百合声優はキスに学ぶ
【登場人物】
神楽愛依:新人女性声優。21歳。同期の羽衣と百合声優コンビを組んでいる。ツンデレ百合担当。少し前に仮の恋人として羽衣と付き合い始めた。
天遣羽衣:愛依と同期でコンビの女性声優。羽衣と活動するうちに恋心を抱き、想いを打ち明けた後に仮恋人になれた。おっとりS系百合担当。
芸事を上達させたいなら恋愛をしなさい。専門学校時代に講師の方からよく言われたことだ。
あらゆる創作品に恋愛事は絡んでくる。ファンタジーでもSFでもミステリーでも、作中のキャラクターが誰かと結ばれるのは珍しくないし、観客もそれを楽しんでいる。
だから、恋愛をして自分の演技の幅を広げなさい、と。
確かにその論はごもっともなのだけど、今のご時世無理に自分で恋愛をせずとも様々な作品から学んで恋愛の引き出しを増やすことだって可能だ。むしろ一般的に認知されている恋愛の演技を覚えておいた方が仕事として使いやすい。自然な演技とは自分にとっての自然ではなく、観客にとって自然に感じるかどうかが重要なのだ。いつも自分が引き笑いをするのが当たり前だからといってマイク前でそれを出しても音響監督からOKをもらえるわけがない。もちろん演じるキャラクターにもよるんだけど。
「『はぁ……唇、すごい柔らかい……』」
「『が、がっつき過ぎだって! 誰か来たらどうすんの!?』」
「『この唇はわたしのだからとっちゃダメだよって教えてあげる』」
「『そうじゃな――ん、私の唇は、私の――っ、ま、待って、ん、んちゅ、ちゅぱ、はっ、あ、ん、ちゅっ、れろ、ちゅ、んっ、はぁ、んちゅ……』だぁーーっ!」
あたしは台本を持った腕を伸ばして後ろのベッドにもたれかかった。
「キス長すぎ! なんなのここ!? 【1分近くキスしてください。短いセリフならアドリブも可】って!?」
「説明あったでしょ~。作者の方が思い入れのあるシーンだから長めにやるって」
「聞いたけどさぁ。原作で1ページなのに1分はやりすぎじゃない?」
「本当はそのくらい長く描きたかったけどページ足りなかったんだよ。だからこうやって私達が特典のCDで補完してるの」
今あたしたちは自宅に集まって台本の読み合わせをしていた。百合マンガの新刊の限定版についてくるドラマCDなんだけど、まぁキスシーンが多いし長いしで大変だ。元々あたしと羽衣は百合アニメの主役としてデビューしたのでキスシーン自体は慣れているが、それだってせいぜい1シーン長くて10秒くらい。
深く息を吐きながら台本を真上に掲げて見上げる。
「もらった台本なんだから求められてることはきっちりやるけどさ、こんだけ長いと呼吸合わせるの大変なんだよね」
「まぁね~。でも二人で収録できるだけまだマシだよ。これで別録りだったらどうしていいかわかんないもん」
「その辺も込み込みであたしたちに依頼がきたのかもね」
アニメや映画の収録は役者が一度に集まって収録するのがほとんどだけど、ドラマCDやゲームなんかはスケジュールの都合から別々に収録することが多い。それでもベテランになると相手がどう返してくるかを予想して演技を被せていくのだが、あたしたちにはまだそこまでスキルがない。先に録音したのを聞きながらすることは出来るしある程度のレベルまで持っていけても、やっぱりリアルタイムで掛け合いをしたものには敵わない。
羽衣があたしの横から覗き込んできた。
「ねぇ愛依ぃ、キスの演技の勉強するには実際にキスしてみるのが一番だと思わない?」
「思わない」
「えぇ~、恋人なんだからキスくらいいいじゃ~ん」
「仮の、恋人ね。付き合うときそれでもいいならって確認したよね?」
「したけどぉ……」
「変なことしてきたら別れるから」
「キスは変なことじゃないよ。愛を確かめ合う崇高な行為だよ」
「本当の恋人ならね。あたしたちはそうじゃないから関係ない」
「うぅ~、じゃあ言わせてもらうけど、愛依のキスの音へたくそだよ」
「はぁ!? どこが!?」
「ちゅぱちゅぱたて過ぎ。もっと段々と相手を求めるように深くキスしないと」
「あんなもんだって」
「キスの経験あるの?」
「え――あ、あるよ」
「めっちゃ怪しい……いつ? 誰と?」
あたしはしばらく目を逸らしていたが圧力に耐えかねて自白した。
「……小さいころ、お父さんお母さんと」
「そんなことだろうと思った。私が言ってるのは舌と舌を絡ませるようなディープなやつ」
「あるかそんなもん! 無くて悪い!?」
「全然悪くないよ。逆に安心した。私が愛依の初めてになれるってことだもんね?」
「勝手に決めるな。キスはしないって言ってんでしょ」
「え~」
「そんなにキスに詳しいなら羽衣がディレクションしてよ。今までディープなキスをたくさんしてこられた羽衣さんなら余裕ですよね?」
語調が強くなった。恋愛経験の差をバカにされている気がしたから。
羽衣がにやにやとあたしを見返してくる。
「もしかして嫉妬した?」
「してない」
「ほんとかな~」
「してないって」
「んふふ、けど残念、私も両親以外とキスはしたことないんだ」
それを聞いてほっとする。これは羽衣にキスをするような相手がいなかったからじゃなく、マウントを取られずに済んだからだ。そうに決まってる。
あたしは鼻を鳴らした。
「あんだけ偉そうにしといて結局羽衣もキス知らないんじゃん」
「知らないけど映画観たりドラマCD聞いたりして勉強したもん」
「じゃあキスを勉強した羽衣さんのお手本を見せてよ」
「うまい音の出し方は私にも分からないよ。だから実際にキスしてみよって言ったのに」
「やらないからね」
「ほらそうやって拒否するでしょ~。でも冗談抜きで経験するのが一番いいと思うよ。二人でキスするってことは口の中の唾液の量だって多くなるわけだし、唇の向きも押し付ける強さも一定じゃない。舌を伸ばしたときの声や音なんかも自分の手首とは勝手が違うでしょ?」
言っていることは正論だ。アフレコのときにキス音を出すのはたいてい自分の手の甲や手首あたりにキスをして音を出している。唇を重ねるだけならともかく、荒々しいディープキスを表現するのはあたしには難しい。映画なら元の音があったりするし何より映像がある分視覚で情報を補ってくれるのでなんとかなるが、音だけのドラマCDは全ての行為をあたしたちが演じきってみせなければいけないのだ。
だから羽衣の言う通り、自分の唇で体験するのが手っ取り早くはあるんだけど。
「でも無理なことを演じてみせるのが声優じゃないの? 銃で撃たれたことがなくても撃たれた演技をしなきゃいけないこともある。実際には体験しようがないことを想像力で補ってこそ高みにいけるってもんじゃない」
偉そうに言っているが半分くらいはキスをしない為の方便だ。体験できる機会があるのなら体験をして学ぶ方がいいに決まっている。そんなことを言おうものなら羽衣が調子に乗ってキスしようとしてくるのも分かりきっているけど。
羽衣は不満そうではあったがあたしの言い分に納得もしていた。しばし考えたあとに提案してくる。
「それなら私がどういうキスをするか見せるから、それを参考にして愛依もキスしてみて」
「わかった」
あたしが頷くと突然羽衣があたしの腕を持ち上げ、手首にキスをしてきた。
「こ、こら! 自分のでやりなさいよ!」
「――ん、だってこうした方が私の舌の動きとか分かりやすいでしょ?」
まぁ確かに。あたしが一瞬納得した隙をついて羽衣がキスを再開した。最初は感触を楽しむように唇で甘噛みをして、細かく吸いながら舌先であたしの肌を舐める。かかる鼻息がくすぐったい。生あたたかくぬるぬるとした舌は徐々に伸びて何かを求めるかのように手首の上でうねる。きっと羽衣にはあたしの舌が見えているのだろう。舌を動かしながら羽衣が切なそうにくぐもった嬌声を出した。嬉しそうに愛おしそうに舌を這わせ吸い付く。唇が音をたてて離れるだびに艶かしい熱い吐息が肌をあたためた。そこにあるのはキスを通して相手と心を通わせることの喜び。行為の先にある愛情。幸せ。
いつの間にかあたしはそれを食い入るように見つめていた。これまでキスの演技をしながら心のどこかで『こんな感じでしょ』と冷めていた部分があったのかもしれない。もちろん自分の演技を客観的に見ることは大切なんだけど、そのせいでキャラクターの心情を疎かにしてはいけない。あたしには相手とのキスに夢中になれるほどの熱量が足りなかった。
「……あ、ありがと。もういいよ」
「ふぁ?」
羽衣がキスをやめて顔を上げた。その表情にどきりとする。とろんと潤んだ瞳に紅潮した頬。ついさっきまでのキスの相手が本当にあたしだったんじゃないかと錯覚してしまう。
「っ、と、とりあえず参考になったから、いったんやめにしよ?」
「……愛依は練習しないの?」
羽衣が聞いてきた。唾液でてらてらと光る唇があたしの方を向いている。ダメだ。あれを見ていると変な気分になってくる。
「て、手、洗ってくる。練習はまたひとりのときに録音しながらやるからさ」
立ち上がり台所へ向かった。あたしの態度がおかしいことに気付かれただろうか。顔が熱い。もしかしたら真っ赤になっているかもしれない。いやこれはきっとあれだ。役の気持ちに入り過ぎたから意識してしまっているだけだ。そうに違いない。
蛇口を捻って水を出す。手を洗う前にこっそりと唾液まみれになった手首を指で撫でた。ぬるりとした感触にあたしの胸が一段と大きく脈打った。
唇フェチの女子高生が自分の理想の唇を持つ女の子と出会い、最初のうちは写真を撮ったり触ったりする程度だったのがだんだんとエスカレートしていき、ついにはキスをしてしまう。一回だけという話が二回三回と増えていくうちにいつからか学校にいる間に隙を見つけてはキスをするようになった。それが単にキスという行為に溺れているだけなのか、それとも相手を好きだからこそキスをしているのかと二人は葛藤していき――。
あたしと羽衣がやるドラマCDの原作はそんな話だ。羽衣が唇フェチの女の子役で、あたしが理想の唇を持つ女の子役。
マンガではクラスメイトやキスをしていることに気付く女の子もいるけど、今回は出てこない。あくまであたしと羽衣の絡みがメインだ。だからこそ気が抜けないし全力で挑む必要がある。
「続いてのおたよりで~す」
一週間に一度のwebラジオの収録。二人で机を挟みマイクに向かって羽衣が寄せられたメールを読み上げる。
「ラジオネーム、りっぷくり~むさんからのおたよりです。愛依さん羽衣さん、こんばんは」
「こんばんはー」
「私はこの世界でなによりも女の子同士がキスをしているのを見るのが好きなんですが」
「もっと他に好きなこと見つけなさい」
「ふふ、そうだね。お二人は付き合ってからもうキスはしたんですか? もししたなら詳細を教えて欲しいです」
あたしと羽衣が付き合っているというのはファンたちの間ではお決まりのネタになっている。ベテラン声優の年齢ネタと同じく、その言葉をきっかけに羽衣と掛け合いをするのだ。
「別にあたしと羽衣は付き合ってないけどね!」
「恥ずかしがらなくていいのに~」
「恥ずかしがってない!」
とまぁこんな具合だ。
「愛依が答えたくないようなので私が答えちゃいますね~。私と愛依は……なんと……まだキスをしてません! 愛依のガードが固くて許してくれないの~」
「許すわけないでしょ」
「いけず~。そのうち無理矢理襲って私の唇でひぃひぃ哭かせちゃうから」
「…………」
羽衣の唇。リップグロスを塗っているので艶のあるピンク色をしている。あの唇がどれだけ柔らかいのか、どんなあたたかさなのかをあたしは知っている。もし、羽衣の唇があたしの唇に触れたらどんな風に感じるのだろうか。手首で感じる以上にその柔らかさに感動するんじゃないか。
つんつん、とあたしの腕が羽衣のペンでつつかれた。心配そうに羽衣が見ているのに気付いてハッとなる。しまった。本番中に何を考え事をしてるんだ。
「あ、えっと……」
「もう愛依~、本気でとらえないでよ~。そんなことしたら私が犯罪者になっちゃうよ」
「そ、そうだね、ごめん。羽衣なら本気でやりかねないなと考えこんじゃってさー」
「ひっど~い! これでも愛依のことを大事に想ってるんだから。そういうのはきちんと仲を深めてからするよ!」
「結局するつもりじゃん」
「え、キスをする為の順序の話でしょ? 何か違った?」
「まぁ、キスするなら徐々に仲良くなってからって思うけど……」
「はい、愛依からオッケーもらえました。進展あったら報告するね~」
「ちょっと!?」
「ところで今度、マンガの特典のドラマCDで愛依と百合百合するんだけど――あ、これってもう告知していいんでしたっけ? いいみたいです~。でね、内容がもうすっごいキス祭りだからみんなもよかったら買って聞いてみてね。収録はまだなんだけど、キスが難しいって愛依が嘆いてたよ」
「あんなに長いキス難しいって」
「だからキスの練習しよって誘ってるのに~」
「はいはい、時間だから次のコーナーいくよ」
「は~い。あ、ドラマCDの件は発売日が近くなったらまたお知らせしま~す」
ジングルが流れて次のコーナーが始まる。放送事故になるかと思ったがとりあえず台本通りの進行に戻れた。あたしが片手をあげて『ごめん。助かった』と合図をすると羽衣が小さく頷いた。このあたりの機転やアドリブは羽衣の方がうまい。あとで音響さんたちとマネージャーに謝っておこう。
よし、と気持ちを入れ替えてから残りのラジオに集中した。
ラジオ収録から一週間経った。
その間ずっとドラマCDの練習、というわけにもいかず、アニメの端役に呼ばれたり、それぞれ別の仕事が入ったりでなかなか読み合わせが出来なかった。それでも自主練習をかかさず、電話で羽衣と打ち合わせを重ねた。
ドラマCDの本番は明日。最後の調整の為に仕事が終わるとそのまま羽衣の家に泊まりに来た。
台本を片手に横に並んで座り、キスの部分を中心に繰り返し読み合わせをした。何回かやってから息を吐く。
「――なんかしっくりこないなー」
「愛依のキスも良くなってるんだけどね」
「やっぱりタイミングか。お互いが出すキスの音を合わせないと臨場感が薄い」
「今どんな風にキスしてるかが分かれば、もうちょっとうまく出来るかな」
「実際にキスするのは無しだよ」
「分かってるって。だから――はい」
羽衣があたしの正面に回り、右腕を差し出してきた。袖をまくり手首を露出させる。
「愛依も右手出して」
なるほど。直接キスをする代わりに互いの手首にキスをして、その感触で舌の動きなどを察知しようというのか。
「はい」
あたしも同じように右手の手首を差し出した。腕を上げてるのがつらくならないように羽衣の腕を片手で支えてあげる。
見つめ合うことしばし。どちらからともなく相手の手首にキスをした。
初めて、羽衣の肌に唇を付けた。すべすべで柔らかくて、思わずずっとさすってしまいそうだ。その柔肌に舌を這わす行為はなんというか背徳的だ。いけないと思うからこそ胸が高鳴り、もっと刺激を求めて舌や唇を動かしてしまう。
「――っ」
手首を軽く噛まれた。正面を見ると羽衣が「んー」と睨んでいる。ちゃんとこっちのキスと動きを合わせろ、ということらしい。
ごめん、と目で謝り自省する。これは演技の為に練習しているのであって、自分が楽しむためじゃない。いや、こう言うとあたしが羽衣にキスをするのを楽しんでいることになってしまう。そうじゃなくて、これは好奇心だ。好奇心は今は抑えて役に入り込み、羽衣のキャラクターと心を通わせる。そうすれば最高のキスシーンになるはずだ。
「ん、ちゅ……」
羽衣があたしの肌を吸って、離す。それに合わせて「はぁ」と息を吐く。次は舌を伸ばしてきた。あたしも舌を伸ばして手首の上で絡ませるように動かす。緩急をつけ、強く、弱く、甘噛みをされたら嬌声で応え、あたしも同じようにやり返す。
ずっと目を合わせたまま、あたしたちはキスを続けた。マンガのシーンになぞらえて抱き着くように密着して、手を繋ぎ指を絡ませた。触れ合う面積が増えるほどに相手の細かい反応が伝わってきて、それがキスへと昇華していく。反応をもらえる嬉しさと求められる嬉しさが混ざり合い、より一層あたしを夢中にさせた。
あぁ、あの女の子もこうやってキスの良さを少しずつ感じていったんだな。
納得と共感。それは役を演じるうえで大切なことだ。自分とまったく違う人物を演じるのも楽しいけど、キャラクターと心が重なったときが一番演っていて楽しい。
2時間後。顔を真っ赤にして恥ずかしさのあまり羽衣と目を合わせることも出来ずに唾液まみれの手首を洗うあたしがいた。
ドラマCD収録当日がやってきた。早めに起きて発声練習を軽くしてから二人で収録スタジオに向かう。
マネージャーと合流して音響監督やスタッフの方々、そして見学に来てくれた作者の方に挨拶をした。見に来てもらった以上これはなんとしても最高のものにしなければならない。あたしたちは気合を入れ直し、音響監督にある提案をした。それは、長いキスシーンを最後に録って欲しいということ。そしてもう一つは――。
「『ねぇねぇ、早く行こ』」
「『わかったからそんなに引っ張らないでよ』」
放課後。二人は別棟に行き誰もいない部屋を見つけると入り込んだ。ドアが閉まると同時に待ちきれないとばかりにキスをする。
「『ん……』」
「『はぁ……唇、すごい柔らかい……』」
「『が、がっつき過ぎだって! 誰か来たらどうするの!?』」
「『この唇はわたしのだからとっちゃダメだよって教えてあげる』」
きた。次が長いキスシーンだ。すでに台本は邪魔なので机の上に置いてある。
「『そうじゃな――ん、私の唇は、私の――っ、ま、待って、んん――』」
自分の手首に唇を付け、正面を見やった。マイクと机を挟んだ向こうにあたしと同じく手首にキスをしている羽衣がいた。
他のシーンはスタンドマイクで横に並んで収録したが、このキスシーンだけ机を並べて向かい合う形で座って収録してもらえるようお願いしたのだ。すべては最高のキスシーンを録るために。
「『んちゅ、はぁ、んっ、んん、っ、ぁ、んむ――』」
「『ん、はぁ、ぅん、ふっ、んん、んちゅ、ぁむ――』」
昨日散々練習したからこそ僅かな挙動で相手が何をしたいのかがすぐに分かる。たとえ触れ合っていなくても何をすればどういう反応を返してくれるのかが伝わってくる。だからあたしも羽衣もどんどん役に入り込み、声と音だけでキスをし合った。
…………。
「『はぁ……っ、はぁ……』」
「『ふぅ、はぁ……っぁ……』」
長い長いキスが終わった。音響監督からOKが出て、深く安堵の息を吐いた。
疲れた。今はその感想しかない。
「お疲れ~」
「お疲れー」
買ってきた総菜を広げてお茶で乾杯をした。羽衣の家で二人だけの軽い打ち上げだ。
「作者の方、めっちゃ喜んでたね~」
「あのキスシーン結局1分余裕で越えてたけどね」
「私も時間見るのすっかり忘れてたよ。でもほら、それだけキスに夢中になってるのが伝わってきて良かったって言ってくれたし」
「結果オーライだけど、普通のアフレコだったら絶対やっちゃダメだから」
「分かってるよ~。まぁ久しぶりに思いっきり役に入り込めて楽しかったからおっけ~ってことで」
「まぁ、ね。演ってて楽しかったのは同感」
すすす、と羽衣があたしの隣にやってくる。
「やっぱりお芝居の中でも愛依と結ばれる役はやりがいがあるよね」
「あたしは別に」
「えぇ~、今回の台本とか私めちゃくちゃ共感しながら演ってたよ? きっかけはどうあれ好きになった人の全部が欲しくなる気持ちはよく分かるもん」
「あっそ」
あたしも共感してたとは教えない。羽衣に詰め寄られるだけだ。あたしがお茶を飲んでいると羽衣が真横から覗き込んできてぎょっとする。
「食べてるときに近寄ったら危ないでしょ」
しかし羽衣は引き下がらない。にっこりと笑うと更に体を密着させてきた。
「でもさ、昨日も今日もキスシーンやってて思ったけど、愛依も結構本気だったよね?」
「そういうキャラだったからね」
「そうかなぁ? あの目はぜぇったい、本心からキスしたがってたよ」
「キャラの心情を考えたらそうなって当然」
「ふ~ん」
気付くと羽衣の顔が目と鼻の先まできていた。色艶のいい唇が視界に入り、どきりとする。
「な、なに?」
「てっきり愛依も私と一緒で、本当にキスしたい、って思ってくれてる気がしたんだけどなぁ」
「…………」
思った。羽衣と本当にキスしたらどうなるんだろうって。舌と舌が触れ合ったらどれだけドキドキするんだろうって。手首にキスをするだけであんなに興奮したのに、唇同士だったらきっと取り返しのつかないことになる。
羽衣が口端を上げて切なそうに優しく笑う。
「ダメだよ愛依。そこで言いよどんだら、私期待しちゃうよ……?」
羽衣の唇が近づいてくる。逃げようと思えば逃げられるのに、あたしの体は動かなかった。本当に認めたくはないけど、どうやらあたしも羽衣とキスをすることを受け入れてしまっているようだ。
これはあたしの意思じゃないから。キスシーンを完成させるのに一緒に頑張ったし。お礼と考えればまぁキスくらいさせてあげてもいいんじゃないか。
頭の中でぐるぐると言い訳を並べ、目をつむり羽衣の唇を待った。
ちょん、と鼻の頭に何かが触れて目を開ける。いたずらっこのように羽衣が笑った。
「襲ったりしないって言ったでしょ~。無理矢理唇を奪うなんてことはしませ~ん」
その無邪気な笑顔にちょっとムカっとした。人がせっかくキスしてもいい心構えを作ったというのに最後の最後で日和りやがって。
そこからのあたしの行動は衝動的だった。
ご機嫌で総菜に箸を伸ばす羽衣をこっちに向かせ、その唇にキスをした。あたしが目を閉じる直前、羽衣の驚いた顔が見えて『ざまぁみろ』と思った。二人とも固まったまま数秒経ち、静かに唇を離す。
唇の外側で触れただけとはいえその柔らかさは伝わってきた。舌を入れなかったのはよく我慢したと思う。もし入れていたらすんなりと唇を離せていたかどうか。
「……まぁこれはあれよ。満足のいくキスシーンを作れたお礼っていうか……」
ふと羽衣の様子を窺うと、床にへたりこんだまま口を両手で覆っていた。
「大丈夫?」
羽衣が小さくコクコクと頷く。耳まで真っ赤になったその姿はさっきまであたしをからかっていた人物と同じだとは思えない。
「あれだけキスしよキスしよって言っといていざ自分がされたらそんな乙女みたいな反応して」
「だ、だって、ホントにしてくれると思ってなかったから……!」
「じゃあ襲うフリなんかしなきゃいいのに」
「いじわるしたいけど嫌われたくない複雑な乙女心なの!」
「あーはいはい。ほらさっさとご飯食べよ」
「胸がいっぱいで食べられない……」
この子はホントにもう。呆れるやらほっとするやらでキスのドキドキもどこかへ行ってしまった。
放心状態の羽衣はほっといてひとりで晩ごはんを食べ進めていると隣からおずおずと質問があがった。
「あの、これからは私も好きなときにキスしていい、の?」
答えはすでに決まっているのにあたしは精一杯いじわるな笑みを浮かべてみせた。
「さぁー、どうしよっかなぁー?」
恋愛が演技の役に立つのかはあたしには分からないけど、多分あたしの演技の引き出しは着実に増えていっている。不本意ながらこの恋人のおかげで。
「あ、そうそう、あたしとキスしたことツイッターとかにあげないでよ。絶対変な盛り上がり方するから」
「さすがにしないよ~……あ」
「どしたの?」
「ツイッターのTL見てたらうちの事務所が動画あげてたんだけど」
「なんの動画?」
「今日録ったキスシーン」
「は?」
慌ててチェックするとブースの中でマイク越しに見つめ合うあたしたちがいた。音声も聞こえてくる。艶かしい音の数々は本当にあたしたちがそこでキスをしているかのようだ。
録画をしたのは誰か。音響卓であたしたちを見守りながらネット上にアップしていいかの許可を取れて事務所のツイッターアカウントを使える人物……。
「マネェェジャァァァーーー!!」
電話を掛けるとコール音のあとにすぐ『プー、プー』と切れた音になった。意図的に着信拒否をしてやがる。
「リツイートしーとこ。コメントは『キャー///』かな~。愛依もリツイートしなよ~」
したくない。したくはないがすでにあたしたちのファンが動画に対していいねや様々なコメントをしている。ドラマCDの宣伝と考えればこれ以上はないだろう。
「……『観るな』にしとくわ」
この日からファンの間であたしたちのことをエロいキスの百合の人と呼ぶのが流行ったとか流行らなかったとか。
終
pixivの第二回百合文芸コンテスト応募作品。
久々の百合声優コンビ。キャラ的には結構気に入ってます。
実際は一人収録も多いしキス音を出す練習なんて自分でするしかないと思いますが、こういうのもあっていいんじゃないかなぁと。
この二人はこれからずっと違う方法(意味深)で練習するんでしょう。