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小鳥が翔んだ日

作者: 東雲





 カンカンカンカンーー。


 甲高く鳴り響くサイレンの音に、強く地面を蹴り上げたローファーの音が共鳴する。悲鳴と燃え上がる炎は、小鳥ことりをさらに焦らすように、爆音で迫った。



 アパートの四階まで上がったところで、小鳥の身体からも悲鳴が上がる。いくら小鳥が陸上部に所属していて体力に自信があったとしても、焦りと恐怖、そして、辺り一面に充満する灰色の煙のせいで、いつも通りの走りが出来るはずがなかったのだ。



 それでも、小鳥はその足を止めるわけにはいかなかった。



 ……急がなきゃ! お願い間に合って!



 口元にハンカチをあて、身体を低く保つ。浅い呼吸を意識しながら、足を上げる。重くなった足、上がれ! 早く! あと一階、上がりきって!




 なんとか最上階の五階まで上がると、小鳥は迷うことなくある家の玄関ドアノブを握った。



「あっっっつ!」



 ドアノブは火傷するほど熱を持っていた。小鳥はすぐさまハンカチを持った手でドアノブを握り直し、ドアを開けた。



 ドアを開けた瞬間、熱風が小鳥を襲う。熱すぎて、もう熱いのかすらわからなくなる程だった。思わず一気に煙を吸ってしまい、むせかえる。喉も、熱い。



「ゴホッ! ……つばさ君! 翼君! どこっ!」



 早く見つけ出さないと、ここもすぐにーー、



 ほんの数十分前までアパートの前にある公園で翼と一緒にいた小鳥は、後悔した。そろそろお母さんが帰ってくるからと、家に帰ると言った翼を引き留めていれば、もう少しだけ一緒にいれていたら、翼がこんなに恐ろしい目に遭うこともなかったのに……。

 



 翼と別れたあと「火事だー!」と騒ぐ声が聞こえ、急いで家の外へ飛び出した小鳥が目にしたのは、炎に包まれかけているアパートの姿だった。火事が起きたのは小鳥の住むアパートではなく、隣に建っているアパートーーつまりは、翼の住むアパートだった。



 火の気は三階にある部屋から上がっているようだった。小鳥達の住むアパートは、隣り合う二戸で一つの階段を共用するタイプの集合住宅で、共用廊下は存在しない。だから、出火元の家から離れた家はまだ階段が使える状態だった。幸いにも、翼の家は出火元の家から距離があった。階段も使える状態だが、いつまでもそこが通れるわけではない。フラッシュオーバーしてしまえば、一気にアパート全体が炎に包まれてしまうだろう。




 小鳥はまずアパートから避難した人を確認した。翼は今日、真っ赤なフード付きパーカーを着ていた。派手な色だから、見つけやすい。大丈夫、すぐ見つかる。そう小鳥は自分に言い聞かせながら翼の姿を探したーーが、見つけることは出来なかった。



 翼の家に目をやる。翼はまだ家の中にいる。小鳥の頭の中は、助けを呼ぶ翼の姿でいっぱいになっていた。翼が自分を呼んでいる。そう思った瞬間、小鳥は走り出した。自慢の足をここで使わないでいつ使う! 小鳥を突き動かしたのは、紛れもなく小鳥自身だった。



 荒々しく燃える建物へ向かって行く小鳥を、周りにいた人達は止めようとした。だが、その制止を振り切って小鳥はアパートの中まで入って行った。馬鹿なことをしていると、危険なことをしていると、小鳥は自覚している。だからこそ、絶対に諦めたりはしないのだ。翼を見つけ出し、何が何でも助け出す。この恐怖にも絶対に耐えてみせる。小鳥は炎を威嚇するように毎秒色濃くなる煙に負けない大きな声で、翼へ何度も呼びかけた。



「翼君! 翼君どこなのっ! つばっ、ゴホッゴホッ、翼君!」



 翼は小鳥の住むアパートの隣の棟に住んでいる、小学二年生の男の子だ。高校生の小鳥とは歳が離れているが、小鳥と翼は友人であった。自分に懐いてくれた翼のことを、小鳥は実の弟のようにも思って接していた。



 そんな翼を残して自分だけ安全な場所に逃げるなんてこと、小鳥には出来るはずがなかった。友人と弟を同時に失ってしまう恐怖と比べれば、こんな火の海なんて生温いものだとすら思えた。



「つ、ばさ君! どこっ!」



 翼の家と小鳥の家の間取りが同じだったおかげで、視界が悪くても自分の家のように小鳥は動くことが出来た。





 そして、リビングで倒れている翼を見つけた。




「翼君っ!」すぐさま翼に駆け寄り、小鳥は翼の名を呼ぶ。揺さぶりながら声を掛けるも、翼から返答はない。



 ーーやばい。やばい、やばい、やばい。




 とにかく早くアパートから脱出しなければ、小鳥自身も大量の煙を吸い込んでいて、かなり厳しい状態だ。小鳥は翼の身体を持ち上げた。翼は小柄な方ではあるが、意識のない人間を抱えることは、簡単なことではなかった。ぐったりした身体は、自分よりも重たいんじゃないかと小鳥は思った。運び出すことが出来るのかと、不安にもなった。



 小鳥は必死に翼を抱えて玄関の方に向かおうとしたが、そちらはもう、とても通れる状態ではなかった。火足の速さに小鳥はパニックになったが、救助隊がアパート下に到着していると見込んで、自力で脱出することは断念した。助かる確率が高い方を、小鳥は選ばなければならなかった。



 なんとかリビングからベランダに逃げ出し、声を上げ、手を振って助けを求める。アパート下には小鳥の思った通り、救助隊が到着していた。小鳥達に気づいた数名の人が指を差し、「あそこにいるぞー!」と声を揃える。救助隊が梯子(はしご)車に乗り込む光景を見て、小鳥は助かったと思った。



「翼君、もう少しの辛抱だよ……もう少しの辛抱だから、頑張って……」



 煙に包まれても翼の無事だけを、小鳥は願った。



 小鳥視点ではアパートがどうなっているのか、その全体を見ることは出来ない。こんな時は見えない方がいいのかもしれないが、音や煙の量で小鳥はわかってしまった。



 ーー全焼。



 このアパートはきっと全焼してしまう、と。

 


 " 最悪 " が小鳥の頭の中を支配した時、追い討ちをかけるようにボンッ! ボンッ! と二度の爆発音が鳴り響いた。その振動が、小鳥の身体を走る。下から湧き上がる悲鳴が、恐怖を掻き立てる。



 爆発のせいで、梯子車は思うように動けないでいる。

知らぬ顔で過ぎる横風が、さらに炎の威力を強めた。梯子車が小鳥達のところまで辿り着くには、まだ時間が掛かりそうで、だけど、もう小鳥の身体は限界だった。翼の家だって、限界だ……。



 小鳥はベランダに出る直前、咄嗟に引きちぎったカーテンを使って自分と翼の体をしっかりと結びつけると、ベランダの端にある室外機の上に乗った。そこから慎重に手すりの向こう側へと移る。



 これ以上は意識を保っていられる保証が小鳥にはなかった。もし意識を失ってここで倒れてしまったら、そのまま二人とも地面に真っ逆さま……。



 そうなってしまうくらいなら一か八か、用意された救助マットの上に飛び降りた方が助かる確率が上がると、小鳥は冷静に判断した。



 小鳥は胸に抱きかかえた翼の顔を、見納めるように見つめた。まだまだ子供だけれど、出会った頃と比べると随分と男らしくなっていた顔つきに驚き、余裕すらないこの状況下でも、笑いそうになった。



 最後の最後までその顔を見つめていようと、小鳥は思った。



 もう一度、翼の笑顔が見たい。



 ーー翼君、お願い……目を覚まして。




「もう少しだ、頑張れ!」、沢山の声援が小鳥達に向けられたが、小鳥の身体はふらつく。



 だが、ふらつく身体とは対照的に、小鳥の決意は固まった。







 ーーここから、翔ぼう。二人で一緒に。







「……翼君、行こう……」




 不思議なくらい、小鳥は落ち着いていた。



 小鳥は一歩を踏み出す。すると、嘘みたいに身体が軽くなった。下からは聞いたことのない叫び声が聞こえてきたが、風を肌で感じた小鳥に恐怖という感情は、もうなかった。

 


 薄れゆく意識の中、小鳥は薄らと目を開けた翼と目が合ったーー気がした。



 自分の声が翼に届いたのだと、小鳥はそう思った。



 諦めなくてよかったと、心から思った。沈みゆく太陽が翼越しに見えた。炎よりも真っ赤に燃え上がっている。空を漂う火の粉は、幾千もの星に見えた。その艶めきに、恍惚として見入った。



 小鳥は翼に微笑みかけ、ぎゅっと抱き締める。



 もう、大丈夫。 ()()()きっと助かるーー。



 小鳥は安心して、やっと目を閉じることが出来た。



 小鳥には、沢山の悲鳴が歓声に聞こえた。






 小鳥は、空を翔んだのだーー。


















 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 翼君の衣装の色が、火災の現場で鮮やかに描かれていました。
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