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そこにあったのは、夏希を見つめる長い髪の女の顔だった。
「ひぇ」
反射的に後ずさりした。……だが、よく見ると、カーテンの隙間の窓に映った自分の顔だった。
……もう、そそっかしいんだから。
夏希はホッとすると自嘲した。だが、さっき確かに女の泣き声が聞こえた。……あれは、幻聴だと言うのか? 夏希はスッキリしなかった。……もしかして、この消えない[new]は零余子からのダイイング・メッセージなのではないだろうか。夏希はふと、そんなふうに思った。だが、真相を確かめるにも本名はおろか、どこの大学かも分からない。そこで、ヒント探しをするために、零余子の全ての作品をもう一度読み返した。――すると、エッセイの中にこんな件があった。
〈大学の前にある白い扉の小さな喫茶店によく行くんだけど、入り口脇の花壇には季節の草花が植えてあって、とても素敵です。花を愛でるのも楽しみの一つ。その喫茶店の厨房には80歳になる女の人が働いているんだって。年齢を聞いたときはビックリしたけど、80歳になっても働くという考え方に敬服しました。どうりで、昔ながらの美味しいカレーやナポリタンなんだと思いました〉
読んだあと、夏希はハッとした。この喫茶店に心当たりがあったからだ。――紛れもなく、自分が通う大学の前にある喫茶店だった。……つまり、零余子は同じ大学の学生。夏希は愕然とした。
……まさか、同じ大学だったとは。
だが、肝心な本名が分からない。どこかにヒントはないだろうかと思いながら次のページに移った時だった。
〈その喫茶店には一人で行くのが好きだけど、時々、同じ学部のNに誘われる。スリムなNは服のセンスも良く、小顔にマッシュショートが似合っていた〉
……マッシュショート?
〈でも、どうしても好きになれない。それには理由がある。デート中だったNと偶然会ったときのこと。自慢気にイケメンの彼氏を紹介して、恋愛に疎い私を蔑むような目で見た。あのときのNの冷ややかな目を忘れることができません。でも、今は素敵な彼氏がいます。彼氏の正体は今は明かせないけど、とても幸せです〉
……小顔にマッシュショート? もしかして、Nって尚美のこと? ……ということは、零余子は私も知ってる人?もし仮に私も知ってる人なら一人だけ思い当たった。
「あっ!」
その人の名は、立木未菜。同じ学部の同期だった。だが、未菜は大人しくて目立たない存在で、ろくに話をしたことがなかった。一人でいることが多かった未菜を気にかけてか、社交的な尚美が誘って、二、三度お茶をしたことがあった。未菜は清純なイメージはあったが、口数の少ない内向的なタイプで、一緒にいても楽しくなかった。
仮に未菜が零余子だとしたら、作品から受ける印象とは正反対だった。積極的にグイグイいく作風の零余子と、大人しいイメージの未菜とはどうしても結びつかなかったが、得てして作家という者は、実際の人格とは異なる作品を書きたがるものなのかもしれない。
ここまで知り得た情報から推測したのは、零余子の不可解な突然の退会に尚美が関わっているのではないかということだった。――そこで、鎌をかけてみることにした。
「ね? 最近元気ないけど、何かあった?」
「……別に」
口が重かった。
「彼氏とうまくいってるの?」
「えっ?」
驚いた目を向けた。
「なんで?」
「最近彼氏の話しないから」
尚美を一瞥すると、ストローでオレンジジュースを飲んだ。
「……会ってない」
目を伏せて呟いた。
「何かあったの?」
「……別れてくれって言われて」
感情の起伏が激しい尚美は今にも泣き出しそうだった。
「……そんな」
「他に好きな女ができたからって……」
尚美はショルダーバッグから出したハンカチで目頭を押さえた。
「で、相手は? 私の知ってる人?」
その質問に尚美は潤んだ目を向けたまま返事をしなかった。それがどういう意味なのか、答えは出ていた。尚美は深刻な表情を残したままで席を立った。
……もしかして、未菜に彼氏を奪われたのかしら? あんな大人しい顔をして、なんて大胆な。……でも、そのことと退会したことにどんな関係があるのだろう。