第10話 緊急事態
水浪と協力して白土をあやすことに成功した。
「えへー、凌君とフラーちゃんに挟まれてるっ」
白土は思いのほかすぐ泣き止んだ。今は俺と水浪を両サイドに置き、ご満悦な様子で折り紙をしている。
簡単に泣き、簡単に泣き止む。感嘆だね。喜怒哀楽の移り変わりが山の天気並みに変化する奴だ。
羨ましいよ。俺はグッタリしているよ。
「帰りたい……家に帰りたいし、秘密を知らなかったあの頃に戻りたい」
「人は過去を振り返ることは出来ても過去に戻ることは出来ないです。ですから帰るのではなく変えることを考えてやがれです。未来を変える、それが人間です」
「急にどうした水浪」
何だこいつ、エッセイみたいなこと言いだしたぞ。
ソファーから動けずに項垂れ呆ける俺に対し、水浪はスッと立ち上がった。俺とこいつの指導係としての経験値の差が一目瞭然だ。
水浪は女の子らしい科を作って笑うことなんてせず、無愛想な顔と睥睨に近い冷々とした目つきでこちらを見下ろす。
「刄金凌、私は喉が渇きました」
「廊下を出て右の広場に行くといいよ」
「ウォータークーラーの位置は入学初日に把握済みです」
俺の言いたいことがよく分かったな。すごいや。
「たまには水以外が飲みたいです」
「さっき百円あげただろ」
「刄金凌はアホです。百円でジュースは買えません」
「残り数十円も払う気はないのね」
「払う気ではなくお金そのものがないです。何度言わせるつもりです? 刄金凌は大アホです」
「はあ~……はい二百円」
「刄金凌は良い人です」
「手のひらを返す速さがスポーツ観戦するおっさん並みだな」
なんでおっさんは数秒前まで「打てないなら試合に出るな!」と貶していたくせに、いざ打ったら「さすが! 信じていた!」といった賛辞をいけしゃあしゃあと言えるのだろうね。
ウチの親父もそうだ。しかも親父は家ではなく球場でそれをやっていた。二度と親父とは観戦しないと決めた小五の夏。
嫌な思い出は強制シャットダウン。俺が小銭を渡すと、水浪は涎を垂らしながら早歩きで扉に向かい、生徒指導室から出ていった。
「では行ってきます」
心なしか足取りが軽快で、淡々とした口調も弾んでいたように感じた。
ジュースを飲めるのが嬉しくて仕方ないのだろう。小銭を渡しただけで涎を出すとは思わなかったし。感情が昂ぶると涎が出るんだっけ? パブロフの犬かよ。
お互い頑張ろうぜ。俺は帰る為に、水浪は自費でジュースを買える為に、白土を変える。上手いこと言った。どやー。
「二人にサンドイッチされてわたし嬉し……フラーちゃん? ふ、フラーちゃんが消えた! 姿くらまし!?」
ドヤ顔をする暇もありゃしない。
夢心地だった白土は水浪の退室に気づかず慌てふためく。
「水浪はすぐ戻ってくるし、姿くらましではない。未成年は姿現しの魔法を使っちゃいけないだろ?」
「あ、そうだったねっ」
「言って何だが、今ので納得するはどうかしているぞ」
「安心したから折り紙を再開っ」
「いや勉強しような? なあ頼むよ。とりあえず俺の方を見て」
「凌君を? こう?」
そう言って白土がこちらを見る。うへえ、やっと落ち着いてくれた。
気を取り直して勉強スタートだ。俺は教科書を開く。
「数学をやる。白土も教科書を出せ」
「凌君と目が合ってる……凌君、凌君凌君凌君~っ!」
取り直した気が霧散した。俺は開いたばかりの教科書を放り投げ、ベタに手を額に添える。
放置したら勝手に遊び、目を合わせたらトリップする。制御不能だ。
この暴走ぶりと扱いにくさはさながら、腕を交差させて自転車のハンドルを握り坂道を下るに匹敵する。一度やったことあるけどあれは冗談抜きで危ない。良い子は絶対にしちゃいけないぞっ。
「凌君がグッタリしてる。そんな凌君もカッコイイ!」
「目もどうかしている。眼科に行ってこい」
「なんで? わたし視力は2.0だよっ。えっへん!」
「俺は気力が0.01だよ。ああ水浪、早く戻ってきてくれ……ん?」
俺の弱々しいツイートに反応するかのように、扉がコンコンと叩かれた。
良かった、水浪が戻っ……。
いや待て。違う。水浪ではない。
早く戻ってきてくれと願ったが、ジュースを買ってきたにしては早すぎる。そもそも水浪ならノックはしない。
てことは、ドアの向こうに立っているのは水浪ではない誰か。一般の生徒がここに入ろうとしているってことだ。
そして水浪は部屋を出る際、鍵を閉めていかなかった……。
「あ、ヤベェ」
「凌君?」
白土がポンコツなのは誰にも知られてはいけない。今の姿を見られたら一発でアウトだ。
また、俺が白土の彼氏教師をやっていることも知られてはいけない。だってそうだろ? 高嶺の花と付き合っていることが男子にバレてみろ、俺は酢豚のパイナップルみたく爪弾きされてしまう。
緊急事態だ。俺は小さな声で指示を出す。
「声を出すなよ」
「分かったっ!」
出すなって言ったばかりだよな!? このポンコツぅ!
「ど、どうするんだよ。もう入ってくるぞ」
「落ち着いて、こういう時は深呼吸っ。食って~、吐いて~っ」
「それを言うなら吸って吐いてだ。食って吐く? 胃が受けつけていないだけじゃねえか」
「そんなこと言っている場合じゃないよ?」
あぁん!? お前が余計なこと言ったんだろうが!
「隠れるぞ。こっち来い」
「ひゃうぅ?」
白土の手を引っ張り、室内を見渡す。俺の眼球がんばえー、今日も右へ左へシャトルランだ。
時間がない。もうじき誰か入ってくる。
扉を塞がれている以上、脱出は不可能。姿くらましは未成年だから使用を禁じられている。つーか姿くらましの魔法使えねえよ。
つまり室内のどこかに身を隠すしかない。俺と白土、二人が隠れられる場所を……。
……いや? そうじゃない。
「白土はここに隠れていろ」
俺は白土を壁と本棚の裏側に押し込む。
「凌君は隠れないの?」
「俺はいい。いいか? ぜーったいに物音を立てるなよ」
強めに注意すると、白土も現状を理解しているらしく、瞼をパチパチとさせて頷いた。あ、それ可愛い。言っている場合か。
俺も頷き返した後、急いで出入り口へ向かう。
「入ってもいいですか~?」
間一髪だった。俺が扉の前に立つと同時に扉が開かれた。
「ど、どうぞ……って日暮?」
「……あ、刄金君だ~」
そこにいたのは俺がちょいと気になる女子、クラスメイトの日暮だった。あら可愛い。だから言っている場合か。
「よ、よう日暮。こんなところに何の用事だ」
「……刄金君こそどうしてこんなところにいるの~?」
日暮は俺を見て一瞬だけ驚いたが、すぐにいつもの屈託ない笑みを浮かべて眠気を誘う色気ある声音で話しかけてきた。
まあそれ聞いてくるよね。そうだな……。
「俺は先生にここの掃除を頼まれたんだ。生徒指導室なんて滅多に入れないから思わず引き受けてしまったよ」
咄嗟にしてはそれっぽい理由を返せた。俺は嘘をつくのが上手いかもしれない。変化系だな。
日暮は首をコテンと傾げて口を開く。
「そうなんだ~。でも、刄金君一人だけ? 中から声が聞こえたよ~な気がしたよ」
やはりこうなった。だと思ったよ。
俺は心の中で拳を掲げる。日暮の可愛い仕草を真正面で見られたことに対する喜びと、自分の選択が正しかったことに対するガッツポーズだ。
考えたよ。俺も白土と一緒に隠れてやり過ごそうと。ラブコメでよくある展開だよね。
そうするつもりだったが、寸前で踏みとどまった。
二人で隠れた場合、室内に誰もいないことになる。声が聞こえたのにそれはおかしい。日暮は不審に思い、室内を探すだろう。すると俺と白土は見つかってジエンド。
よって白土だけを隠し、俺は隠れないことにした。それで正解だった。
危ねえ。ファインプレーだろ俺。ナイス俺。素晴らしきかな俺っ。
まあ自画自賛はあともう一つ山を乗り切ってからだな。
俺は明るく大きな声で日暮の疑問に答える。
「実は俺、独り言が激しいタイプなんだ」
「あ~、そ~いう人いるよね~。痛い人だよね~」
「毒を吐くなよ日暮~、バッカお前、この野郎~」
「? なんか刄金君が変だ~」
「あはは~!」
白土は言いつけを守って物音を立てない。あいつなりに気配を消して息を潜めてくれているのだろう。
この窮地で何かしらのポンコツを発動させないことを祈り、俺は俺でやるべきことをやる。
入室されたら見つかる可能性が爆上がり。なら一歩も先には進ませない。出入り口で日暮を追い返そう。
「話を戻すが、日暮はどうして生徒指導室に来たんだ?」
「あたし? えっと……刄金君と一緒に帰りたかったの~」
「俺と帰りたい……?」
予想外な返事がきた。
一緒に帰ろうって……え、一緒に!?
「俺はまだ掃除が」
「ある程度やればだいじょ~ぶだよ。たまには一緒に帰ろ~よ」
なんてことだ。予想外すぎる。バレるバレない、その問題を吹き飛ばす新たな緊急事態が発生。
日暮が一緒に帰ろうと言ってきた。俺を誘ってきたのだ。
これは嬉しい。うわ、すげー嬉しい。豆史から誘われるのとは価値がまるで違う。
恋心を抱く女子からのお誘い、これを断る男子はいない。
頷きたい。うんと言いたい。日暮と一緒に帰りたい。寄り道して遊びたい!
「ええと……」
「刄金君?」
でも白土が……。
いやでも、後のことは水浪に任せればいい。俺はこのまま日暮と帰っても問題ないはずだ。
……ぐぐ、で、でも……。
俺は首を縦に振……らなかった。
「悪いな。掃除は最後までやる」
「え~?」
「また今度一緒に帰ろう」
「ん~、分かった。また今度ね。約束だよ~?」
「おう」
今度は大きく頷き、俺は日暮を見送る。
日暮は少し不満げだったが、元の表情に戻って俺にバイバイと手を振って去っていく。
廊下の角を曲がり、愛くるしい姿は見えなくなる。
直後、俺は地べたに膝と手をつく。
あ。
ああ。
やっちまったあああああ!
馬鹿。俺の馬鹿。大アホ!
せっかく日暮と一緒に帰れるチャンスだったのに、なんで断ったんだ俺は!
「馬鹿。大馬鹿。大アホぅ……!」
「這いつくばって何をしてやがるのですか?」
戻ってきた水浪が幸せそうにストローを啜りながら俺を見下ろしていた。
「放っておいてくれ。俺の気力は0.00になった」
「日暮香織がいましたね」
「お前がいない間に俺はすげー頑張ったんだ。少し休ませろ」
「私がいない間に何があったか知りませんが、さっさと優里佳様をあやしやがれです」
「はあ? 白土なら何も問題な……なんで泣いているの?」
生徒指導室の中を見ると、本棚の裏から出てきた白土が唇をぎゅっと結び、瞳いっぱいに涙を溜めてこちらを見ていた。
「り、凌君、わたし、ちゃんと言いつけを守って静かに、えっぐ、していた、よ」
「お、おう? そうだな」
「でも凌君は、香織ちゃんといっぱいお喋りしてた……」
「……? それがどうした」
「香織ちゃんとお喋りしてる凌君は楽しそうだった。わ、わたしより香織ちゃんの方が……びえーん!」
「は、はあ? 日暮と話していたのはお前を隠す為であって」
「ぐえーん! ぐわーん! 凌く、ぐすっ、ひゆううぅ……!」
……この光景、さっきも見た覚えがある。
白土は大泣きする。溜まっていた涙が大きな雫となって頬を伝わらず直接床に落ちていく。
「はあ~……水浪、泣き止ますのを手伝ってくれ」
「二百円です」
「このやり取りは今後も高頻度でやる予感がするよ」
少し休む暇もありゃしない。
水浪に小銭を投げつけ、白土の元へ向かう。
あー、なんだろう。色々言いたいけど、今日はもう勉強はしなくていいやと思います。




