべながらシェフを突っつく。
「い、いや、旦那様、そういうわけでは……」
そんなやり取りをよそ目に、私は運ばれて来る料理達に熱い視線を送る。
「……おぉ〜」
「ふっ」
私が唸り声を上げながら料理に意識を集中させていると、隣りで笑いを吹き出す音が聞こえた。
まさかと思いつつ隣を振り向くと、そこには堪え切れなかった笑みで目元をくしゃっと崩したヴィルドレット様がいた。
振り向いた私に、しまった、という表情でコホンと咳払いを挟み、すぐさま表情を正したが。
「すまん。…………あまりにキラキラした笑顔で料理を見つめるハンナ嬢が可笑しくてな。……つい、見入ってしまっていた」
顔を赤くしながらそっぽを向き。どう言い逃れようかと模索しながらも、結局良い言い訳が見当たらず、仕方なく本音を白状しました。が、見て明らかだ。
まったく、一体この人はどれだけ私の心を乱せば気が済むの?
また、期待しちゃうじゃない……不本意にも心が躍る。
「……ヴィルドレット様は罪深い人ですね」
今、私は笑顔を作っているつもりだが、実際はどんな表情でいるのだろう?自分でも分からない。
「……そうだな。 本当、すまない」
ヴィルドレット様からしてみて、意味不明な事を言ったつもりだった。
しかし、肯定した上に俯きながら謝るヴィルドレット様。 何でそんなに申し訳なさそうなの?
私達の間で何とも言えない複雑なやり取りがなされる一方で、うんうんと、頷きながら満面の笑みを浮かべるお義父様。
多分、私とヴィルドレット様が仲を深め合っている最中だと思っているのだろう。
お義父様は穏やかな表情で口を開いた。
「ヴィルドレット。 妻を持つというのは、本当に良いものだぞ。 確かに、次期公爵としてお前には体裁を整えて欲しいという願いはある。しかし、それとは別に、お前に知って貰いたいのだ。結婚の素晴らしさをな。 私は、息子であるお前に幸せになって欲しいと、心から思っている。 ハンナ嬢と幸せなれ、ヴィルドレット。」
ヴィルドレット様はその言葉に視線を下へ向け、考えた素振りをした。
そして、しばらくして再び視線を上げたヴィルドレット様はお義父様の顔を見据え、口を開いた。
「……そこまで言うのなら、何故父上は再婚されないのですか? 今の物言いならば、父上は今、幸せでは無いというように聞こえましたが?」
食い気味に問うヴィルドレット様。
結婚=幸せと、ほぼ同義な物言いをする割りには、それを体現していないお義父様の矛盾をついたヴィルドレット様の反論に対してお義父様は余裕の表情で「ふん」と鼻で笑った後に口を開いた。
「まだまだ子供だな。ヴィルドレット。 俺は今も幸せなんだよ」
「母上ですか?」
「そうだ」
「死んだ母上の思い出だけで父上は幸せだと?」
「そうだ。俺の中で、あいつは永遠だ。目を閉じればいつもあいつが、エリーが微笑んでくれる。それだけで俺は幸せだ」
「嘘ですね」
またしても食い気味に言うヴィルドレット様。
「そこに実在しない者を想い続ける事は辛いはずです。昔の思い出に縋り付く事しか出来ず、その者をひたすらに想い続け、幾ら前へ進もうとしても頭の中のその者が許してくれない。それはとても辛い事のはずです」
まるでヴィルドレット様自身がそうであるかのような言葉に、お義父様と私は呆気にとられる。しかし、お義父様はすぐさま表情を先程の余裕ある笑みに戻して口を開いた。
「確かにな。お前の言う通りな事も無くもない。でも、またいつか逢えるような気がしてな。 どうだ?お前は、そうは思わないか?」
一体この2人は何を言っているのだろか? 私には分からない。
ただ、2人の顔はまるで同じ境遇にいる盟友を見るかのような楽しそうな微笑みを浮かべ合っている。
2人がそんなわけの分からない話に花を咲かせてる間に、料理は出揃っている。とっくの昔に。
ねぇ〜。そんな話はもういいから、早く食べようよ〜。




