再会?
あれから九年が経ち、セシルはあの日と同じように騎士団の詰所の前に立っていた。
遠い日の記憶は、初恋特有の甘酸っぱい感情をセシルの心に深く刻みこんだ。
また会いたい、次はいつ会えるかな。
あの日の夜は目が冴えてなかなか寝付くことができなかった。
しかし、用もなく会いにいくのは子ども心にも照れ臭かったし、聖都に住んでいるのだから会おうと思えばいつでも会える。そんな甘い考えが、次の行動の妨げになった。
新しい生活に新しい友人。自分を取り巻く環境の目まぐるしい変化。
それらに忙殺されているうちに、いつしか彼女のことはセシルの中で「良い思い出」に昇華していた。
だから、あの日と同じ場所に立ったとき、美しい少女のことを思い出したのはごく自然なことだった。
叔父は、彼女は王妃の親戚だと言っていた。きっと今頃、どこかの貴族に嫁いでいるにちがいない。
胸の奥がきゅっと痛んだのは、もうかなわない初恋を、心のどこかで引きずっているからだ。
三男とはいえ、自分も侯爵家の一員だ。いずれは親の決めた相手と結婚するのだろう。
恋なんて考えるだけ無駄なこと。自由になる事なんて、なにひとつ存在しないのだから。
頭の中を整理したセシルは大きく深呼吸してから、頑丈そうな木の扉を叩く。
「はい」
聞き覚えのある声が返ってきたことに安堵しつつ、もう一度気を引き閉めてから扉に手をかける。
「失礼します」
木の香りに、微かに混ざる金属の匂い。こういうところは士官学校とあまり変わらないようだ。
「セシル・ランサーです。本日付けで騎士見習いとなりました」
士官学校の教官室に入るときの習慣で、セシルは入室と同時に深く頭を下げた。
「顔を上げろ。俺は堅苦しい挨拶は苦手なんだ」
久しぶりに聞く叔父の声は記憶の中と変わらない。
安心して顔を上げたセシルは、その場に立ち尽くした。
なんと、目の前に驚くほど美しい女性が立っていたのだ。
内側から光を放っているかのように輝く金色の髪に、青い宝石のような瞳。白い肌に映えるのは、赤く紅をひいた形の良い唇。身長は女性にしてはかなり高く、体つきはよくできた彫刻のように完璧な曲線を描いている。
万人が認めるであろう美貌の持ち主は、セシルを見て、これまた美しい微笑みを浮かべた。
こんなにきれいな人が現実に存在するなんて…。
「セシル、どうした?」
凍りついたように動けなくなっていたセシルは、叔父の言葉で我に帰る。
「いいえ。こんなところに女性がいらっしゃるとは思わなかったものですから」
「こんなところで悪かったな」
「いや、そんなつもりでは…」
「わかってるよ。それよりいつまでそこに立っているつもりだ」
暗に促され、セシルは部屋の中心に置かれた長椅子に腰かけた。
それと同時に、女性は何も言わずに奥の部屋に消えていく。
あの女性は何者だろう。ずいぶん慣れた様子だが…。
セシルが尋ねようとした瞬間、奥の扉が開き、先程の女性が戻ってきた。手には茶器を乗せた盆を持っている。
女性は慣れた手つきで紅茶の入った器を並べ、叔父の斜め後ろに控えた。
叔父の秘書だろうか。尋ねてもよい雰囲気かとセシルが様子を伺っていると、叔父は女性の方を振り返った。
「お前もここに座りなさい」
叔父の言葉に、女性は一瞬戸惑うような仕草を見せる。
「でも…」
「お前も今日から騎士見習いだろ」
「…はい」
騎士見習い? この女性が?
「よろしくお願いします」
そう言って、女性は手を差し出した。釈然としないといった表情が気がかりだが、応えないと無礼になる。
セシルは立ち上がった。
ほっそりとした白い手と紅く染めた爪が織り成す優美な仕草は、セシルに舞踏会を連想させる。
引き込まれるように伸ばした手を、女性が握った。
「あっ…」
甘い幻想に飲まれそうになっていたセシルの意識は、一瞬で現実に引き戻される。
彼女の手のひらは、見た目とは裏腹に皮膚の一部分が厚く硬くなっていたのだ。
…これは武器を持つ人の手だ。
しかし剣を握る手とは、硬くなる部分が異なるが…。
しかし、彼女も騎士見習いならば、武器を使った訓練は当然こなしている。そんな当たり前の概念を吹き飛ばすくらい、彼女の美しさは群を抜いていたのだろう。
セシルは驚きを笑顔で隠し、その手を握り返す。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
手を離すと、女性は唇の端を上げて軽く頷いた。こちらの戸惑いには気付いていないようで、セシルは胸を撫で下ろす。
「おーい。名前言うの、忘れてないか?」
突然かけられた叔父の声に、女性は「あっ」と口に手をあてた。
「いっけない。せっかく格好よくしようと思ったのに」
「慣れないことは続かないぞ」
「おじさまの言うとおりね」
女性は叔父に向かって親しげな口調で答えた。叔父との親密さを見せつけられているようで、セシルは少しだけ居心地の悪さを感じる。
「私はヒスイ・エンジュ。改めてよろしく」
…どこかで聞いた名前。
「ヒスイって呼んで」
叔父に向けたものより、やや固い笑みを浮かべヒスイは言った。
その笑顔に幼い頃の記憶が重なった。
青い瞳、金色の髪。あの子の名前は…。
「ヒスイ…」
それだけの条件が揃っているのに、どうしてすぐに初恋の少女を思い出せなかったのだろう。あまりにも記憶の中の姿と今の姿が違うからだろうか。
心臓が痛いくらいに存在を主張し始めた。
セシルは思わず前のめりになって、ヒスイの青い目を凝視する。
「昔、ここでお会いしたことがありませんか?」
唐突な質問にさほど驚いた様子もなく、ヒスイは首をかしげた。
「昔って、いつごろの話かしら」
「九年前、ここで…」
「九年前…」
彼女は形の良い眉をひそめ、考え込む仕草を見せる。
「外の広場で」
「セシル」
突然、鋭さを含んだ声が響いた。
「いくらヒスイが美人だからって、出会ったばかりの同僚に声をかけるなんて早急すぎるぞ」
「僕はそんなつもりでは…」
「そういうことは一人前の騎士になってからにしろよ」
叔父は軽口を叩くが、その目は少しも笑っていない。しかし、セシルも引き下がれない。
「あのとき、叔父上もいらっしゃったでしょう。覚えておられませんか?」
すがるように尋ねると、叔父は苦笑した。
「さぁ、そんなことあったかな」
叔父の言葉に、これ以上聞くなという圧力を感じ、セシルは口をつぐんだ。
この外見で同じ名前を持つ女性など、偶然の一致だとは思えないし、確かにあのとき叔父は同席していた。
なぜ、ふたりは嘘をつくのだろうか。
…叔父のことだから、きっと何か理由があるに違いない。
セシルは強引に気持ちを落ち着かせた。
周囲を見ると、ヒスイは困ったような顔でセシルを見ているし、叔父は眉間にしわを寄せてこちらを睨んでいた。
…昔から物わかりが良いと言われてきた。
相手の気持ちを察するのは得意だった。
だからわかる。
尋ねるのは今ではない。
セシルは頷いて了承の意を伝えた。