35 心
触れてみたくて手を伸ばす。
だけれど、壁に阻まれ触れることは叶わない。
指先に触れたヒヤリとした鏡の感触に、ふと我に返り鏡ではなく自分の頬に手を伸ばすと、鏡に映る姿もまた頬に手を伸ばしていた。
間違いなく映っているのは自分だ。
「―――っ! くっ!?」
最後に残った気力を振り絞り鏡から目を背け、壁に手をつく。
「……ハァっ! ハァっ! ゲホッ!」
我に返って自分が息をするのを止めていた事も理解し、咳をして呼吸の仕方を思い出す。
咳をしたおかげで更に自我を取り戻し、無我夢中に外していた布を探して手に取り急いで顔を隠す。
顔を隠したことで『封印』と同じような意味を持っているような気持ちになり、ようやく冷静に考察する頭が働きだした。
余りに日本に居た時とは違う顔。
その顔の作りは想像とは180度違っており。驚愕の度合いは想像と360度違っていた。
まさか自分が『あ。パンツ脱ぎましょうか?』と思ってしまう日が来るとは思ってもみなかった。
「お、恐ろしい……」
初めて出た言葉はそれだった。
それ以外に出るはずもなかった。
男の顔であるにもかかわらず性欲が刺激されパンツを脱ぎたくなったのだ。
そしてそのパンツを脱いだ理由が、攻めだったのか受けだったのかすらもわからない。ただ自然とパンツを脱ぎたくなったのだ。
つまり『パンツを脱いだ相手に任せる』そういう風に自然と思っていたということ。
掘るか掘られるかではなく、正しくまな板の上の鯉状態。もう好きにしてという心理。
ノーマルで女の人が好きだと思っていた自分にとって、こんなにも恐怖を感じる事はない。
そしてハっと気づく。
「これが……女の人だったら……」
ピンク色の妄想が広がり始めそうになった瞬間、真っ暗闇へと変わる。
なぜなら、もう既に女の人に顔を見せていたことを思い出したからだ。
街に入る前の少女と、そしてフリーシアに――
「あぁ……」
暗闇は更なる深淵へとその深さを変える。
フリーシアは自分に対して好意を抱いていた。それは疑いようがない。
財力が目当てかと思ったけれど自分の顔を確認して納得した。
彼女は、この顔が好きなのだ。と。
そして、その事実に気づくと同時にもう一つ気が付くことがあった。
街に入る前に顔を見た少女が、フリーシアと似ていたことに。
「あ……あぁ……」
その事実に更に心が納得する。
フリーシアは、あの時あった少女で、この顔を見たからこそ最初から好意があったのだと。
自分自身パンツを脱ぎかけた事からして、フリーシアの行動に納得できた。
もし自分が女だったら探し回って追いかけ、そして迫っただろうからだ。
膝から崩れ落ちる。
納得できてしまったからこそ辛い。
「……うっ……うぅっ…」
悲しかった。
ただ、悲しかった。
好きになったフリーシアの好意はマコトという人格にではなく『神様の作った肉体』に向けられていたのだ。
そしてマコトという人格に対してフリーシアが向ける態度は、街に入る前に向けられたような胡散臭い人間を見るような態度こそが相応しいのだと。
「あぁあ……」
気が付けば床に手をついていた。
好きになった相手。
その相手が好きなのは『自分』ではなく『入れ物』の方なのだという真実。
その真実は辛く厳しい現実過ぎた。
好いた相手には、自分自身を、マコトという人格を好きになって欲しかった。
だけれど、それはもう叶わないのだ。
なぜならこの神の作りし入れ物の美しさは、どんな人格であろうと好きになってしまう程に美しいからだ。
だからこそ、この初恋は、自身の望む恋。
心と心で繋がりあう恋愛にはなりえない。
ただ望むは相手の心に魅かれ、絆を結ぶ恋愛。
だがこの顔の前では、それは叶わない。
そして取返しもつかない。
つまり、この初恋は失敗したのだ。
「フリーシア……さん……」
希望の光が失われたことで目元に水分が生まれ、布に吸収され蒸発する。
だが、心にはまだ希望の光はあった。
もう一人好きになったアリサという希望が。
彼女の態度はひどく、自分に好意があったとは思えない物。
だからこそ彼女と、顔の力に頼らずに恋人になれたとしたら、それこそがきっと心と心の繋がりを土台としての恋愛。
マコトという自分自身を好いてくれているという確信を持てるように思えた。
「アリサ……さん。」
フリーシアに傾いていた好意の天秤は、今、大きくアリサに傾いた。
自分の顔を見られないように注意を払いながら親しくなることを心に誓う。
珍しく決断が早かった理由は、神の作りし入れ物の美しさという恐怖に駆られてのもの……そして、アリサはフリーシアと違い、YESロリータNOタッチを気にする必要がなく『触ってもいいよ』と言ってくれたように、タッチOKな事が大きかった。
「……よし。」
立ち上がり、気合いを入れる。
だが目の前には鏡があった。
「…………………もういっかい……見てみ………いやいやいやいやいや! 危険! 危険でござる!
…………でも………………でもぉ……でもぉん!」
結局長時間悩み続けた結果、再度チラ見してやっぱり息が止まったので、後ろ髪惹かれつつも、男に対してパンツを脱ぎたくないという欲求を信じて鏡を外してもらうことをお願いする決意を固めるのだった。
--*--*--
塞ぎこむのは久しぶりだ。
私は一度落ち込むと、なんでも悪い方にばかり考えてしまう。
そして、この気分の時には、お父さんが帰ってこなかった日のことを思い出してしまう。
いつも暗くならない内に帰ってきていたはずのお父さんが帰ってこない。
ただいつもよりも帰りが遅いだけ。
そう思おうとしても、なかなか胸騒ぎが止められなかった。
お父さんは、危ない狩りはしない。
何かアクシデントがあって、ちょっと遅れているだけ。
きっと狩りが終わって昔の知り合いと会って出かけることになったとか、そういったことだ。
そう思おうとした。
だけれど、外の暗さが増し、身体に感じる温度が低くなると、その暗く冷たい闇の広がりと共に胸のざわつきは自然と大きくなり、そして言い知れぬ不安へと変わっていた。
ハンターの職には危険が付きまとう。そのことは誰しもが知っている。
命を狩る者は狩られる者との勝負に挑むのだから、どんな狩りの相手であっても油断することはできない。
そう教えられて育ったからこそ、危険は理解しているつもりだった。
ただどこかで、そう教えてくれたお父さんは大丈夫だと思っていた。
だからこそ帰ってきて、いつものように笑い「遅くなった」と声をかけてくれるのを信じて、刻々と暗くなる外を家から眺め、近づく足音が無いかに気を配った。
だけれど、その日……お父さんは帰ってこなかった。
眠れない夜。
考えたくもない万が一のことを考え、目の前が夜の闇のように暗くなっていく。
気持ちは一時として落ち着かず、無駄に焦る。だけれどもどうすることもできない。
一睡もできずに迎えた翌朝。
何人もの足音が近づいてくるのを感じて目を向ければ、見知ったハンターギルドの男の職員と、疲れた顔をした若い女の姿。
彼女は私の名前を確認し、そして次にお父さんの名前を確認し、そして言った。
「私を恨んでほしい。憎んでほしい。」と。
彼女の口からお父さんが帰らないことが告げられ、その理由も告げられた。
呆然とする私に彼女は「代わりは私が務める」と言い放ち、周りが止めたにも関わらず彼女と私は生活を共にすることになった。
12歳の子供だった私は、頭のどこかで彼女のことを憎むのは筋違いであり恩を感じるべきだと知りながらも、感情の向かうべき先を彼女以外に向けられず、何度も彼女が夜、一人で隠れて涙を流すほどに傷つけた。
私もそれを見て傷ついたけれど、それでも矛先を変えることはできないまま、時だけが無情に流れてゆく。
彼女はそれでも私を前にしている時は親代わりに笑顔を作ってみせ、そして危ない事をすれば真剣に怒ってくれた。
お父さんの代わりとして、彼女は立派に私を育ててくれたのだ。
1年が過ぎた頃に、私が口を滑らせて『姉さん』と言ってしまった時。
二人で笑い、そして泣いて。私達は本当の姉妹になった。
それからは二人で力を合わせて生きてきて、私は今年で19になる。
彼女……テオが私の姉になったのも19の時だ。
テオが私と同じ年の時、彼女は立派な人間だった。
――なのに、私はどうだ。
未だ守られる子供と一緒。
年だけを取って、まるで成長していない。
今回のことも、命を救われて恩を返すべき相手がいるのに、その命を救ってくれた人が、自分の中の強い男という男性像と違う事。
『守る』と、いつも前に立ち、立派な背中を見せてくれていた父親と、あまりに違うことから勝手に不満を抱いて不貞腐れ。自分の理想を押し付けんと絡み、あまつさえテオの前で売女のようにはしたない振る舞いをした。
自分で自分の情けなさに嫌気がさす。
テオは絶対に自分の育て方が悪かったのだと自分を責めているはずだ。
そう思い、ふと外を見れば暗くなり始めていた。
夜の闇から言い知れぬ不安が心に這い寄りはじめ、その怖さからたまらず部屋を出る。
部屋を出ると、廊下の先に明かりが見え、光を求めて近づくと台所のテーブルにテオが腰かけていた。
テオは私を見て、悲しそうに眉尻を下げて立ち上がる。
「なんだか……貴方のそういう顔を見るのも久しぶりね。」
そういって手を広げたテオに、私は何も言えなくなり、ただ近づいてその手に抱きしめられる。
抱きしめられた時に彼女の胸に当たっていた顔は、今はもう彼女の顔よりも少し高い。
テオの肩に顔を置く。
それだけで心にかかった闇が少し晴れるような気持ちになってくる。
「落ち込むと、一気にとことん落ち込むのは悪い癖よ。アリサ。」
テオが抱きしめた手を動かし、優しく私の背中を叩く。
「ゴメンね。姉さん……」
姉の肩に顔を埋め、腰に手を回す。
「私……どうしたいんだろ……」
思ったことが、なんのフィルターも通さずに口から漏れていた。
「何に対して?」
「……わかんない。」
「そう。」
また優しく私の背中を叩き、そして顔を離した。
「じゃあ一緒に考えましょう。アリサはいつも考えすぎるから。」
そういって微笑む姉の顔を見て、私も小さく、優しい姉に情けない笑顔を返すのだった。




