最後の部屋
ピンポーン
「あら、旦那が好きなのよ、どうもありがとうね三竹さん。ふふ、ごめんなさい、このハイツに入居する時に説明を受けたと思うけど、一応防犯のために表札を外しちゃってるの。でもふとした時に不便よね」
私と一回りも離れていないので、同世代のような親しさが湧く。優しく気な柔和な顔立ちや長く伸ばされた綺麗な黒髪、その母親然とした雰囲気と対照的にちろっと今にも舌を出しそうなお茶目な感じが若々しい。
「もしかして今日はこれから何処かへ? 邪魔しちゃってすみません」
「ふふ、ええそうなの。ちょっと遠出をする予定で少し早く――きゃっ」
突然よろめいたので咄嗟に体を支えた。見れば3歳くらいだろうか、可愛らしいけどやけに無表情な男の子がじっとこちらを見ていた。しかし、昨日の様な不快感はなく、こども独特の見透かすみたいな透明な目だ。
「もう、急に抱きつくのは止めてっていっつも言ってるでしょう? 三竹さんごめんなさい、支えてもらちゃって。もうあなた! 目を離さないでって言ったのに!」
旦那さんの謝る声にもう!と怒っているが、その間も丁寧にゆっくりと息子さんの頭を富さんは撫でていた。ひと撫でひと撫で、労わるように大切に大切に撫でられる。口では叱りつつも、その目も態度も全身で息子さんを愛しているのが容易に伝わってきた。
「可愛らしいですね。ぼく、お姉さんにお名前を教えてくれないかな」
怖がられないようにしゃがんで目を合わせるが、目線は合うのに目が合っているという気はしなかった。案の定眠くてぼんやりしてしまっているのか、だんまりされてしまう。ちょっと落ち込んでいると、上から申し訳なさそうな声が降ってきた。
「ごめんなさい、この子は命って言うのよ。命と書いてみこと。私達夫婦のようやく授かった大事な宝物って意味で名付けたの。……実はね、もう最後にしようって決めてた不妊治療の時に出来て、でも高齢出産だったり私が病気貰ってたり難産だったりでね、何度も医者からは無理だ諦めろって」
命君の頭の上から、カサついた指先が掬うように髪を絡めては下ろされる。
「でも諦められなかった。命を産めるなら死んでもよかった。ふふ、ほんとは出血多量と衰弱でどっちも死んでただろうって言われたぐらいなのに、神様の気まぐれか、今ではこうして家族3人で元気に暮らせているの」
「すごい…、です、ね」
慈しみが溢れた態度と壮絶な過去に、陳腐な言葉しか返せない。
「急にこんな話しちゃってごめんなさいね。ふふ、少し体が弱くて、覚えるのがゆっくりなところがあるけれど、生きていてくれるだけでいいの」
「そう、ですか」
母親の言葉をどう思って聞いているんだろうか。表情を変えないその透明な瞳を見て、何とはなしに私も頭をひと撫でして帰ろうと手を伸ばす。
くしゅん
パシッ
「え」
瞬間、思わず痛みよりも驚きが優ってぽかんと見上げてしまった。富さんも反射だったのだろう、同じように一瞬驚いたあと、慌てて謝罪が降ってくる。くしゃみをした命君はもう一度小さくくしゃみをした。
「ごめんなさい、急にでびっくりしてしまって。痛くなかった?」
「あ、はい大丈夫です。そりゃ母親ですし、急にこどもに手を伸ばされたら驚きますよ」
なんか少しぎくしゃくしつつ、空笑いをしながら私はその場を離れようとした。
「あの、三竹さん、お聞きしたいことが」
「はい、何でしょう」
笑っている冨さん。その笑顔に何故か妙な違和感を覚えて、その違和感の場所が分からないのが気持ち悪く感じる。虫が服の中に入った様な妙な這いずる気持ち悪さを、私は表情の下でそっと押さえた。
「もしかして何か――」
「おおーい、準備出来たぞー! 後はお前だけだ、命を待たすなよ~」
瞬間、ぱちんとシャボン玉が弾ける様にぱっと富さんが目を瞬かせた。その瞬間、私も違和感の正体を掴み取る。
「ええ、すぐ行きますわ。三竹さんごめんなさいね、私実はまだ用意が出来ていなくって」
「いえいえ、長居しちゃって此方こそすみません。楽しんできてくださいね」
「ええ! ありがとうございます」
「それじゃあ」
ドアが閉じられる。夫婦の仲睦まじそうな声が漏れ聞こえる。
みィーんみんみんみん
1歩離れて現実の蒸し暑さと蝉の姦しさに目を向けた。
這いずり回った虫の正体、最後の富さん笑顔
それはまるで能面のように――