青い目の人形
初めて彼女と出会ったのは、暖かい春の日のことだった。
父が治める西方の領地から、馬車に揺られて三日間。
ようやくたどり着いた聖王国の首都は、見渡す限りの農地が広がる故郷とは、あまりにも異なる賑やかな街だった。
馬車は街を抜け、深い森に囲まれた小高い丘の上を目指す。そこに、聖王国アレクディアの王城があった。
「末っ子のセシルが、寄宿学校に入学するなんて、月日が経つのは早いものだね」
王立騎士団の団長を務める叔父は、そう言いながらセシルの頭を撫でた。大きな手の力強さに、セシルは首をすくめる。
「年の離れた弟だからか、皆が甘やかしてしまってね。贔屓目に見ても太刀筋は良いのだけれど、虫一匹殺せない性格では騎士には向いていないだろう」
父は出された茶を飲みながら苦笑いを浮かべている。
「では文官になればいい。長男が家を継ぎ、次男が騎士団に入ることが決まっているのなら、侯爵家としての義務はもう十分に果たしているよ」
「それもそうだな。幸いこの子は頭の回転も悪くない。せめて三男くらいは、自分の人生を自由に決めてもいいのかも知れないな」
「資産だって、そんなに取り分はないんだから、自分で稼いでもらわないとな」
父と叔父はよく似た声と顔で笑った。
大人達が自分の将来の話で勝手に盛り上がっているのは、正直おもしろくない。セシルは焼き菓子を頬張りながら、読みかけの本の続きを想像することにした。
そのときだった。
セシルは、奥の扉の隙間から、ひとりの少女が顔をのぞかせていることに気が付いた。
その少女は、あまりにも整った顔立ちをしていたので、はじめは等身大の人形が立っているのかと思った。セシルと目があったとき、軽く首をひねったので、ようやく生身の人間だと確信できたのだ。
「どうした?」
「あの、扉のところに女の子が」
セシルの声に振り向いた叔父は何回か頷くと、そちらに向かって手招きをする。
「騒がしいから気になって出てきたんだな」
少女はゆっくりとした足取りで叔父の隣まで歩いてきて、セシルの正面の椅子に座った。
ふわりと甘い香りがして、セシルはその少女から目が離せなくなった。
腰まである金色の髪は絹糸のように滑らかな光沢を放ち、湖のような青い瞳を長いまつげが縁取っている。肌は雪のように真っ白で、小さな唇は桜貝のように艶やかだった。
なんてきれいな女の子だろう…。
「セシル、どうした?」
思わず見とれていると、心配した叔父に声をかけられた。
「すいません。あんまりこの子がきれいだったから」
動揺のあまり、正直な感想が口をついて出てしまう。
「えっ?」
「いや、違うんです。これは、あの…」
慌てて誤魔化そうとしたが無駄だった。父と叔父は半笑いでセシルを見つめていた。
いたたまれなくなったセシルは、少女の様子を伺う。
少女はこちらには関心がないらしく、硝子玉のような瞳でぼんやりと宙を見ていた。
「この子はヒスイ。王妃様の遠縁にあたる子で、訳あって俺が護衛のようなことをしている」
「では、この子が例の兄妹の…」
「妹の方だ。相変わらず耳が早いな」
「兄はどこに?」
「陛下が連れて回ってるよ。将来の宰相候補様だ」
父は難しい顔で頷いた。叔父は何か言いたそうにしているが、セシル達が気になるのだろう。目線が、セシルと少女を交互に行き来している。
少女は微動だにせず、叔父の隣に座っていた。まばたきがなければ、本当に人形と見間違えるほど美しい。
「セシル。せっかくだから、ふたりで外で遊んでおいで」
「そうだな。今は馬も出払っているし、柵の内側なら安全だよ」
大人達がこのような事を言い出すときは、子どもに聞かせたくない話をしたいときだとセシルは理解している。
「わかりました」
セシルは立ち上がった。
自然と青い瞳を見てしまう。
それは吸い込まれそうな深い青。
「この子はお前と同い年だ。城には遊び相手がいないから、一緒に遊んでくれると助かるよ」
叔父の言葉に、セシルはもう一度ヒスイの方を見た。ヒスイはぼんやりと宙を眺めたままで、こちらには何の関心もないように見える。
でも、叔父さんもすすめてくれたし…。
「…はい」
セシルは立ち上がり、ヒスイに手を差し出す。
「僕はセシル・ランサー。行こう…じゃなくて、行きましょう。ヒスイ様」
王妃様の親戚なら、敬称をつけた方がいいだろう。ヒスイは戸惑っているのか、叔父の方を見つめた。
「問題ない。彼は俺の甥だ」
叔父の囁きが合図となり、ヒスイはゆっくりとセシルの手をとる。
胸の鼓動を実感したのは初めてかもしれない。
その手は、今までセシルが触れたどの女の子の手よりも柔らかかった。
「何をして遊びますか? でも、そのドレスではあんまり動けませんね」
手を引いて広場の真ん中まで来たものの、何をすればいいのかまったくわからない。
男兄弟の中で育ったセシルは、女の子の遊びをほとんど知らないのだ。
やりたいことを尋ねても、ヒスイは無表情のまま、一言も口を開かなかった。
叔父の口ぶりでは、いろいろと事情がありそうだし、もしかしたら病気で喋れないとか…。
セシルは、無理に聞き出すのをやめて、適当に周囲を散策することにした。何か遊べるものが見つかるかもしれない。
歩き出してすぐ、セシルは草むらの間に白い花を見つけた。
小さな細い花びらが集まって球のように見えるその花を、セシルは知っている。
いつかは忘れたが、屋敷の庭を散歩していたとき、侍女がこの花で冠を作る方法を教えてくれたのだ。侍女と一緒に花冠を作り、母親に渡したところ、とても喜んでくれたのを覚えている。
まずはちゃんと覚えているか、ひとりでやってみよう。
セシルは花を摘み、教わった方法を思い出して束ねていく。
…これならなんとかなりそうだ。
横を見ると、ヒスイがセシルの手元をじっと見つめていた。
「この花は白詰草といいます。ヒスイ様もやってみますか?」
ヒスイに声をかけたが、返事はなかった。
仕方なくセシルはひとりで冠を作り続ける。ヒスイは何も言わずにそれを眺めていた。
「できました」
途中でほどけてしまったり、茎が切れてしまったりという不測の事態はあったが、なんとか冠の形に仕上がった。我ながらよくできたと感心する。
「どうぞ、差し上げます」
それをヒスイに手渡すと、彼女は花冠を見つめたまま固まってしまった。どうしていいのかわからないようだ。
「これはね、こうやって頭に乗せるんですよ」
セシルはヒスイの手から冠を受け取り、自分の頭に乗せるふりをする。
もう一度ヒスイの手に冠を手渡すと、彼女は迷うことなく頭の上に乗せた。そして、これでいいのか尋ねるように、首をかしげてセシルを見つめた。
「よくお似合いです」
それはお世辞など少しも混じっていない本心だった。
ヒスイの表情は変わらない。そこに不思議なものを感じ取り、セシルは大げさに頷いてみせた。
「あっ…」
そのとき、長いまつげで縁取られた青い瞳が揺れ、桜色の唇がきれいな弧を描いた。
それは絵本の中のお姫様のように美しい笑顔で…。
セシルはその笑顔に釘付けになった。
どれくらいの時間が経ったのか。堪えきれずまばたきをした次の瞬間には、ヒスイは元の人形のような表情に戻っていた。
時間にして、ほんの数秒の出来事。
それでも、恋に落ちるには十分すぎる時間だった。
お姫様を守る騎士か…。
そのとき、セシルは生まれて初めて将来のことを考えた。