1. 序章 革命
『次は、〇〇一丁目。〇〇一丁目_______』
心地の良いバスの振動に揺られながら、俺は薄っすらと瞼を開く。そろそろ会社についてしまう。目を覚まさなくては。
とてつもない眠気と倦怠感に襲われながら、俺はつけていたイヤホンを外した。流していたゲームのサウンドトラックが止まり、BGMは日常の雑音に変わっていく。世間話に華を咲かせる老夫婦、期末テストに対して嘆きの声を上げる女子高生、そしてリュックに顔を埋めるようにして爆睡している青年。
今日も、世界は平和だ。
ちょうどその時、信号待ちでバスが止まる。ここの信号は一度引っかかると長い。もう少しだけうたた寝をしていてもいいんじゃないか、なんて悪魔のささやきに抗い損ねた俺は、再び目を閉じた。異様なほどに重い瞼の原因は間違いなく、昨日朝の4時までオンラインゲームに興じていたせいだろう。
しかし俺はしがない平のサラリーマン。一度の遅刻でも上司にネチネチと説教をもらうことは間違いないだろう。誘惑に負けながらも寝過ごすまいと、耳だけは機能させながら俺は背もたれに体重を預ける。
やがてアナウンスのような声と、人々のざわめき、そしてセミの鳴き声が聞こえてくる。もう着いてしまったのか。思ったよりも早____________
_____セミの鳴き声?今は12月だぞ?
飛び起きるように目を覚ました俺の目の前に広がっていたのは、信じられない光景だった。
見渡す限り一面の緑。驚いた表情で固まるバスの乗客たち。視界の左上に映るゲームのUIのようなゲージ。そして森の木々に紛れるようにして俺たちを取り囲む。無数のオオカミ。それぞれの大きさは1mを超えており、その中心で唸り声をあげる群れのボスと思わしき個体の高さはゆうに3mを超えている。
______俺は、夢でも見ているのか?
思わず俺は目をこする。しかし確かに触れたところに感じる感覚、肌をじりじりと照り付ける日差し、あまりにもはっきりと認識できる周りの人々の顔、一度も本物を見たことがないのにリアリティに溢れているオオカミの姿。それらが俺の頭に嫌でもこれが現実だと突き付けてくる。そしてこれが、現実ならば。
すべてが俺の都合のいいように回るはずもない。
ワオーーーーン_________
俺の理解を、そしてきっとこの場にいる全員の理解も待たずに巨大なオオカミの鳴き声が轟く。そしてそれを皮切りに誰かの断末魔が、血飛沫が、脳を満たしていく。視界いっぱいに、そのオオカミの灰色の体毛が広がる。現代日本で生きている限りそうそう感じない生命の危機、喰われるという恐怖に身が竦むのを感じる。大きく開けられたオオカミの口に生え揃う歯が、牙が、やけにはっきり認識できる。もうこれが夢だなんて逃避は到底できない。
ここで喰われれば死ぬ。
未だこの状況を処理しきれていない俺の脳が、それだけを繰り返し警鐘を鳴らす。どうする、逃げるか?人の足、それもアウトドアな活動などほぼしないと言って差し支えないような人間の足でオオカミから逃げられるのか?今向かってきているオオカミさえどうにかすれば、他のオオカミが違う人間に構っている間に何とか離脱できるだろうか。そんな卑怯な真似、いいのか。俺はそれで後悔しないのか。いやまず、目の前の攻撃をどうにかしてかわさなければ。
そんなごちゃついた思考を一瞬のうちに巡らせた俺は、ふと自分の手に刀が握られている事に気が付く。そうだ_______
がむしゃらでもいい。とにかく死ぬのは、嫌だ。
「____っらぁああああ!!」
余計な思考が介入する余地もない純粋な生への欲求に従うままに、俺はその刀で、オオカミの攻撃に対して斬りこむ。今まで感じたことのないような衝撃。しかし手は、まるで何十年もこの刀と共に生きてきたかのように滑らかにオオカミの攻撃を受け流す。学生時代に少し剣道をたしなんだ程度の俺に、なぜこんな芸当ができるのか。
しかしそれに驚いている精神的余裕などない。まさか受け流されるとは思っていなかったのか、体勢を崩したオオカミに俺は思い切り刀を振り下ろす。ただただ力任せに振るわれたはずの刀は、美しい軌道を描いてそのオオカミに吸い寄せられるように斬撃を与えた。短い悲鳴とともに、オオカミは光の粒子になって消えていく。
一体、どうなっているんだ……?
なぜかオオカミを倒せてしまったことにより数瞬の余裕ができた俺は、素早く辺りを見渡す。周りの人々の半分ほどは槍や剣など武器をもって、混乱しつつも半ば武器に振り回されるようにオオカミの対処をしている。しかし武器を持っていない人々はただただ逃げることしかできず、そこには地獄が広がっていた。
「なんだかゲームみたいだな......」
現実から逃避するようにそうつぶやいた瞬間、どこからか声が響く。
『ワールドクエスト序章 革命』
『これより、開始いたします。救世主の皆様、どうかご武運を』
ワールドクエスト_______。
その単語を聞いた俺の頭に数時間前までプレイしていたゲームがよぎる。革命だとか救世主だとか、全く意味が分からないが......ゲームの世界に放り込まれたとでも思っておけばいいのだろうか。しかしリアリティの高さ、あまりにも鮮明な死の恐怖。異世界に転移したと認識した方がいいかもしれない。いずれにせよ信じられるような話ではないが......
ガギィンと硬く大きな音とともに、俺は刀で新たにやってきてしまったオオカミの牙を受け止める。逃げるのはどのみち無理そうだ。考えるのはこの状況をどうにかしてからでいい。今はひたすら、生きのびることだ。俺や周りの人間のうち幾人かはなぜかこのオオカミたちと対等以上に渡り合える力を得ているようだが、残っているオオカミの数はまだまだ多い。それに武器がなく戦えない人々もいる。
その上。
俺はオオカミを斬り殺しながら横目にそれを見やる。この群れのボスはゆったりとした足取りで、しかし着実にこちらに近づいてきている。その強さは計り知れないが、少なくともこの戦況をさらなる混乱に導くことは間違いないだろう。そうなる前に、どうにかボス以外のオオカミを減らし切りたいところではあるが______
「なんだこれ、魔法......!?」
不意に聞こえたそんな声と閃光に、俺は思わず振り返る。そこには驚いたような顔で自身の身に着けている腕輪に手を当てている青年の姿があり、その青年の周りには顔ほどの大きさがありそうな白い光のキューブが浮いている。そのキューブからは断続的に光の矢が放たれており、その矢は次々とオオカミたちを打ち抜いていく。即死に追い込むほどの威力はなさそうだが、確実に群れ全体に大きなダメージを与えていた。また、それを見た武器を持たない人々が声を上げ始める。
「この腕輪、なんだと思ったら武器みたいなものだったのか!」
「じゃあこのネックレスも......」
「いったいどうやって使えば......うわあ!なんだこの光!?」
「よくわからんが効いていそうだぞ!!」
戦場はさらに混沌としだすが、オオカミたちの数は先ほどまでとは段違いのペースで減ってきており状況も好転してきている。誰かがバフのような魔法をかけ始めたのか、HPゲージらしきUIの下に剣のマークが出てくる。攻撃力増加、といったところだろうか......。ちらりとそれに目をやりながら、先ほどの青年の背後から襲いかかろうとしていたオオカミを斬り上げる。
「___っ!」
その音で気が付いたのか振り返った青年は、咄嗟に手を横に薙ぎ、ひときわ大きな光がオオカミに放たれた。それは見事にオオカミの身体を貫き、オオカミの体は光の粒子となって消えていく。
「た、助かりました。ありがとうございます」
「いえ、間に合ったみたいで良かったです」
少し青ざめた顔で安堵の表情を浮かべた青年は、少し首をかしげると俺のことをじっと見る。
「えっと......どうかされました?」
「あの、どっかで会ったことありません?ゲームのオフ会とかで......」
その言葉に俺は記憶を辿る。もしかして_________
「颯天さん......?」
「あ、やっぱり!龍一さんですよね!」
俺の答えにその青年は人懐こい笑顔を浮かべた。龍一、というのは俺のネットでのハンドルネームだ。彼、颯天さんはゲーム仲間というやつで今日の朝四時まで一緒にゲームをやっていたメンバーでもある。恐らくリアルで近くにいた人間と転移させられたようなので、ゲームの知り合いがいるとは思っていなかったが......。
「知り合いがいて安心しましたが、まずはこの状況を何とかしなきゃいけませんね」
「そうっすね。もうすぐボスも参戦しそうな空気ですし......早い所雑魚は片づけちゃわないと。まあでも龍一さんと俺がいるなら、少なくとも雑魚は何とかできるんじゃないすか?」
そう言いながら彼はオオカミの攻撃をかわすと、先程と同じ攻撃でオオカミの頭部を正確に貫く。こんな状況でも冷静さを保てているのは、いまだに現実味がわいていないからなのか、それか元々の彼の精神の図太さからなのか......。
しかし彼もなんとなく、ここでの死はコンテニュー不可を意味することを理解しているらしい。彼はゲーム内では自分が多少ダメージを食らってでも効率よく敵を倒す戦闘スタイルなのだが、今は多少DPSを落としてでもきっちりと回避している。
兎も角、なじみのないはずの魔法のようなものを早くも自在に操り始めた彼が、とても頼りになるのは確かだ。ゲームの方でも彼は所謂センスがある人間というやつで、誰よりも早く新しいテクニックを使いこなし、パーティの中では非常に優秀な火力源だった。確かに彼がこの調子でオオカミを狩り続けてくれればそう時間はかからなさそうだが________
「そうですね...」
俺は先ほどよりも幾分か落ち着いた頭で状況を整理する。
「確かに戦力的に優勢になってきつつはありますが、ボスが到着するまでに全て片付けるのは無理でしょう。それならまだこちらの戦場とボスとの距離が開いているうちに、我々があのボスと戦って時間稼ぎをした方が良いのではないでしょうか」
「確かに、怪我人もいるしこっちにあれを連れてくるのは得策じゃないかもしれないっすね。リーダーの仰せのままに、っと!」
「リーダーって......ゲームじゃないんですよ......」
そう、これはゲームではない。俺の言っている事は他の人間の為に命を張れと言っている事と変わらない。頭もよく回る彼ならそんなことくらいわかっているだろう。しかしそれでも彼は俺の指示に一片の迷いもなく応えて走り出した。
「いいじゃないすか、ゲームじゃなくても。俺が従うって決めた相手はリーダーなんで」
「_____!そう、ですか」
ここまで信頼されていたのは予想外であったが、それでも。
「じゃあ急ぎましょう、颯天さん。最低目標は5分間あいつ相手に時間を稼ぐこと________」
「んでもって、あわよくば俺ら二人で_______」
「「ぶっ飛ばしましょう」」
俺は出来る限りの全力疾走で、彼の隣に並び立つ。ここはもはやゲームではない。現実だ。実際に何人も血を流して動かなくなってしまった人もいる。相手は自分より何倍も大きな怪物。食われれば実際に死ぬ。だが__________
俺は確かに今、楽しさを覚えていた。
『さて、救世主諸君。チュートリアルの時間だ。何万人かは生き延びてくれるといいんだがね』