【4】
川の浅瀬に立ち、流れをじっと見ていたのは狐でした。
熊が私の背中をそっと狐のほうへ押しました。
声を掛けようか戸惑っていると、視線は川へ向けたまま狐が云いました。
「魚を取ろうと此処で立っているのですが」
私に語りかけているのでしょうか。それとも独り言でしょうか。狐はぴくとも動かず、私も息を詰めてその背中を見ています。
「水の流れというものは面白く、いやいや、こうも次々と違う顔を見せるんです、魅力的でしかない。魚処では無くなってしまいそうです」
狐が身体を捻り、此方を見ました。
「帰る道をお探しですか」
「はい」
私が答えると、狐は酷く落胆したような顔をしたのです。何か気に障ることでも云ってしまったでしょうか。
「いやいや、そんなに急ぐことでしょうか」
狐の問いに、私は考えあぐねてしまいます。玉羊羹は気になりますが、急いで戻っても、またあのお茶会の隅で小さくなって座しているだけだと考えただけで青ざめてしまいそうです。あまり得意ではなかったお茶会ですが、ここまでの懸念だったとは、自分でも驚きです。
私の戸惑う様子を見て、熊と狐が微笑いました。
「そこまで急がなくてもいいんじゃないかい」
「もし宜しければ……ですが、いやいや、無理強いは致しませんよ、飽く迄も宜しければ、わたしと一緒に魚を取りませんか」
その申し出が、どれだけ私にとって衝撃的であったことか、私は暫し答えることもできずに間の抜けた貌で狐を見つめました。
「いやいや、厭であるならば……」
「いいえ! 是非!」
思わず叫んだ私に、後ろで見守っていた熊がぐふぁ、と笑いました。
「そのスカァトでは水を含んで危険ですね、彼処に綿の半ズボンがありますよ。履き替えては如何ですか」
狐の申し出に水脇の木の元を見れば、きちんと畳まれた紺の半ズボンが在りました。私は再びに戸惑います。
熊を見返りました。熊は頷いているだけです。
良いのでしょうか。私は、スカァトを脱いでも、良いのでしょうか。今でも纏わりつくこの感触には快くない感情しかありません。でも、今まで、ずっとスカァトを履いてきたのです。それは決められたことだったのです。
「着るのも、脱ぐのも、きみの自由だ」
熊が云いました。
私は、……私は、恐る恐る、腰に手を添えました。そのまま、紐を解きます。
ひとつ解きました。手が震えます。良いのでしょうか。大きな不安。
続いて、もうひとつ。コルセットは徐々に緩みます。またひとつ。どんどんと。私は息を吸い込みました。
すとんと落ちたスカァト。もうズロースも必要ありません。木の元に駆け寄り、半ズボンを手に取り、それを履いたのです。
「靴は履いていたほうがいいですよ。川底の小石が痛いんです。いやいや、わたしには靴などありませんがね」
靴下が濡れることは厭いませんでした。私は、歩幅も大きく、ざぶんと川に踏み入ったのです!
ああ、なんて気持ちがいいのでしょう。傾いたとはいえ、未だ太陽は燦燦と光を注いでくれています。
跳ねた水が光って落ちました。ざぶざぶと無遠慮に歩きます。すごい、こんな世界があるなんて。
水遊びに夢中になってしまった私に、狐が苦い声を上げます。
「いやいや、そんなに川を荒らすと、魚が逃げてしまいますよ」
「すみません」
はしゃぎすぎたと反省し、静かに狐の横に並びます。水の流れを一緒に見ていると、どれ一つとして同じ水流はありません。成程、これは乱したくはなく、ずっと眺めていたい光景でした。
一度熊を振り返ると、木の元で私の脱いだスカァトをびりびりと破いていました。おかあさまのことを少し思って複雑な気持ちになり、振り切るように川へと視線を戻しました。
如何ほどの刻が過ぎたでしょうか。
足元の水が冷たく感じるようになり、空も茜色へと染まっていくまで、私と狐は長閑に佇んだままでした。
「そろそろ上がりますか」
狐が云います。
「魚は良いのですか」
私の問いに、狐はふんふんと頷きます。
「いやいや、時にはそういう事も起こり得ます。わたしの選んだことですから、不満はありませんね」
そういうものなのでしょうか。私は川から上がろうと足を踏み出しました。足取りが軽い。
熊は私のスカァトで、人形のリボンを創っていたようでした。髪飾りの後ろに大きな淡紅色のリボン。
熊に駆け寄ろうとしたその時、足元で声がしました。
「アタシを無視して行こうなんて、偉くなったものだわ」
驚いて見ると、ふわふわの長くて白い毛並み、金色の瞳の猫。家で居るはずのファールーンがここにいたのです。